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	<title>イ・バンウォン</title>
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	<item>
		<title>趙英珪（チョ・ヨンギュ）は実在？【鄭夢周を暗殺した功臣】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 20 Mar 2024 08:07:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
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					<description><![CDATA[鄭夢周を善竹橋で殺害した人物として知られる趙英珪（チョ・ヨンギュ）。ドラマでは武人として描かれることが多い人物ですが、史料を確認すると実像は少し異なります。 この記事では、史実から伝わる暗殺の状況、殺害時の官位など趙英珪 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>鄭夢周を善竹橋で殺害した人物として知られる趙英珪（チョ・ヨンギュ）。ドラマでは武人として描かれることが多い人物ですが、史料を確認すると実像は少し異なります。</p>
<p>この記事では、史実から伝わる暗殺の状況、殺害時の官位など趙英珪の意外な人物像に迫ります。</p>
<h2>趙英珪が実在した記録｜史料で伝わる鄭夢周暗殺</h2>
<p>趙英珪（チョ・ヨンギュ）が<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/chonmonzyu-kakeizu2383/">鄭夢周</a>を暗殺した記録は『高麗史』と『朝鮮王朝実録』の両史料に見ることができます。</p>
<p>『高麗史』には、恭讓王4年（1392年）4月4日に趙英珪が殺害したと記されています。</p>
<blockquote><p>判典客寺事趙英珪等，殺守侍中鄭夢周<br />
＜高麗史卷四十六：恭讓王4年4月4日の条＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞判典客寺事の趙英珪らが、守侍中の鄭夢周を殺害した</div>
<p>また、『朝鮮王朝実録』の『太祖実録』にはその時の様子が詳しく記録されています。</p>
<blockquote><p>夢周至, 英珪馳擊不中, 夢周叱之, 策馬而走。 英珪追擊馬首, 馬蹶, 夢周墜地, 起而急走, 呂等追殺之。<br />
＜太祖実録巻1：総書131条＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞夢周が到着すると英珪が突撃したが外れ、夢周は叱りつけて馬で逃走した。英珪が馬首を打つと馬が倒れ、夢周は落馬して走ったが、高呂らに追われて殺害された。</div>
<p>趙英珪が鄭夢周を殺害したとき、『高麗史』では判典客寺事と記されており、これは正三品の上級官僚でした。</p>
<h2>なぜ上級官僚が暗殺を実行したのか？</h2>
<p>趙英珪が正三品の官僚でありながら鄭夢周殺害を実行した理由は、史料上明確には記されていません。</p>
<p>ただし、<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/lee-sung-ge-kakeizu2224/">李成桂</a>の勢力は武人を基盤としており、官位を持つ者も軍事行動を担う存在でした。そのため、上級官僚であった趙英珪が実行に関わったことは、王朝交代期の政治状況の中では特別不自然なことではありません。</p>
<p>しかし、これは史料から直接確認できる事実ではなく、暗殺に至る具体的経緯は現在も不明のままです。</p>
<h2>実在した趙英珪はどんな人物？</h2>
<p>趙英珪（チョ・ヨンギュ）は平民出身と考えられ、李成桂の配下として軍功を重ね、出世した人物です。朝鮮建国以前から李成桂に従い、戦功によって官職を得た典型的な武功官僚の一人でした。</p>
<h3>趙英珪のプロフィール</h3>
<p>趙英珪の私生活に関する史料はほとんど残っておらず、家族関係や出生については多くが不明です。現存史料から確認できる基本情報は次の通りです。</p>
<div class="primary-box">趙英珪（チョ・ヨンギュ）<br />
初名：趙評<br />
生年：不詳<br />
没年：1395年<br />
氏族：新昌趙氏<br />
父母：不詳</div>
<h3>趙英珪の家族</h3>
<p>妻は名門延安車氏一族の車堅質の妾であったと伝えられています。息子には趙珠・趙仁・趙祐の三人が確認できますが、成人後の活動については史料上ほとんど分かっていません。</p>
<h2>趙英珪の家系｜新昌趙氏の始祖・趙英珪</h2>
<p>趙英珪（チョ・ヨンギュ）は朝鮮建国に功績を立てた開国功臣であり、新昌趙氏の始祖とされています。新昌とは本貫の地名を指し、現在の忠清南道牙山市新昌面にあたります。ただし、趙英珪の死後における家系の詳細については、史料に残る記録は多くありません。</p>
<h2>趙英珪の生涯</h2>
<p>趙英珪の幼少期については史料がなく、その出自や若年期は不明です。彼の存在が史料に現れるのは、李成桂配下として軍事活動に参加して以降です。</p>
<h3>倭寇の討伐で戦功を上げる</h3>
<p>1385年頃、趙英珪は李成桂とともに倭寇討伐に参加し、戦功を重ねました。この時すでに判衛尉寺事（正三品）に任じられており、単なる兵士ではなく高位官僚として活動していたことが分かります。</p>
<h3>鄭夢周を殺害する</h3>
<p>1392年4月、趙英珪は<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/bangwon-kakeizu2154/">李芳遠</a>の命令を受け、善竹橋で鄭夢周を殺害しました。この時、彼の官職は判典客寺事（正三品）であり、上級官僚が政治的暗殺の実行者となったことは注目すべき点です。</p>
<p>李芳遠と趙英珪の出会いは史料に明記されておらず不明ですが、趙英珪が李成桂の邸宅に出入りしている時だったと推測されます。</p>
<h3>開国功臣に選ばれる</h3>
<p>1392年7月、朝鮮王朝が建国され李成桂が即位すると、趙英珪は建国への功績によって開国功臣二等に選ばれ、禮曹典書（正三品）に任命されました。これは新王朝成立において重要な功績を認められたことを意味します。</p>
<h2>趙英珪の最期</h2>
<p>1395年、趙英珪（チョ・ヨンギュ）は病気で亡くなり、參贊門下府事（正二品）に追尊されました。</p>
<p>『太祖実録』には次のように記されています。</p>
<blockquote><p>禮曹典書趙英珪卒。 英珪初名評。 從上潛邸, 屢立戰功, 國初, 與於功臣之列, 至是病卒。 贈參贊門下府事, 致賻以厚。 子珠、仁、祐。<br />
＜引用元：太祖実録1395年1月9日＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞禮曹典書の趙英珪が亡くなった。初名は趙評であった。王が即位前から従事し、多くの戦功を上げた。朝鮮開国時には、功臣に選ばれたが、ここに至りて病気で亡くなる。參贊門下府事を追尊し、厚く葬儀を行った。息子には趙珠、趙仁、趙祐がいる。</div>
<h2>まとめ</h2>
<p>ドラマでは李芳遠の部下として描かれることの多い趙英珪ですが、史料から見る実像は単なる武人ではありませんでした。</p>
<p>彼は朝鮮建国期に活躍した開国功臣であり、鄭夢周暗殺当時には正三品の上級官僚という高い地位にありました。一方で、その出自や人物関係には不明点も多く、現在でも謎の多い人物の一人です。</p>
<p>趙英珪の事例は、王朝交替期において武人勢力が政治に及ぼした影響を考える上で注目される存在といえるでしょう。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>李叔蕃（イ・スクボン）は実在した李芳遠の側近中の側近</title>
		<link>https://justarandomnote.com/i-sukubon-jitsuzai2408/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 18 Mar 2024 03:07:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
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					<description><![CDATA[武将としてのイメージが強い李叔蕃ですが、実は、文科に合格している文官でした。 李芳遠の側近中の側近・李叔蕃とは、どんな人物だったのか？ 本記事では、朝鮮王朝実録にも登場する李叔蕃の実像に迫ります。 李叔蕃はどんな武将だっ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>武将としてのイメージが強い李叔蕃ですが、実は、文科に合格している文官でした。</p>
<p>李芳遠の側近中の側近・李叔蕃とは、どんな人物だったのか？</p>
<p>本記事では、朝鮮王朝実録にも登場する李叔蕃の実像に迫ります。</p>
<h2>李叔蕃はどんな武将だったのか？</h2>
<p>李叔蕃（イ・スクボン）は文科に合格した文官でしたが、軍事的な才能に飛び抜けて優れていました。</p>
<p>そのため、李芳遠（太宗）が任さた官職の多くが軍事に関連するものでした。</p>
<p>李叔蕃は軍将の選抜、軍事訓練による兵士の育成、軍備拡張など建国初期の軍隊の組織確立に大きく貢献しました。</p>
<p>最後まで軍権を手放さなかった李芳遠（太宗）にとって、李叔蕃は腹心中の腹心でした。</p>
<h2>李叔蕃の人物像｜破滅を招いた横暴な性格</h2>
<p>李叔蕃（イ・スクボン）は物怖じせず、何事もはっきりと物言う性格でした。</p>
<p>李芳遠（太宗）から信頼されるにつれ、自分より高い官位の人に対しても、横暴な振る舞いを見せるようになります。</p>
<p>やがて周囲の反感を買い、最後は弾劾されて流刑となっています。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜プロフィール＞</strong><br />
生年：1373年<br />
没年：1440年<br />
享年：68歳<br />
氏族：安城李氏<br />
墓：京畿道始興市山峴洞</div>
<h2>李叔蕃の家系と家族</h2>
<p>李叔蕃（イ・スクボン）は李仲宣を始祖とする安城李氏一族の出身です。父は李坰（イ・キョン）、母は英陽南氏で南輝珠の娘です。</p>
<p>母は英陽南氏は夫の尹控が亡くなった後に、二人の息子を連れて李坰と結婚して李叔蕃を生みました。</p>
<p>異母兄の尹子當は、李叔蕃と一緒に座命功臣に冊封されています。</p>
<div id="attachment_9732" style="width: 571px" class="wp-caption aligncenter"><img fetchpriority="high" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-9732" class="wp-image-9732" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/f6be3d931ddc66d9c629509385fa50ff-800x509.jpg" alt="李叔蕃の家系図" width="561" height="357" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/f6be3d931ddc66d9c629509385fa50ff-800x509.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/f6be3d931ddc66d9c629509385fa50ff-500x318.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/f6be3d931ddc66d9c629509385fa50ff-300x191.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/f6be3d931ddc66d9c629509385fa50ff-768x489.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/f6be3d931ddc66d9c629509385fa50ff.jpg 950w" sizes="(max-width: 561px) 100vw, 561px" /><p id="caption-attachment-9732" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜李叔蕃の家系図＞</strong></p>
<p>李叔蕃の妻は清州鄭氏一族の鄭摠の娘でした。彼の子供や子孫に関する記録はありません。</p>
<p><strong>＜李叔蕃の家族＞</strong></p>
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="16%">関係</td>
<td width="24%">名前</td>
<td width="25%">生年-没年</td>
<td width="35%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>父</td>
<td>李坰</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>英陽南氏</td>
<td>不詳</td>
<td>南輝珠の娘</td>
</tr>
<tr>
<td>正室</td>
<td>清州鄭氏</td>
<td>不詳</td>
<td>鄭摠の娘</td>
</tr>
<tr>
<td>弟</td>
<td>李仲蕃</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>異父兄</td>
<td>尹子良</td>
<td>不詳</td>
<td>実の父は尹控</td>
</tr>
<tr>
<td>異父兄</td>
<td>尹子當</td>
<td>不詳</td>
<td>実の父は尹控</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>注意）尹子當は尹子堂と記載されている記録もあります。</p>
<h2>李叔蕃の官職歴と功績</h2>
<p>李叔蕃は文科に及第し官僚に就くと、やがて、李芳遠（太宗）の臣下となり、次々と功績を上げ、重要な官職を歴任していきます。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="20%">年</td>
<td width="80%">官職と功績（抜粋）</td>
</tr>
<tr>
<td>1393年</td>
<td>左拾遺</td>
</tr>
<tr>
<td>1398年</td>
<td>第一次王子の乱（定社功臣二等）</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>右副承旨</td>
</tr>
<tr>
<td>1400年</td>
<td>第二次王子の乱（佐命功臣一等）</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>中樞院副使、左軍摠制使</td>
</tr>
<tr>
<td>1402年</td>
<td>趙思義の乱を平定</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>知議政府事</td>
</tr>
<tr>
<td>1412年</td>
<td>崇政大夫（正一品）</td>
</tr>
<tr>
<td>1413年</td>
<td>兵曹判書</td>
</tr>
<tr>
<td>1415年</td>
<td>議政府左贊成</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>無礼と不忠の罪で弾劾を受ける</h2>
<p>若い頃からの横暴な性格は、太宗の信頼を背景にさらに助長されていきました。</p>
<p>やがて周囲の反発を招き、1416年には「無礼」と「不忠」の罪で弾劾され、官職を罷免の上、遠方へ移されます。</p>
<p>刑曹や臺諫（司憲府と司諫院）が再三処罰を求めたものの、太宗は受け入れませんでした。</p>
<p>しかし翌1417年、讓寧大君の非行に関わった具宗秀との私的な交流が問題視され、ついに咸陽へ流刑。早期の釈放を望んだものの、叶うことはありませんでした。</p>
<h2>李叔蕃の晩年と最後</h2>
<p>1438年、世宗は太宗の献陵の碑文や王子の乱に関する記録を確認するため、流刑中の李叔蕃を一時的に呼び戻しました。</p>
<p>調査後、世宗は流刑を解除し、漢陽近郊の京畿道での生活を許可します。臣下たちは流刑地への再送を求めましたが、世宗は病気を理由にこれを却下しました。</p>
<p>李叔蕃は1440年、再び流刑されることなく67歳で病死、現在は京畿道始興市山峴洞に埋葬されています。</p>
<h2>実在の証拠と死後の評価</h2>
<p>李叔蕃は「太宗実録」や「世宗実録」にも記録されており、実在が裏付けられています。</p>
<p>特に王子の乱の際の働きは歴史的にも評価が高く、建国期の重要人物として後世に名を残しました。</p>
<p>しかし、私利私欲や傲慢な性格は批判の対象となり、後世は「忠臣と問題人物」という二面性を持った人物として評価されています。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>李叔蕃は李芳遠の即位を支え、その後も太宗に仕えた側近中の側近でした。</p>
<p>文官ながら武芸に秀で、軍事面で多くの功績を残しますが、横暴な性格と傍若無人な振る舞いが反発を招き、最終的に弾劾され流配となります。</p>
<p>処刑を求める声もありましたが、太宗は彼を守り抜きました。李叔蕃は君主政治を支える重要な存在だったのです。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>趙英茂（チョ・ヨンム）は実在？【李芳遠を支えた武将】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/cho-yonmu-jitsuzai2407/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 15 Mar 2024 01:28:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
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					<description><![CDATA[趙英茂（チョ・ヨンム）は李芳遠の臣下として知られる実在した武将です。『朝鮮王朝実録』にも多くの記録が残されています。 この記事では、史実に基づき、趙英茂の人物像、家系、生涯について詳しく解説します。 趙英茂はどんな武将だ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>趙英茂（チョ・ヨンム）は李芳遠の臣下として知られる実在した武将です。『朝鮮王朝実録』にも多くの記録が残されています。</p>
<p>この記事では、史実に基づき、趙英茂の人物像、家系、生涯について詳しく解説します。</p>
<h2>趙英茂はどんな武将だったのか？</h2>
<p>趙英茂（チョ・ヨンム）は李成桂に才能を見出され、朝鮮建国の初期から太宗の代にかけて活躍した武将です。第一次王子の乱では李芳遠側に立ち、その後は側近として活躍。最終的に右議政（正一品）にまで昇進しました。</p>
<h3>趙英茂のプロフィール</h3>
<p>趙英茂（チョ・ヨンム）は素朴で誠実、曲がったことが嫌いで、政務に私情を挟まなかった人物でした。</p>
<p><img decoding="async" class="aligncenter wp-image-9711" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/0f29d3e34f5d18e817d4cd1334335682.jpg" alt="" width="237" height="246" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/0f29d3e34f5d18e817d4cd1334335682.jpg 454w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/0f29d3e34f5d18e817d4cd1334335682-300x311.jpg 300w" sizes="(max-width: 237px) 100vw, 237px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜ドラマ「イ・バンウォン」のチョ・ヨンム＞</strong></p>
<p>『太宗実録』には次のように記されています。</p>
<blockquote><p>英武質實好直言、任政無私、爲上所重<br />
＜太宗14年7月28日条（1414年）＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞趙英茂は人柄が実直で、率直な諫言を好み、政務において私心がなく、王から深く重んじられていた。</div>
<div class="primary-box"><strong>＜プロフィール＞</strong><br />
生年：1338年<br />
没年：1414年7月28日（享年77歳）<br />
諡号：忠武<br />
氏族：漢陽趙氏</div>
<h2>趙英茂の家系図</h2>
<p>趙英茂は趙之壽を始祖とする漢陽趙氏の出身とされます。趙之壽は高麗末期に朝順大夫僉議中書事を務めた人物で、祖先は代々、辺境の武人であったと考えられています。</p>
<p>系譜によると、祖父は趙珣厚、父は趙世玲であり、朝鮮建国時に趙英茂が開国功臣となったことで一族の地位は大きく上昇しました。</p>
<div id="attachment_16905" style="width: 810px" class="wp-caption aligncenter"><img decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16905" class="wp-image-16905 size-full" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/821464cb8e4c2cf21cb6f44c2a01b242.avif" alt="趙英茂の家系図" width="800" height="748" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/821464cb8e4c2cf21cb6f44c2a01b242.avif 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/821464cb8e4c2cf21cb6f44c2a01b242-500x468.avif 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/821464cb8e4c2cf21cb6f44c2a01b242-300x281.avif 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/821464cb8e4c2cf21cb6f44c2a01b242-768x718.avif 768w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /><p id="caption-attachment-16905" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜趙英茂の家系図＞</strong></p>
<div class="information-box common-icon-box"><strong>＜豆知識＞漢陽趙氏の2つの系統</strong><br />
漢陽趙氏の系統には、趙麟才から分かれた「版図公派」と趙暉から分かれた「摠管公派」があります。実は、この2つの派は、それぞれが正規の系統であると主張しています。現在もなお、趙麟才と趙暉は兄弟だったのか、全く血縁関係がなかったのか、詳しいことは分かっていません。</div>
<h2>趙英茂の家族</h2>
<p>趙英茂には正室・信州金氏と継室・載寧康氏がおり、複数の男子が確認されています。ただし、子孫の詳細な記録は多く残っていません。</p>
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="12%">関係</td>
<td width="24%">名前</td>
<td width="25%">生年-没年</td>
<td width="39%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>父</td>
<td>趙世玲（趙世珍）</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>永興崔氏</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>正室</td>
<td>信州金氏</td>
<td>不詳</td>
<td>貞敬夫人、康熙の娘</td>
</tr>
<tr>
<td>息子</td>
<td>趙敍</td>
<td>1370-1429</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>息子</td>
<td>趙倫</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>息子</td>
<td>趙琠</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>継室</td>
<td>載寧康氏</td>
<td>不詳</td>
<td>貞敬夫人</td>
</tr>
<tr>
<td>息子</td>
<td>趙秩</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>息子</td>
<td>趙理</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>趙英茂の生涯</h2>
<p>1338年、趙英茂（チョ・ヨンム）は趙世玲（趙世珍）の息子として生まれました。</p>
<h3>李成桂の配下として頭角を現す</h3>
<p>若い頃に辺境の番上軍を経験した後、<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/lee-sung-ge-kakeizu2224/">李成桂</a>の配下となり軍事的才能を評価されます。</p>
<p>1392年には<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/chon-yongyu-jitsuwa2409/">趙英珪</a>とともに<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/chonmonzyu-kakeizu2383/">鄭夢周</a>殺害に関与したと伝えられています。その年の7月、趙英茂は朝鮮建国に貢献、開国功臣3等に処せられ、判殿中寺事に任命されました。</p>
<p>その後も武将として功績を重ね、着実に昇進していきます。</p>
<h3>李芳遠への加担に対する太祖の厳しい批判</h3>
<p>1398年、第一次王子の乱では<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/bangwon-kakeizu2154/">李芳遠</a>を助け、定社功臣1等に封じられています。しかし後日、太祖は趙英茂に対して李芳遠に味方したことを強く非難します。</p>
<p>このことは、『定宗実録』に次のように記されています。</p>
<blockquote><p>英茂者、自東北面侍衛軍、擢爲牌頭、位至宰相、得與開國之列。 此三人者、雖粉骨糜身、豈足以報我之恩！ 然皆小人<br />
＜定宗2年7月2日の条（1400年）＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞英茂（趙英茂）は一兵士の出身でありながら抜擢によって宰相にまで出世し、開国功臣にも列した人物である。それほどの恩を受けながら、三人※とも恩義を忘れた人物にすぎない、と太上王（太祖）は強く非難した。</div>
<p>※三人とは、このとき一緒に避難された趙溫、趙英茂、李天祐のことです。</p>
<h3>李芳遠の臣下として出世</h3>
<p>しかしその後、趙英茂は李芳遠の臣下として重用され、要職を歴任していきます。1400年の第二次王子の乱では軍事面で功績を挙げ、佐命功臣一等に封じられました。</p>
<p>1401年には參贊門下府事となるものの、私兵廃止政策への反発から流刑となりますが、まもなく復帰。三軍府や議政府の中枢を担い、1405年には右議政へ昇進しました。</p>
<h2>趙英茂の最後｜晩年と死去</h2>
<p>1408年、趙英茂は府院君に封じられ、領三軍府事（正一品）となりましたが、病気のため辞職しました。辞職後は、京畿道光州廣域市で静養しています。</p>
<p>1413年、趙英茂は右議政に復職しましたが、翌年の1414年、病気のため亡くなっています。趙英茂が亡くなったとき、太宗が大変落胆した様子が、『太祖実録』に残されています。</p>
<blockquote><p>漢山府院君 趙英茂卒。＜&#8211;途中略&#8211;＞悼甚素膳、輟朝三日、賻米豆一百石、紙二百卷、賜謚忠武。<br />
＜太宗14年7月28日条（1414年）＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞漢山府院君の趙英茂が死去した。＜&#8211;途中略&#8211;＞王は深い哀悼の意を示し、精進の食事をとり、三日間朝政を停止した。また米・豆百石、紙二百巻を賻物として下賜し、諡号「忠武」を贈った。</div>
<p>趙英茂の墓所は2つありますが、実際に埋葬されているのは、光州郡退村面広東里の墓所です。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-9715" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/1869633ca85ad5bdef0f32210a2c61f6.jpg" alt="" width="457" height="244" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/1869633ca85ad5bdef0f32210a2c61f6.jpg 785w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/1869633ca85ad5bdef0f32210a2c61f6-500x267.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/1869633ca85ad5bdef0f32210a2c61f6-300x160.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/03/1869633ca85ad5bdef0f32210a2c61f6-768x410.jpg 768w" sizes="(max-width: 457px) 100vw, 457px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜光州郡退村面広東里の墓所＞</strong></p>
<h2>歴任した官職と功臣号</h2>
<p>趙英茂は開国功臣・定社功臣・佐命功臣という三度の功臣号を受けた数少ない人物の一人です。軍事と政治の両面で重用され、朝鮮建国から太宗政権確立までを支えました。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="20%">年</td>
<td width="80%">官職及び称号</td>
</tr>
<tr>
<td>1379年</td>
<td>李成桂配下の郎将となる</td>
</tr>
<tr>
<td>1385年</td>
<td>中正大夫典客令</td>
</tr>
<tr>
<td>1388年</td>
<td>鉄原副使権農防將</td>
</tr>
<tr>
<td>1390年</td>
<td>海州牧使兼防衛使</td>
</tr>
<tr>
<td>1392年</td>
<td>朝鮮建国に参加（開国功臣3等）</td>
</tr>
<tr>
<td>1398年</td>
<td>第一次王子の乱（定社功臣1等）</td>
</tr>
<tr>
<td>1400年</td>
<td>第二次王子の乱（佐命功臣1等）</td>
</tr>
<tr>
<td>1401年</td>
<td>三軍府・議政府の中枢職</td>
</tr>
<tr>
<td>1405年</td>
<td>右議政（正一品）</td>
</tr>
<tr>
<td>1408年</td>
<td>府院君に封じられる</td>
</tr>
<tr>
<td>1413年</td>
<td>右議政に復職</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>まとめ</h2>
<p>趙英茂は李成桂のもとで頭角を現し、李芳遠を支えた実在の武将でした。朝鮮建国と王子の乱という激動の時代に功績を重ね、最終的に右議政（正一品）にまで昇進します。</p>
<p>史料から見える姿は、武人出身でありながら政権中枢を担った建国期を象徴する功臣であり、晩年まで李芳遠政権を支え続けた人物でした。</p>
<p>太祖から李芳遠へと主君を替えた決断こそ、趙英茂の出世を決定づけた転機であり、建国期においては個人の政治的選択がその後の命運を大きく左右する時代であったことを物語っています。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>沈温の家系図【姜尚仁の獄事で処刑された世宗の義父】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/shimuon-kakeizu2405/</link>
					<comments>https://justarandomnote.com/shimuon-kakeizu2405/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 18 Feb 2024 07:18:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=9411</guid>

					<description><![CDATA[沈温は世宗の正室・昭憲王后の父親です。彼は「姜尚仁の獄事」と呼ばれる冤罪事件で無念の死を遂げました。 この記事は、沈温の家系図から人物像、家族関係、処刑の真相まで分かりやすく解説します。 先に姜尚仁の獄事を知りたい方は  [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>沈温は世宗の正室・昭憲王后の父親です。彼は「姜尚仁の獄事」と呼ばれる冤罪事件で無念の死を遂げました。</p>
<p>この記事は、沈温の家系図から人物像、家族関係、処刑の真相まで分かりやすく解説します。</p>
<p style="text-align: right;">先に姜尚仁の獄事を知りたい方は<br />
＞＞<a href="#tyakuti">こちらをクリック</a></p>
<h2 style="text-align: left;">沈温の家系図</h2>
<p>沈温（シム・オン）は、沈洪孚を始祖とする氏族・青松沈氏の出身です。青松沈氏は高麗時代から続く名門で、朝鮮時代には数多くの政府高官を輩出しています。</p>
<p>曾祖父の沈淵は高麗の閤門祗候、祖父の沈龍は高麗の贈門下侍中、父の沈德符は左政丞と代々官僚の家系でした。</p>
<div id="attachment_9418" style="width: 810px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-9418" class="wp-image-9418 size-large" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/9d6f74a6dc70ed6f3f306395b8bea82c-800x463.jpg" alt="沈温の家系図" width="800" height="463" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/9d6f74a6dc70ed6f3f306395b8bea82c-800x463.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/9d6f74a6dc70ed6f3f306395b8bea82c-500x289.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/9d6f74a6dc70ed6f3f306395b8bea82c-300x174.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/9d6f74a6dc70ed6f3f306395b8bea82c-768x444.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/9d6f74a6dc70ed6f3f306395b8bea82c-120x68.jpg 120w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/9d6f74a6dc70ed6f3f306395b8bea82c.jpg 1288w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /><p id="caption-attachment-9418" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜沈温の家系図＞</strong></p>
<h2>家門の名誉回復とその後の繁栄</h2>
<p>冤罪で一時は、滅亡した家門でしたが、後に名誉を回復、昭憲王后以降、4人の王妃を輩出する名門氏族となりました。</p>
<p>王妃の名前をクリックすると、各王妃の詳しい家系を紹介しています。</p>
<div class="secondary-box"><strong>＜4人の王妃＞</strong><br />
・<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/queen-shoken-kakeizu2264/">昭憲王后</a>（第4代王・世宗）<br />
・<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/insunwanfu-kakeizu2358/">仁順王后</a>（第13代王・明宗）<br />
・<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/taniwanfu-kakeizu2394/">端懿王后</a>（第20代王・景宗、追尊）<br />
・<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/queen-junwon-kakeizu2242/">純元王后</a>（第23代王・純祖）</div>
<div id="attachment_9420" style="width: 810px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-9420" class="wp-image-9420 size-large" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/8670512baa7c0f28a09ecffa46cf030c-800x563.jpg" alt="青松沈氏の王妃" width="800" height="563" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/8670512baa7c0f28a09ecffa46cf030c-800x563.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/8670512baa7c0f28a09ecffa46cf030c-500x352.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/8670512baa7c0f28a09ecffa46cf030c-300x211.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/8670512baa7c0f28a09ecffa46cf030c-768x540.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2024/02/8670512baa7c0f28a09ecffa46cf030c.jpg 1035w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /><p id="caption-attachment-9420" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜青松沈氏の王妃＞</strong></p>
<h2>沈温の人物像</h2>
<p>沈温（シム・オン）は誠実で温厚な人柄で、周囲からの信頼も厚かったとされます。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜沈温のプロフィール＞</strong><br />
生年：1375年<br />
没年：1418年<br />
享年：44歳<br />
氏族：青松沈氏<br />
妻：三韓国大夫人（順興安氏）<br />
子供：3男6女<br />
父：沈德符<br />
母：仁川門氏（郞將門必大の娘）</div>
<h2>沈温の家族構成</h2>
<p>沈温は7人の男兄弟の五男でした。</p>
<p>姜尚仁の獄事で、沈温と七男の沈泟は処刑、その他の兄弟はみな連座で捕らえられて、流刑となっています。</p>
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="12%">関係</td>
<td width="24%">名前</td>
<td width="25%">生年-没年</td>
<td width="39%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>父</td>
<td>沈德符</td>
<td>1328-1401</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>仁川門氏</td>
<td>不詳</td>
<td>郞將門必大の娘</td>
</tr>
<tr>
<td>長男</td>
<td>沈仁鳳</td>
<td>不詳</td>
<td>都摠制</td>
</tr>
<tr>
<td>次男</td>
<td>沈義龜</td>
<td>不詳</td>
<td>判事</td>
</tr>
<tr>
<td>三男</td>
<td>沈繼年</td>
<td>1368-1434</td>
<td>知成州事</td>
</tr>
<tr>
<td>四男</td>
<td>沈澄</td>
<td>不詳</td>
<td>仁壽府尹</td>
</tr>
<tr>
<td>五男</td>
<td>沈温</td>
<td>1375-1418</td>
<td>領議政、処刑</td>
</tr>
<tr>
<td>六男</td>
<td>沈淙</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>七男</td>
<td>沈泟</td>
<td>不詳-1418</td>
<td>処刑</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>沈温の父・沈德符と弟・沈淙</h2>
<p>父の沈德符は、太祖・李成桂の戦友であり、開国の功臣でした。1399年には、左政丞に就任しています。</p>
<p>弟・沈淙は、1393年に太祖の次女・慶善公主と結婚。第一次王子の乱で戦功を上げましたが、第2次王子の乱後に李芳幹と密かに交流していたことが発覚。庶民に降格の上、流刑となりました。</p>
<h2>沈温の子供たち</h2>
<p>沈温と妻・三韓国大夫人の間には3男6女の子供がいました。</p>
<p>長女は世宗の正室・昭憲王后。次男・沈澮、三男・沈决も後に高官として復帰しています。</p>
<table style="font-family: var(--cocoon-default-font);">
<tbody>
<tr>
<td width="12%">関係</td>
<td width="28%">名前</td>
<td width="25%">生年-没年</td>
<td width="35%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>長男</td>
<td>沈濬</td>
<td>不詳-1448</td>
<td>閔無恤の娘と結婚、領中樞院事</td>
</tr>
<tr>
<td>次男</td>
<td>沈澮</td>
<td>1418-1493</td>
<td>領議政</td>
</tr>
<tr>
<td>三男</td>
<td>沈决</td>
<td>1419-1470</td>
<td>領敦寧府事</td>
</tr>
<tr>
<td>長女</td>
<td>昭憲王后</td>
<td>1395-1446</td>
<td>世宗の正室</td>
</tr>
<tr>
<td>次女から六女</td>
<td>不詳</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>昭憲王后について詳しくは＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/queen-shoken-kakeizu2264/">昭憲王后の家系図【名家出身の徳妃の波乱万丈の生涯】</a></p>
<h2>誕生から順調な昇進</h2>
<p>1375年に名門・青松沈氏の沈德符の子として生まれた沈温は、11歳で高麗の監試に合格しました。</p>
<p>兵曹・工曹の義郞を皮切りに、恭靖王・太宗の時代を通じて軍務や官職を歴任し、着実に昇進を重ねます。</p>
<p>世宗の即位後は国舅として重用され、最終的には、朝鮮王朝最高位の領議政にまで上り詰めました。<br />
<a id="tyakuti"></a></p>
<h2>姜尚仁の獄事と沈温の冤罪</h2>
<p>沈温は太宗によって、濡れ衣を着せられ処刑されています。冤罪であったことは、当時から明らかでした。</p>
<h3>事件の発端と太宗の策略</h3>
<p>1418年、姜尚仁（カン・サンイン）が軍事報告を太宗にせず、世宗にのみ行ったことで処罰されました。太宗はこの事件を沈温を謀反に仕立てる口実として利用します。</p>
<h3>強引な尋問と自白</h3>
<p>1418年9月、世宗の即位を明に伝える謝恩使として沈温が出発すると、多くの官僚や学者が盛大に見送りました。この光景に、太宗は沈温一族の影響力に強い警戒心と嫉妬を抱きます。</p>
<p>11月、左議政・朴訔が姜尚仁事件を大逆罪として再提起。太宗と朴訔は結託し、沈温を排除しようと画策したのです。再尋問を受けた姜尚仁らは、拷問に耐えきれず、沈温を首謀者と自白してしまいます。</p>
<h3>沈温の処刑と一族の処罰</h3>
<p>事件に関係した姜尚仁、李灌、沈泟、朴習ら10余名は処刑、沈溫の親族、成人男性は処刑、女性や幼い子は奴婢にされました。</p>
<p>明から帰国した沈溫は国境付近で捕らえられ、翌日、水原まで送られた後、処刑（自害）されています。</p>
<h2>太宗が沈温一族を滅ぼした理由</h2>
<p>沈温の背後には、名門・青松沈氏という政治的な基盤がありました。すでに太宗の治世下でも高位の官職に就く者が多く、一族全体が朝廷内に強い影響力を持っていました。</p>
<p>さらに、娘・昭憲王后が世宗の正室として君臨したことで、沈温一族は「国王の外戚」として絶大な存在感を放つようになります。</p>
<p>太宗にとって、妻（元敬王后）の外戚と同様に、沈温は王権を脅かす政敵であり、沈温一族は排除すべき存在だったのです。</p>
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</div>

<h2>昭憲王后の信念による再起</h2>
<p>昭憲王后は父親が無罪の罪で殺害され、母親が奴婢にされても、父の無実を信じて沈黙を守り続けました。王妃として母を支え、息子・世子を育てあげ、苦難の中でも凛として宮廷に立ち続けたといわれています。</p>
<p>その姿は、まさに「徳妃」の名にふさわしいものでした。</p>
<p>その後、彼女の息子・文宗の即位により沈温の名誉はようやく回復され、孫たちが官職に復帰することができました。昭憲王后の信念と徳が、遂に一族を復活させたのです。</p>
<h2>沈温の簡易年表</h2>
<p>沈温の生涯を年表でご紹介します。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="20%">年</td>
<td width="8075%">出来事</td>
</tr>
<tr>
<td>1375</td>
<td>名門・青松沈氏に生まれる</td>
</tr>
<tr>
<td>1386</td>
<td>11歳で高麗の監試に合格。兵曹と工曹の義郞を務める</td>
</tr>
<tr>
<td>1399</td>
<td>朝鮮建国の功臣の父・沈德符が左政丞に就任</td>
</tr>
<tr>
<td>1400</td>
<td>太宗の時代に官職を歴任</td>
</tr>
<tr>
<td>1408</td>
<td>娘が忠寧君（世宗）と結婚する</td>
</tr>
<tr>
<td>1418</td>
<td>6月、世宗が即位。領議政を務める</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>9月、明に派遣される謝恩使として出発</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>11月、帰国直後に謀反の罪で処刑される</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>まとめ</h2>
<p>沈温は名門・青松沈氏に生まれ、誠実な人柄と才覚で国の重臣に登り詰めましたが、太宗の外戚排除の政略により冤罪で命を落とします。</p>
<p>しかし、娘・昭憲王后の徳と、孫・文宗の治世によって名誉は回復され、一族は再び王朝の中枢へと返り咲きました。</p>
<p>彼の波乱の生涯は、朝鮮王朝における外戚排除と名誉回復の歴史を象徴する重要な一章です。</p>
<p>そして、その名誉は、娘・昭憲王后の驚くべき忍耐の強さと、孫・文宗の深い孝心によって守られました。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>河崙（ハ・リュン）の家系図【実在したイ・バンウォンの腹心】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/haryun-kakeizu2387/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 15 Dec 2023 06:54:58 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=8562</guid>

					<description><![CDATA[李芳遠（イ・バンウォン）の腹心であり、策略家の河崙（ハ・リュン）とはどんな人物だったのか？ 彼の家系図から名臣の実像、家族、生涯まで分かりやすく解説します。 河崙（ハ・リュン）の家系図 河崙（ハ・リュン）は河拱辰を始祖と [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>李芳遠（イ・バンウォン）の腹心であり、策略家の河崙（ハ・リュン）とはどんな人物だったのか？</p>
<p>彼の家系図から名臣の実像、家族、生涯まで分かりやすく解説します。</p>
<h2>河崙（ハ・リュン）の家系図</h2>
<p>河崙（ハ・リュン）は河拱辰を始祖とする晋州河氏一族の出身です。父の河允潾は順興府使を務めていました。</p>
<div id="attachment_14326" style="width: 810px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-14326" class="wp-image-14326 size-full" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/bb9c411a6869c287735a24e1136a995b.avif" alt="河崙の家系図" width="800" height="603" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/bb9c411a6869c287735a24e1136a995b.avif 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/bb9c411a6869c287735a24e1136a995b-500x377.avif 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/bb9c411a6869c287735a24e1136a995b-300x226.avif 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/bb9c411a6869c287735a24e1136a995b-768x579.avif 768w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /><p id="caption-attachment-14326" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜河崙の家系図＞</strong></p>
<p>妻の父の兄（河崙にとって義伯父）の李仁任（イ・イムニ）は、高麗末期に摂政として、朝廷を独占した権力者でした。</p>
<p>李仁任についてはこちら＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/i-imuni-zitsuzai2412/">李仁任（イ・イムニ）は実在した李成桂の政敵【高麗末期の独裁者】</a></p>
<p>そのため、李仁任が失脚したときに、親戚と言う理由で一時、流刑になっています。</p>
<h2>河崙はどんな人物だったのか？</h2>
<p>河崙は、高麗末から朝鮮初期にかけて活躍した文臣で、朝鮮王朝の第3代王・太宗（李芳遠）の腹心として知られています。</p>
<p>彼は、李芳遠の義父である閔霽（ビン・セイ）と友人であり、閔霽を通じて李芳遠と知り合いました。後に、武臣として活躍する李叔蕃（イ・スクボン）を李芳遠に紹介したのは河崙です。</p>
<p>河崙は、第一次王子の乱、第二次王子の乱で李芳遠を助け、功績を上げます。その後は、李芳遠の知恵袋として活躍、議政府領事（領議政）まで上り詰めています。</p>
<h2>河崙のプロフィール</h2>
<p>処世術の達人というよりは、力尽くで物事を押し切ろうとする、いわゆる ブルドーザー型の人だったようです。</p>
<p>行政を処理したり、政策を立案したり、政治的な仕事では非常に優れた人物でしたが、物欲が強いことが大きな欠点でした。</p>
<div class="primary-box">＜プロフィール＞<br />
河崙（ハ・リュン）<br />
生年：1347年12月22日<br />
没年：1416年11月6日<br />
享年：70歳<br />
氏族：晋州河氏<br />
父：河允潾（ハ・ユンリン）<br />
母：姜氏（晋陽姜氏）、姜承裕の娘<br />
妻：李氏（星州李氏）、李仁美の娘</div>
<h2>河崙（ハ・リュン）の家族</h2>
<p>河崙（ハ・リュン）は妻・李氏との間に1男2女の子供をもうけました。</p>
<p>＜河崙の家族＞</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="13%">関係</td>
<td width="22%">名前</td>
<td width="25%">生年-没年</td>
<td width="40%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>妻</td>
<td>星州李氏</td>
<td>不詳</td>
<td>辰韓國大夫人、李仁美の娘</td>
</tr>
<tr>
<td>長男</td>
<td>河久</td>
<td>1380-1417</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>長女</td>
<td>不詳</td>
<td>不詳</td>
<td>洪陟の妻</td>
</tr>
<tr>
<td>次女</td>
<td>不詳</td>
<td>不詳</td>
<td>李承幹の妻</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>河崙（ハ・リュン）の生涯</h2>
<p>1347年、河崙は高麗時代に順興府使を務めていた河允潾（ハ・ユンリン）の息子として生まれました。</p>
<h3>科拳合格と政界進出</h3>
<p>河崙は1360年に監試（成均館の入学試験）、1365年に科挙に合格しています。</p>
<p>このときに、才能を見込まれ名門・李仁美の娘と結婚し、伯父・李仁任の後ろ盾で政界へ進出しました。</p>
<h3>罷免や流刑を繰り返した不遇時代</h3>
<p>河崙は1369年に監察糾正となるも、辛旽と対立して罷免。辛旽の死後に復職し、官職を歴任しました。</p>
<p>1380年に母を亡くし一時政界を引退しますが、3年間の喪が終わると再び、政界に復帰しています。</p>
<p>李仁任が失脚すると、親族の河崙は流刑となります。復帰できたのは、1392年に朝鮮王朝が建国されてからでした。</p>
<p>1394年、遷都問題で鄭道伝と対立し、彼に恨みを抱くようになります。</p>
<h3>王子の乱での功績とその後の昇進</h3>
<p>河崙は王子の乱で李芳遠を支援して功績を上げると、順調に昇進していき、最終的には領議政を務めています。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="15%">年</td>
<td width="85%">功績と昇進</td>
</tr>
<tr>
<td>1398</td>
<td>第一次王子の乱で功績を上げる（定社功臣一等）</td>
</tr>
<tr>
<td>1400</td>
<td>第二次王子の乱で功績を上げる（佐命功臣一等）</td>
</tr>
<tr>
<td>1401</td>
<td>議政府左参賛に任命され実質的な政権運営に関与</td>
</tr>
<tr>
<td>1408</td>
<td>議政府領議政に就任（最高官職）</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h3>太宗の片腕として政治改革を遂行</h3>
<p>河崙は太宗の即位後、改革を主導し、六曹直啓制導入や楮貨発行、申聞鼓設置で政治と財政を整備しました。</p>
<p>一時退任しましたが、左政丞（承樞府判事を兼務）に復帰しています。</p>
<h3>外交、史料の編纂に活躍</h3>
<p>1402年、河崙は明への祝賀使として派遣され、朝鮮王朝の承認を得て対明関係を安定させました。</p>
<p>また、「東国史略」や「太祖実録」などの史料の編纂も主導しています。</p>
<h3>河崙の晩年と最後</h3>
<p>晩年は病を得て政界を退き、1416年に死去しています。太宗は深く悲しみ、丁重に葬儀を行ったと記録されています。享年70才でした。<br />
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          </div>

</div>
</p>
<h2>河崙が登場するドラマ</h2>
<p>河崙（ハ・リュン）は多くのドラマで李芳遠の策士として登場しています。</p>
<div class="secondary-box"><strong>＜河崙が登場するドラマ＞</strong><br />
龍の涙<br />
（1996年、イム・ヒョク）<br />
大王世宗<br />
（2008年、チェ・ジョンウォン）<br />
鄭道伝<br />
（2014年、イ・グァンギ）<br />
六龍が飛ぶ<br />
（2015年、チョ・ヒボン）<br />
太宗イ・バンウォン<br />
（2021年、ナム・ソンジン）<br />
（　）内は演じた俳優</div>
<h2>まとめ</h2>
<p>河崙（ハ・リュン）はイ・バンウォンの片腕として数々の政治改革を実現した腹心でした。</p>
<p>政治に関しては大変素晴らしい仕事をする人物でしたが、物欲が強いことが大きな欠点だったといいます。</p>
<p>しかし、生涯、イ・バンウォンに尽くし、イ・バンウォンの王座奪回に貢献した第一人者であることは間違いありません。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>譲寧大君の家系図【素行が悪く廃世子となった太宗の長男】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/yannyontegun-kakeizu2386/</link>
					<comments>https://justarandomnote.com/yannyontegun-kakeizu2386/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 09 Dec 2023 02:55:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=8517</guid>

					<description><![CDATA[素行の悪さから廃世子になった譲寧大君。ドラマに王室の陰の大物としてよく登場しますが、どんな人物だったのか。 この記事では、譲寧大君の家系図を軸に、その波乱に満ちた人物像や家族構成、さらにはドラマでの描かれ方まで詳しく解説 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>素行の悪さから廃世子になった譲寧大君。ドラマに王室の陰の大物としてよく登場しますが、どんな人物だったのか。</p>
<p>この記事では、譲寧大君の家系図を軸に、その波乱に満ちた人物像や家族構成、さらにはドラマでの描かれ方まで詳しく解説します。</p>
<h2>譲寧大君の家系図</h2>
<p>譲寧大君は第3代王・太宗と元敬王后の長男として生まれました。</p>
<p>世子に冊封されましたが、幼い頃から勉強が嫌いで、素行が悪く、特に女性問題で太宗の怒りを買い廃位されています。</p>
<div id="attachment_8524" style="width: 678px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-8524" class="wp-image-8524" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a8e482408f98e9bcc74113857b8bf9d3-800x488.jpg" alt="譲寧大君の家系図" width="668" height="407" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a8e482408f98e9bcc74113857b8bf9d3-800x488.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a8e482408f98e9bcc74113857b8bf9d3-500x305.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a8e482408f98e9bcc74113857b8bf9d3-300x183.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a8e482408f98e9bcc74113857b8bf9d3-768x469.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a8e482408f98e9bcc74113857b8bf9d3.jpg 1068w" sizes="(max-width: 668px) 100vw, 668px" /><p id="caption-attachment-8524" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜譲寧大君の家系図＞</strong></p>
<p>譲寧大君の正妃の隨城府夫人は金興光を始祖とする光山金氏一族の出身でした。</p>
<p>王室に関係する光山金氏一族の出身としては、粛宗の最初の妃・仁敬王后と憲宗の側室・慶嬪金氏がいます。</p>
<h2>譲寧大君はどんな人物だったのか？</h2>
<p>芸術や書に才能を見せた一方で、政治にはまるで関心がなく、自らの欲望を制御できない性格だったと伝えられています。</p>
<p>特に、伯父の定宗の寵愛を受けた楚宮粧（チョグンジャン）や重臣・郭旋（クァン・ソン）の妾の於里（オリ）との関係は有名です。息子の瑞山君の妾にも手を出したという逸話も残っています。</p>
<div class="primary-box"><strong>＜プロフィール＞</strong><br />
譲寧大君（ヤンニョンデグン）<br />
出年：1394年<br />
没年：1462年<br />
享年：69歳</div>
<h2>譲寧大君の家族構成</h2>
<p>譲寧大君は太宗と元敬王后の4男4女の長男として生まれています。</p>
<h3>譲寧大君の兄弟</h3>
<p>三男の忠寧大君が譲寧大君廃位後に世子となり、後の第4代王・世宗となっています。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="12%">関係</td>
<td width="12%">名前</td>
<td width="19%">称号</td>
<td width="25%">生年-没年</td>
<td width="32%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>長男</td>
<td>李褆</td>
<td>譲寧大君</td>
<td>1394-1462</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>次男</td>
<td>李補</td>
<td>孝寧大君</td>
<td>1396-1486</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>三男</td>
<td>李裪</td>
<td>忠寧大君</td>
<td>1397-1450</td>
<td>第4代王世宗</td>
</tr>
<tr>
<td>四男</td>
<td>李褈</td>
<td>誠寧大君</td>
<td>1405-1418</td>
<td>天然痘で亡くなる</td>
</tr>
<tr>
<td>長女</td>
<td>不詳</td>
<td>貞順公主</td>
<td>1385-1460</td>
<td>李伯剛の妻</td>
</tr>
<tr>
<td>次女</td>
<td>不詳</td>
<td>慶貞公主</td>
<td>不詳-1455</td>
<td>趙大臨の妻</td>
</tr>
<tr>
<td>三女</td>
<td>不詳</td>
<td>慶安公主</td>
<td>1393-1415</td>
<td>吉昌君/權跬の妻</td>
</tr>
<tr>
<td>四女</td>
<td>不詳</td>
<td>貞善公主</td>
<td>1404-1424</td>
<td>宜山君/南暉の妻</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h3>譲寧大君の妻子</h3>
<p>譲寧大君は1407年、14歳のときに金漢老（キム・ハンロ）の娘（隨城府夫人）と結婚。夫人との間には３人の男子と５人の女子がいました。彼は複数の側室を持ち、側室との間には10人の男子と17人の女子がいたとされています。</p>
<p>※金漢老は太宗とは科拳合格の同期であり太宗に優遇されましたが、度々問題を起こしていたとされます。</p>
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="12%">関係</td>
<td width="12%"></td>
<td width="23%">称号</td>
<td width="25%">生年-没年</td>
<td width="28%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>正室</td>
<td>ー</td>
<td>隨城府夫人</td>
<td>不詳</td>
<td>金漢老の娘</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>長男</td>
<td>順成君</td>
<td>1417-1456</td>
<td>名は李言豈</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>次男</td>
<td>咸陽君</td>
<td>不詳-1475</td>
<td>名は李言布</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>三男</td>
<td>瑞山君</td>
<td>不詳-1451</td>
<td>名は李譿</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>長女</td>
<td>永川郡主</td>
<td>1412-1442</td>
<td>李蕃の妻</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>次女</td>
<td>県主</td>
<td>不詳</td>
<td>李蕃の妻</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>三女</td>
<td>永平県主</td>
<td>不詳</td>
<td>金哲勻の妻</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>四女</td>
<td>県主</td>
<td>不詳</td>
<td>朴壽宗の妻</td>
</tr>
<tr>
<td></td>
<td>五女</td>
<td>載寧郡主</td>
<td>不詳-1444</td>
<td>李孜の妻</td>
</tr>
<tr>
<td>側室多数</td>
<td></td>
<td></td>
<td></td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>庶子のなかには、のちに大韓民国初代大統領・李承晩の先祖にあたる人物も含まれています。</p>
<h2>廃世子となった事件の顛末</h2>
<p>譲寧大君は郭旋の妾・於里に一目惚れし、無理やり宮中に連れ込んだことで太宗の怒りを買い、大騒動に発展します。</p>
<p>一度は於里を家に戻しますが、再び、彼女を宮女と偽り同棲、子までもうけたため、太宗は大激怒、遂に、1418年に譲寧大君を廃世子とし、宮廷から追い出しました。</p>
<p>また、関係したものは流罪や処刑となり、於里も自害したと伝えられています。</p>
<p>このとき、譲寧大君の称号が与えられ、これ以降、譲寧大君と呼ばれることになります。</p>
<h2>廃位後の生涯</h2>
<p>廃世子となっても、王族としての身分は守られました。譲寧大君は政治に関与せず、絵画や書道など芸術の世界に没頭しながら自由な生活を送ります。</p>
<p>世宗の時代にも多くの問題を起こしましたが、その度に世宗は兄の譲寧大君をかばい、処罰することはありませんでした。</p>
<p>1462年、譲寧大君は漢城府で69歳の生涯を終えています。</p>
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          </div>

</div>

<h2>譲寧大君が登場するドラマ</h2>
<p>譲寧大君は王室の陰の大物、トラブルメーカーとして多くの時代劇に登場しています。</p>
<p>「不滅の恋人」では野心家として描かれ、陰謀の鍵を握る役として印象的です。</p>
<p>また、「太宗イ・バンウォン」では、廃位の顛末が詳細に描かれています。</p>
<div class="secondary-box"><strong>＜譲寧大君が登場する代表的なドラマ＞</strong><br />
大王世宗<br />
（2008年、チョン・チャヌ/イ・ジュン/パク・サンミン）<br />
不滅の恋人<br />
（2018年、ソン・ビョンホ）<br />
太宗イ・バンウォン<br />
（2021年、キム・ジュニ/イ・テリ）<br />
元敬<br />
（2025年、ムン・ソンヒョン）</div>
<h2>まとめ</h2>
<p>譲寧大君は太宗の長男として生まれながら、素行の悪さと女性問題で世子を廃位されました。</p>
<p>しかし、もともと勉強嫌いで政治に関心のなかった譲寧大君は廃以後、芸術を愛し、型破りながらも王族としての誇りを持って生き抜いた人物です。</p>
<p>世宗も兄の譲寧大君を尊重して処罰することもありませんでした。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>太宗 イバンウォンの実話【朝鮮王朝を築いた李芳遠の生涯】</title>
		<link>https://justarandomnote.com/lee-bang-won-kakeizu2385/</link>
					<comments>https://justarandomnote.com/lee-bang-won-kakeizu2385/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 07 Dec 2023 08:51:54 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓国時代劇ドラマ]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=8500</guid>

					<description><![CDATA[ドラマ「太宗イ・バンウォン」で描かれた怪物のような王・イバンウォン（李芳遠）その姿は史実とどれほど一致しているのか？ この記事では、朝鮮王朝史上、最も恐れられた王・太宗（イバンウォン）の実話に基づく生涯を、王子の乱、粛清 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>ドラマ「太宗イ・バンウォン」で描かれた怪物のような王・イバンウォン（李芳遠）その姿は史実とどれほど一致しているのか？</p>
<p>この記事では、朝鮮王朝史上、最も恐れられた王・太宗（イバンウォン）の実話に基づく生涯を、王子の乱、粛清、そして、建国の裏側まで徹底的に解説。人間・イバンウォンの実像に迫ります。</p>
<h2>高麗から朝鮮へ｜威化島回軍（クーデター）の勃発</h2>
<p>1388年5月22日、李成桂（イソンゲ）は遂に王命にそむき、軍隊を威化島から帰還させることを決意しました。威化島回軍（ウィファドフェグン）です。その背景と結末は次のとおりです。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-9068" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/ae6eaccb5ab1d910a1ace39d95ed4cb8.jpg" alt="遼東遠征と威化島回軍の行程を表現する図" width="378" height="472" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/ae6eaccb5ab1d910a1ace39d95ed4cb8.jpg 573w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/ae6eaccb5ab1d910a1ace39d95ed4cb8-500x624.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/ae6eaccb5ab1d910a1ace39d95ed4cb8-300x374.jpg 300w" sizes="(max-width: 378px) 100vw, 378px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜遼東遠征と威化島回軍の行程＞</strong></p>
<p>李成桂と曹敏修の軍は遼東遠征の途中、大雨で川を渡れず威化島で足止めされ、兵の疲労や脱走、食糧不足で壊滅寸前に陥っていました。李成桂は帰還を度々求めましたが、崔瑩は応じませんでした。</p>
<p>5月22日、やむなく回軍を決断した李成桂は、6月1日に開京へ戻り、王宮を包囲します。王に崔瑩の処罰を要求しましたが拒否されたため、6月3日に東西の門から進軍し、崔瑩の軍を破って禑王と崔瑩を拘束しました。</p>
<p>国が荒廃し、飢餓が蔓延していた高麗では、すでに国王は民心を失い、新しい王を期待していました。李成桂の「威化島回軍」は民の喜びの声で迎えられたのです。崔瑩は捕らえられ、島流しの上、後に処刑されました。</p>
<div class="information-box common-icon-box"><strong>＜豆知識＞崔瑩とは</strong><br />
崔瑩（チェ・ヨン）は高麗時代の名将です。高麗のために李成桂とともに戦い、数々の功績を挙げました。李成桂は戦友の崔瑩を殺害したことに大変心を痛めたといいます。</div>
<h2>回軍による家族の危機と脱出</h2>
<p><a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/uwan-kakeizu2380/">禑王</a>は、李成桂らを遼東遠征させる際に、反乱に備えて武将らの家族を人質としました。李成桂の息子も人質となりましたが、回軍が始まると全員脱出しています。</p>
<p>朝鮮王朝実録には次のように記録されています。</p>
<blockquote><p>是夜, 上王與其兄芳雨及李豆蘭子和尙等, 自成州 禑所, 奔于軍前, 禑日午猶未知<br />
＜引用元：太祖実録 総序抜粋＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞この夜、上王とその兄の芳雨及び李豆蘭の息子の和尙らが、成州の禑王の所から太祖の軍前に逃げ込んだが、禑王はその日の正午になっても気づかなかった。</div>
<p>注）上王とは李芳果（後の定宗）のことです。太祖実録の編纂時期には上王となっていました。</p>
<p>また、この時、官職にあった李芳遠は回軍の知らせを受けると、開京に残っていた継母や異母兄弟をいち早く救出させています。</p>
<h2>禑王の廃位と昌王の擁立</h2>
<p>崔瑩は流刑となり、禑王も名目上の王として生かされていました。彼は李成桂殺害を計画しましたが、失敗に終わり、上王の称号で江華島に追放されました。事実上の廃位です。</p>
<p>朝鮮王朝実録には次のように記録されています。</p>
<blockquote><p>禑夜與宦竪八十餘人, 被甲馳至太祖及曺敏修、邊安烈第, 以皆屯軍門外不在家, 故不得害而還<br />
＜引用元：太祖実録 総序抜粋＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞禑王は夜に宦官80余人と鎧を着て太祖、曺敏修、そして邊安烈の家に駆け付けたが、皆、殿門外の軍にいて家には不在だったので、殺害することができずに帰った。</div>
<p>後継を巡る混乱の中、曹敏修が李穡とともに李成桂の反対を押し切り、息子の<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/chanwan-kakeizu2382/">昌王</a>（当時9歳）を擁立します。第33代王・昌王の誕生です。</p>
<p>曹敏修は全国の軍事権を掌握しますが、わずか1か月後、趙浚の弾劾により流刑となり、李穡も追放されました。</p>
<h2>昌王の廃位と恭譲王の擁立</h2>
<p>李成桂と易姓革命派は禑王は辛旽（シンドン）と般若（パニャ）の子であり、昌王も正統な王位継承者ではないと主張しました。「廃仮立真」です。</p>
<div class="information-box common-icon-box"><strong>＜豆知識＞廃仮立真とは</strong><br />
廃仮立真とは、ミセモノを廃して、ホンモノを立てるという意味です。後に李成桂が編集させた「高麗史」には禑王は辛旽の妾・般若の子であると記録されています。</div>
<p>昌王は流刑となり、昌王を擁立した王朝擁護派の李穡も流罪となりました。その後、昌王とその父・禑王は流刑地で処刑されています。</p>
<p>1389年、易姓革命派は高麗第20代王・神宗の子孫である恭譲王を擁立します。</p>
<h2>科田法による内政改革</h2>
<p>田柴科制度で官僚に与えられた土地は私有化が進み、旧勢力の経済基盤となって国家財政を圧迫していました。李成桂派はこれを改め、土地を国家に戻して再配分する科田法を推進しました。</p>
<p>1391年、遂に法制化に成功。これにより、旧勢力は弱体化。新興官僚が税を受け取る権利（収祖権）を得て、朝鮮王朝の基盤が築かれました。</p>
<div class="information-box common-icon-box"><strong>＜豆知識＞科田法に尽力した趙浚</strong><br />
趙浚（チョ・ジュン）は李成桂を支えた文臣で、王子の乱で李芳遠に仕え、後に、重臣となり外戚にもなっています。</div>
<h2>鄭夢周の殺害</h2>
<p>李成桂の出世に期待を寄せた鄭道伝と鄭夢周は連携していましたが、新王朝を目指す鄭道伝と、高麗再建を望む鄭夢周は次第に対立します。</p>
<p>鄭夢周は鄭道伝を身分詐称で流刑にし、政敵の排除を図ります。1392年、李成桂が狩りで負傷すると、鄭夢周はこれを機に暗殺を企てますが、李芳遠に察知され失敗。逆に鄭夢周は李芳遠の側近・趙英珪により開京の善竹橋で殺害されました。</p>
<p>李成桂はこの行動に激怒し、鄭夢周の死を深く悼んだといわれています。彼は、多くの人の尊敬を集める鄭夢周を何とか仲間にしたいと考えていたのです。</p>
<h2>朝鮮王朝の建国</h2>
<p>恭譲王から李成桂への譲位を防ごうとした鄭夢周が殺害されると、形勢は一気に李成桂へと傾きます。1392年7月、鄭道伝ら易姓革命派が李成桂を国王に推薦、恭譲王が追放され、李成桂が朝鮮王朝初代国王に即位しました。初代国王・太祖の誕生です。</p>
<p>李成桂は当初、国王になることを拒否、官僚たちから「どうしてもと請われる形」を取りました。また、即位式では檀上の王座には上がらず、王座の下に立っています。</p>
<p>こうした李成桂の行動は、全て「王位を奪い取った簒奪者（さつだつしゃ）」と見られたくなかったからでした。</p>
<h2>高麗の滅亡｜高麗王族の殺害</h2>
<p>李成桂は即位後の1394年、流刑中の恭譲王とその子を謀反の疑いで殺害しました。また、江華や巨済に流された多くの高麗王族も海に投げ込まれて処刑されています。</p>
<p>南孝温の「秋江冷話」には、王族を船に乗せて底に穴を開け、水死させたと記されていますが、実際にはそれほど手の込んだ方法ではなかったとも言われ、真相は不明です。</p>
<p>しかし、事実として朝鮮王朝は高麗復興を恐れ、王姓を持つ者の抹殺を命じています。多くの者は全氏・玉氏・田氏などに改姓して命を守ったとされています。こうして、威化島回軍から4年、高麗王朝は完全に滅び、李成桂が王権を掌握したのです。</p>
<h2>世子の擁立｜末っ子の李芳碩が世子に</h2>
<p>誰もが朝鮮王朝の建国に大きな功績を残した李芳遠が世子になると考えていました。ところが太祖は、第二夫人・神徳王后の次男である李芳碩を世子に指名します。</p>
<p>さらに、開国の功臣である鄭道伝（チョン・ドジョン）と南誾（ナム・ウン）をその教育係に任命しました。神徳王后が裏で影響を及ぼしたことは明らかです。</p>
<p>わずか10歳の義弟に世子の座を奪われた李芳遠の怒りは計り知れず、その後、神徳王后の墓に対して彼がとった態度からも、その感情がうかがえます。</p>
<h2>李芳遠が明の使臣として功績を上げる</h2>
<p>1394年6月、李芳遠が明への使臣に任命されました。</p>
<blockquote><p>上謂殿下曰: &#8220;天子若有所問, 非汝莫能對<br />
＜引用元：太祖実録1394年6月1日から抜粋＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞天子（明の皇帝）の質問に答えられるのは、汝（李芳遠）しかいない</div>
<p>太祖は「皇帝の問いに答えられるのは汝しかいない」とその適任ぶりを強調します。ドラマのセリフでも使われた言葉です。</p>
<p>危険を案じた南在が同行を申し出、趙胖らとともに「国号と王の称号に関する表文」を携えて明へ向かいました。</p>
<p>同年11月、李芳遠は大きな成果を持ち帰国。明の皇帝はその見識と態度に深く感銘を受け、厚く遇したといいます。李芳遠は「朝鮮の世子」と誤認されるほど高く評価されました。</p>
<p>南在はこの功績で李芳遠の信任を得て、後に領議政となります。</p>
<h2>大儒学者・李穡（イ・セク）の死</h2>
<p>李穡（イ・セク）は鄭夢周が殺害される前年に流刑から釈放され、韓山府院君に封じられていました。</p>
<p>しかし、1392年に鄭夢周が殺害されると、衿州に追放後、再び、驪興、長興に流刑にされ、その後解放されています。1395年、李穡の能力を惜しんだ太祖が韓山伯に冊封、朝廷への出仕を命じましたが、辞退しています。</p>
<p>翌年の1396年、李穡は驪江に向かう途中で亡くなりました。享年69歳でした。</p>
<p>李穡は朝鮮における性理学の発展に大きく寄与、鄭夢周、鄭道伝、河崙 、権近などの優秀な学者を育てた偉大な儒学者でした。</p>
<h2>神徳王后の突然の逝去</h2>
<p>1396年、神徳王后は体調を崩して、突然亡くなりました。突然の訃報に悲しみにくれた李成桂は聚賢坊に王妃陵を設けて，陵号を貞陵と定めました。</p>
<p>太祖は在位中だけでなく、譲位以後も、貞陵によく行き追慕を絶やさなかったといいます。また、神徳王后の供養のために、太祖は1年かけて興天寺を建設しています。</p>
<p>一方、前妻韓氏の陸墓・斉陵へは行くことはありませんでした。こうした太祖の行動が太宗の神徳王后への恨みを増幅したことは間違いありません。</p>
<h2>第一次王子の乱</h2>
<p>1398年、李芳遠は弟・李芳碩が世子となり、鄭道伝が権力を握る状況に危機感を募らせ、第一次王子の乱を起こします。明への対抗策として鄭道伝が私兵の吸収を図ったことが発端でした。</p>
<p>父・太祖が病床、母・神徳王后が死去していた好機に、李芳遠は鄭道伝・李芳碩らを粛清。義弟・興安君を含む十数名を殺害しました。更に、李芳遠は鄭道伝を逆賊と断じ、その名を歴史から抹消しようとしました。</p>
<div class="secondary-box"><strong>＜第一次王子の乱で殺害された主要人物＞</strong><br />
・鄭道伝（チョンドジョン）<br />
・南誾（ナムウン）<br />
・沈孝生（シムヒョセン）<br />
・李懃（イブン）<br />
・張至和（チャンジファ）<br />
・李芳蕃（李芳遠の異母弟）<br />
・李芳碩（世子、李芳遠の異母弟）<br />
・興安君（異母妹・慶順公主の夫）<br />
・鄭泳（鄭道伝の次男）<br />
・鄭遊（鄭道伝の三男）</div>
<p>太祖の娘・慶順公主は夫の興安君を失い出家の道を選んでいます。ドラマ「イ・バンウォン」では、尼になるため、慶順公主が実際に頭を剃るシーンが話題になりました。</p>
<p>事件後、太祖は落胆。王位を次男・李芳果（後の第2代王・定宗）に譲って隠居しています。</p>
<h2>第二次王子の乱</h2>
<p>国王は李芳果（定宗）ですが、権力は李芳遠が掌握していました。<br />
以前から李芳遠をよく思っていなかった四男の李芳幹が、私兵の廃止や論功行賞の不満から遂に反乱を起こしました。1400年1月の第二次王子の乱です。</p>
<p>この時、協力したのが同じく論功行賞に不満を持っていた朴苞（パクポ）でした。反乱は李芳遠により、あっけなく鎮圧されてしまいます。</p>
<p>朴苞は処刑され、李芳幹は処刑は逃れましたが生涯流刑地を転々とすることになりました。このとき、李芳幹の息子の李孟宗(イ・メンジョン)も反乱に参加していましたが、同じく流刑となり、世宗のときに自決させられています。</p>
<h2>朝鮮第3代王・太宗の誕生</h2>
<p>第二次王子の乱で政敵を排除した李芳遠は、1400年に世子に冊立され、国政と軍事の実権を掌握します。定宗実録には「靖安公（李芳遠）を王世子とし、軍と国家を任せる」と明記されています。</p>
<blockquote><p>己亥/冊立弟靖安公 【諱】 爲王世子, 句當軍國重事<br />
＜引用元：定宗実録1400年2月4日＞</p></blockquote>
<p>世子ながら李芳遠は私兵の廃止や官制改革を断行し、反対者は容赦なく処罰していきました。定宗と妃・定安王后は身の危険を感じ、同年11月、定宗は譲位を決断。李芳遠は第3代国王・太宗として即位しました。</p>
<p>即位後は六曹直啓制を導入し、王が議政府を通さず六曹（行政）を直接統制できる仕組みを構築。中央集権を推し進め、王権の絶対化を図りました。</p>
<p>反発した大臣らにも容赦なく処罰を下し、冷酷な王、怪物という太宗のイメージが定着していきます。</p>
<div class="information-box common-icon-box"><strong>＜豆知識＞議政府と六曹とは</strong><br />
議政府とは領議政、左議政、右議政を中心とした国家を運営する最高行政機関、日本で言う内閣です。六曹は国政の各分野の業務を担当する官庁、日本で言う財務省、法務省などの中央官庁です。</div>
<h2>太祖の咸興での反抗的隠居</h2>
<p>太祖は表向きには神徳王后とその子供の供養に専念するとしていました。しかし、太宗への恨みは消えず、王権の象徴である玉璽を持ったまま北部の咸興（ハムン）に引きこもってしまいます。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-9070" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a6d5d4a629c537d05cddc80a472add56.jpg" alt="太祖が引きこもった咸興の図" width="307" height="275" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a6d5d4a629c537d05cddc80a472add56.jpg 530w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a6d5d4a629c537d05cddc80a472add56-500x447.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/a6d5d4a629c537d05cddc80a472add56-300x268.jpg 300w" sizes="(max-width: 307px) 100vw, 307px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜太祖が引きこもった咸興＞</strong></p>
<p>政権移譲の正当性を示したい太宗はたびたび使者を送り説得を試みますが、太祖は頑として応じませんでした。さらに、咸興に送られた使者が戻らず殺害されたという噂まで広まり、「咸興差使（ハムンチャサ）」という言葉が「行って戻らぬこと」の慣用句になるほどでした。ただし、実際に使者が殺害された記録はありません。</p>
<h2>趙思義（チョサイ）の乱</h2>
<p>1402年、太宗の説得を拒み続ける中、神徳王后の親戚である安辺府使・趙思義（チョサイ）が、彼女の恨みを晴らすとして挙兵しました。</p>
<p>この反乱は太祖が背後にいたとも噂されましたが、真偽は不明です。反乱軍は一時善戦するも、李叔蕃らの活躍で鎮圧され、趙思義らは処刑されました。</p>
<p>その後、無学大師の説得により太祖は都に戻り、政界から身を引いて余生を送り、1408年に亡くなりました。</p>
<div class="information-box common-icon-box"><strong>＜豆知識＞無学大師とは</strong><br />
18歳で仏門に入り、元で修行した僧侶です。太祖からの信頼は厚く、漢陽への遷都を助言したことは有名です。太祖と太宗の和解に最も貢献した人物でした。</div>
<h2>閔氏一族の粛清｜外戚の政治介入を遮断</h2>
<p>太宗は、王妃・元敬王后の実家である閔（ミン）氏一族が強大な勢力を持つことに強い危機感を抱いていました。かつて自身を王位に就けた閔氏の権力と財力が、即位後の太宗にとっては脅威へと変わったのです。</p>
<p>そこで太宗は、元敬王后の4人の弟たちを様々な口実で次々と粛清しました。1407年には閔無咎と閔無疾を流刑とし、1410年には流刑先で賜死させました。さらに1416年には閔無恤と閔無悔を処刑。こうして、元敬王后一家の男系の血統は絶えてしまいました。</p>
<h2>功臣の粛清｜国家を私物化を排除</h2>
<p>太宗は王権強化のために外戚の粛清を行ってきましたが、開国功臣に対しても必要とあれば容赦なく粛清を実施しました。</p>
<p>太宗の右腕として活躍した李叔蕃（イ・スクボン）も功臣の地位を利用した目に余る数々の横暴な行いにより、1417年慶尚道咸陽に流刑となっています。その後も、王権を脅かす外戚や功臣に対して、太宗は粛清の手を緩めることはありませんでした。</p>
<h2>世子・譲寧大君の廃位</h2>
<p>1418年、長男の譲寧大君が世子を廃され、三男の忠寧大君（後の世宗）が新たに王世子に冊封されました。</p>
<p>譲寧大君は幼い頃から学問に興味を示さず、遊びに明け暮れ、太宗を悩ませる存在でした。特に女性関係は乱れており、妓女を宮中に連れ込むだけでなく、伯父・定宗の寵愛を受けた楚宮粧や、重臣・郭旋の愛妾だった於里にまで手を出しました。</p>
<p>1417年、臣下たちが世子廃位を上訴し、太宗もこれを受け入れます。譲寧大君は処罰されなかったものの、政治の表舞台から退き、その後は王族の長老として多くの陰謀に関与することになります。</p>
<h2>朝鮮第4代王・世宗の誕生｜太宗の譲位</h2>
<p>1418年6月に世子になった忠寧大君は、9月に太宗が譲位して上王になると国王として即位しました。後世に名君と称される第4代王・世宗の誕生です。</p>
<p>譲位した太宗は表向きは軍事権だけ握ったことになっていますが、実態は政治をはじめ全ての実権は太宗が掌握していました。世宗の親政は太宗が亡くなる1422年まで待つことになります。</p>
<h2>沈氏一族の粛清｜太宗の上王としての政治介入</h2>
<p>太宗は、自らの妻・元敬王后の実家だけでなく、息子・世宗の王妃である昭憲王后の実家・沈（シム）氏一族までも没落させました。</p>
<p>昭憲王后の父・沈温は世宗の即位とともに領議政となりますが、外戚の台頭を警戒した太宗により、1418年に濡れ衣を着せられ処刑されます。沈温が明へ使者として出発する際、多くの親族に見送られたことが太宗の疑念を深めたとされ、帰国途中で捕らえられ命を落としました。</p>
<p>弟の沈泟も拷問の末に処刑され、他の兄弟も流刑に。王妃の母と兄弟も奴婢にされるなど、沈氏一族は徹底的に排除されました。沈温は誠実な人物で、権力を狙う意志など全くなかったと伝えられています。</p>
<p>沈温が冤罪で処刑された「姜尚仁の獄事」は＞＞<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/shimuon-kakeizu2405/">沈温の家系図【姜尚仁の獄事で処刑された世宗の義父】</a>で詳しくご紹介しています。</p>
<h2>太宗の最期</h2>
<p>1422年5月、太宗は寿康宮にて病死しました。享年55歳でした。現在、太宗は1420年に亡くなった王妃の元敬王后とともに献陵に眠っています。</p>
<p>太宗は朝鮮王朝の歴代王の中でも冷徹さと非情さで知られる存在として記憶されています。しかし、彼が築いた制度と政治体制は、500年続く朝鮮王朝の礎となりました。</p>
<p>「王にして怪物」、この言葉は、まさに功と罪を併せ持つ彼の生涯を象徴していると思われます。</p>
<h2>まとめ｜太宗が世宗に残したもの</h2>
<p>第3代王・太宗（イ・バンウォン）は建国と王権確立のために多くの血を流しました。残忍な粛清によって政敵を排除し、強力な中央集権体制を築き、500年に及ぶ朝鮮王朝の基礎を築き上げたのです。</p>
<p>太宗を引き継いだ世宗は、彼は独自の政策を次々と打ち出し、数々の偉業を成し遂げました。世宗は「聖君」と称され、後世に多大な影響を与えた名君として高く評価されています。</p>
<p>しかし、その輝かしい治世は、暴君と呼ばれる太宗の苛烈な政治によって築かれた土台の上にあったことも否定できません。</p>
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			</item>
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		<title>鄭道伝の家系図【朝鮮建国の設計者｜李芳遠が殺害した理由】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 03 Dec 2023 01:11:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
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					<description><![CDATA[鄭道伝（チョン・ドジョン）は、朝鮮王朝の基礎を築いた最大の功労者でした。しかし、その功績にもかかわらず、後に王となる李芳遠によって命を奪われます。 この記事では、鄭道伝の家系図から、人物像・家族構成・生涯、そして李芳遠に [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>鄭道伝（チョン・ドジョン）は、朝鮮王朝の基礎を築いた最大の功労者でした。しかし、その功績にもかかわらず、後に王となる李芳遠によって命を奪われます。</p>
<p>この記事では、鄭道伝の家系図から、人物像・家族構成・生涯、そして李芳遠に殺害された理由まで詳しく解説します。</p>
<h2>鄭道伝の家系図</h2>
<p>鄭道伝は高麗後期に奉化縣の戸長を務めた鄭公美を始祖とする奉化鄭氏の出身です。</p>
<p>曽祖父と祖父は地方官史という比較的低い官職に留まっていましたが、父・鄭云敬（チョン・ウンギョン）が科挙に合格したことで、一族は初めて中央官界へ進出しました。1359年、鄭云敬は刑部尚書に任命され、家門は大きく飛躍します。</p>
<div id="attachment_8486" style="width: 371px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-8486" class="wp-image-8486" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/0be6999cc35e8382af06a0d025cdb399.jpg" alt="鄭道伝の家系図" width="361" height="438" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/0be6999cc35e8382af06a0d025cdb399.jpg 478w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/0be6999cc35e8382af06a0d025cdb399-300x365.jpg 300w" sizes="(max-width: 361px) 100vw, 361px" /><p id="caption-attachment-8486" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜鄭道伝の家系図＞</strong></p>
<h3>鄭道伝の出自と身分問題</h3>
<p>鄭道伝の母・禹氏は奴婢出身とされ、この出自は彼の政治人生に大きな影を落とします。当時、厳格な儒教社会では血統が重要視されていました。そのため、この問題は政敵からの攻撃材料として繰り返し利用され、生涯にわたり鄭道伝を苦しめる要因となります。</p>
<div class="information-box common-icon-box"><strong>＜豆知識＞鄭道伝と鄭道傳の違い</strong><br />
チョン・ドジョンを調べると、「鄭道伝」と「鄭道傳」という二通りの表記が見られます。「傳」は「伝」の旧字体で、現在では常用漢字外の文字であり、人名用漢字として主に用いられています。そのため一般的な文章では「鄭道伝」が使われますが、時代劇ドラマの字幕や歴史作品では、歴史的表記に近い「鄭道傳」が使用される場合があります。</div>
<h2>鄭道伝はどんな人物だったのか？</h2>
<p>鄭道伝は、後に500年以上続くことになる朝鮮王朝の国家体制を設計した政治家・思想家でした。</p>
<p>政治制度、軍制、外交方針、教育制度に至るまで国家運営の基本構想を整備し、建国理念である「崇儒排仏」を理論的に確立しました。</p>
<p>さらに、漢陽遷都の際には都市設計にも関与し、王宮「景福宮（キョンボックン）」の命名にも関与したとされます。こうした功績から、鄭道伝は朝鮮という国家そのものの設計者と評価される存在です。</p>
<h3>鄭道伝のプロフィール</h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-8895" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/d5fe9c7033b8863788da87cef64594cd.jpg" alt="鄭道伝の肖像画" width="327" height="200" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/d5fe9c7033b8863788da87cef64594cd.jpg 627w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/d5fe9c7033b8863788da87cef64594cd-500x305.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/12/d5fe9c7033b8863788da87cef64594cd-300x183.jpg 300w" sizes="(max-width: 327px) 100vw, 327px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜鄭道伝の肖像画＞</strong></p>
<p>鄭道伝は1342年生まれの高麗末期の儒学者です。名は宗之、号は三峰（サムボン）。妥協を許さない性格で知られ、政治的信念を曲げなかったため流刑と復帰を繰り返しています。</p>
<h2>鄭道伝の家族</h2>
<p>鄭道伝には3人の息子がいましたが、長男以外の二人は1398年の第一次王子の乱の時に鄭道伝とともに殺害されています。</p>
<p><strong>＜鄭道伝の家族＞</strong></p>
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="14%">関係</td>
<td width="40%">名前</td>
<td width="25%">生年－没年</td>
<td width="31%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>父</td>
<td>鄭云敬（ウンギョン）</td>
<td>不詳-1366</td>
<td>刑部尚書</td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>禹氏</td>
<td>不詳-1366</td>
<td>栄川禹氏</td>
</tr>
<tr>
<td>本人</td>
<td>鄭道伝</td>
<td>1342-1398</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>妻</td>
<td>崔氏</td>
<td>不詳</td>
<td>慶州崔氏</td>
</tr>
<tr>
<td>長男</td>
<td>鄭津（ジン）</td>
<td>1361-1427</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>次男</td>
<td>鄭泳（ヨン）</td>
<td>不詳-1398</td>
<td>殺害される</td>
</tr>
<tr>
<td>三男</td>
<td>鄭遊（ユ）</td>
<td>不詳-1398</td>
<td>殺害される</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h3>唯一生き残った息子・鄭津</h3>
<p>長男の鄭津は粛清の中で唯一生き残りましたが、反逆者の家族として身分を下げられ、水軍に配属されました。</p>
<p>その後、趙浚や權近らの嘆願によって1407年に復権し、観察使や判漢城府事などを歴任します。1427年、刑曹判書在職中に67歳で病死し、死後に議政府右賛成を贈られました。</p>
<p>父の著作をまとめ『三峰集』として後世に伝えた人物としても知られています。</p>
<h2>鄭道伝の生涯</h2>
<p>1342年、慶尚道栄州に生まれた鄭道伝は幼少より学問に優れ、性理学を学びながら官僚としての道を歩み始めました。1360年に崔氏婦人と結婚。翌年、鄭津が生まれています。</p>
<h3>順調な出世と両親の死</h3>
<p>1362年に進士試へ合格し官界入りすると順調に昇進。1365年には王の秘書職である通禮門祗候（正7品）を務めます。しかし、1366年に両親を相次いで亡くし、故郷・栄州で三年間の喪に服しました。</p>
<h3>李穡・鄭夢周との出会い</h3>
<p>喪明け後、成均館で生涯の師匠・李穡と親友・<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/chonmonzyu-kakeizu2383/">鄭夢周</a>と出会い、性理学者として活動を開始しました。この時期に形成された思想が後の朝鮮建国理念へつながります。</p>
<h3>対明外交論争による流刑と在野時代</h3>
<p>1375年、対明外交をめぐる政治対立の中で、鄭道伝は<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/i-imuni-zitsuzai2412/">李仁任</a>ら親元派の弾劾を受け流刑となりました。流刑地方では教育と著述に専念します。</p>
<p>1377年に赦免され栄州へ戻った後も政界には復帰せず、在野の学者として活動しながら、新しい国家の政治構想を練り続けました。</p>
<h3>李成桂との出会い</h3>
<p>1383年、鄭道伝は自らの理想とする新国家建設を託せる人物として<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/lee-sung-ge-kakeizu2224/">李成桂</a>に注目し、東北面（現在の咸鏡道）を訪ねました。二人は志を同じくして意気投合し、鄭道伝は李成桂の参謀として行動を共にするようになります。</p>
<p>1388年、威化島回軍によって李成桂が政権を掌握すると、鄭道伝は厚い信任を受けて王の秘書職や成均館大司成に任じられ、建国事業の中心人物として活躍していきました。</p>
<h3>朝鮮王朝の建国</h3>
<p>1388年の威化島回軍後、鄭道伝は改革の中心人物として科田法による土地制度改革を推進しました。その過程で高麗王朝の存続を主張する鄭夢周と対立し、出自問題を理由に流刑となります。</p>
<p>しかし、1392年、李芳遠（後の太宗）が鄭夢周を暗殺すると政局は一変。鄭道伝は政界に復帰します。同年、南誾・趙浚らとともに李成桂を王に推戴して朝鮮王朝を建国し、新国家の制度設計者として歴史の表舞台に立ちます。</p>
<h3>鄭道伝への権力集中と政治体制の整備</h3>
<p>1394年9月、鄭道伝は開京から漢陽への遷都を主導しました。新都建設と並行して、新国家の政治・軍事・外交・教育・法律に至るまで国家運営の基本制度の整備を進めていきます。</p>
<p>この過程で政治権力は急速に鄭道伝へ集中しました。彼は朝廷の主要な官職を兼任して政治・軍事・財政を掌握し、その権勢は国王・太祖を凌ぐほどであったと言われています。</p>
<p>一方で、李芳遠は次第に政治の中枢から遠ざけられていきました。</p>
<h3>李芳遠との対立</h3>
<p>鄭道伝が権力を掌握する一方で、<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/bangwon-kakeizu2154/">李芳遠</a>は次第に政治の中枢から遠ざけられていきました。こうした中で両者の関係は次第に緊張し、世子問題や私兵改革をめぐって対立が深まっていきます。</p>
<h3>鄭道伝の最期</h3>
<p>1398年、第一次王子の乱が勃発します。李芳遠は私兵を動員して政敵を排除し、鄭道伝は南誾らとともに殺害されました。</p>
<p>『太祖実録』には鄭道伝の最期が次のように記されています。</p>
<blockquote><p>奉化伯 鄭道傳、宜城君 南誾及富城君 沈孝生等, 謀害諸王子, 不克伏誅<br />
＜太祖実録：太祖7年8月26日の条（1398年）＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞奉化伯の鄭道伝、宜城君の南誾、富城君の沈孝生らは、王子たちを殺そうと企てたが、計画は成功せず、処刑された。</div>
<p>こうして建国の設計者・鄭道伝は、国家体制の完成を見ることなく生涯を終えています。</p>
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          </div>

</div>

<h2>李芳遠が鄭道伝を殺害した理由</h2>
<p>李芳遠が鄭道伝を殺害した根本的な理由は、新王朝の政治体制をめぐる深刻な対立にありました。</p>
<p>鄭道伝は宰相を中心とする政治体制の確立を目指し、王子勢力や私兵の影響力を抑えようとしました。一方、王位継承の有力者であった李芳遠にとって、こうした改革は自身の政治的基盤を脅かすものでした。</p>
<p>李芳遠は世子擁立問題や私兵改革を契機に行動を起こし、最終的に鄭道伝一派の粛清へと踏み切ったのです。</p>
<p>この対立は単なる個人の争いではなく、朝鮮王朝における王権と政治運営の方向性を決定づける権力闘争でもありました。</p>
<h2>鄭道伝の再評価と名誉回復</h2>
<p>鄭道伝は長く逆賊として扱われてきましたが、1791年に正祖がその学問的価値を再評価し『三峯集』を刊行しました。さらに1865年、興宣大院君による景福宮再建の際、漢陽設計の功績が認められ勲爵も回復されます。</p>
<p>鄭道伝は首都建設や私兵廃止、法制度整備を通じて中央集権国家の基礎を築き、民を重視した改革を進めました。その政策の多くは、彼を排した太宗によっても受け継がれ、後世に大きな影響を与えています。</p>
<h2>鄭道伝が登場するドラマ</h2>
<p>鄭道伝が出るドラマをご紹介します。鄭道伝を題材とした作品では人物像の解釈の違いも見どころです。</p>
<div class="secondary-box">・1983年：開国<br />
・1996年：龍の涙<br />
・2014年：鄭道伝<br />
・2015年：六龍が飛ぶ<br />
・2021年：太宗イ・バンウォン</div>
<h2>まとめ</h2>
<p>鄭道伝は家系的には地方官出身の新興士大夫でしたが、その思想と政治能力によって朝鮮王朝という新国家の設計図を描いた人物でした。</p>
<p>宰相政治という理想は李芳遠との対立によって挫折しますが、制度・政策の多くは後の朝鮮統治に受け継がれます。</p>
<p>鄭道伝は今なお、朝鮮建国を導いた最大の政治思想家の一人として評価されています。</p>
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		<item>
		<title>鄭夢周の家系図【高麗最高の忠臣｜生涯を史料から徹底解説】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 29 Nov 2023 02:29:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://justarandomnote.com/?p=8463</guid>

					<description><![CDATA[鄭夢周は、高麗最高の忠臣として知られる人物です。では、その実像とはどのようなものだったのでしょうか。 この記事では、鄭夢周の家系図を軸に、血統や家族構成、人物像を整理しながら、高麗に忠誠を尽くしたその生涯を史料に基づいて [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>鄭夢周は、高麗最高の忠臣として知られる人物です。では、その実像とはどのようなものだったのでしょうか。</p>
<p>この記事では、鄭夢周の家系図を軸に、血統や家族構成、人物像を整理しながら、高麗に忠誠を尽くしたその生涯を史料に基づいて解説します。</p>
<h2>鄭夢周の家系図</h2>
<p>鄭夢周は、鄭宗殷を始祖とする名門・延日鄭氏の出身です。始祖・鄭宗殷は新羅武烈王の時代に諫議大夫を務め、金庾信とともに三国統一に功績を立てた人物と伝えられます。</p>
<p>延日鄭氏は途中で系譜の一部が失われたため、後世に二系統へ分かれました。鄭夢周は高麗第18代王・毅宗期の重臣・鄭襲明（チョン・スプミョン）を派祖とする家系の出自となります。</p>
<p>鄭襲明は後世の史書で「忠臣の鑑」と称えられた人物です。この家系的背景は、後に鄭夢周が忠臣・儒学者として評価される基盤となりました。</p>
<div id="attachment_16877" style="width: 588px" class="wp-caption aligncenter"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16877" class="wp-image-16877" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/d756ce8ff018b0777ffd46a63527f833.avif" alt="鄭夢周の家系図" width="578" height="581" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/d756ce8ff018b0777ffd46a63527f833.avif 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/d756ce8ff018b0777ffd46a63527f833-500x503.avif 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/d756ce8ff018b0777ffd46a63527f833-300x302.avif 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/d756ce8ff018b0777ffd46a63527f833-768x773.avif 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/d756ce8ff018b0777ffd46a63527f833-150x150.avif 150w" sizes="(max-width: 578px) 100vw, 578px" /><p id="caption-attachment-16877" class="wp-caption-text">当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図</p></div>
<p style="text-align: center;"><strong>＜鄭夢周の家系図＞</strong></p>
<p>しかし、鄭夢周が生まれた頃、延日鄭氏一族はすでに大きく衰退していました。曽祖父の鄭仁壽、祖父の鄭裕、父の鄭云瓘はいずれも官職に就いておらず、一族の中で官人として活動していたのは、母方の祖父である李約のみでした。</p>
<h2>鄭夢周の家族</h2>
<p>鄭夢周は妻の李氏との間に2男3女の子供をもうけました。</p>
<table>
<tbody>
<tr>
<td width="14%">関係</td>
<td width="19%">名前</td>
<td width="25%">生年－没年</td>
<td width="42%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>父</td>
<td>鄭云瓘</td>
<td>不詳-1355</td>
<td>儒学者</td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>李氏</td>
<td>不詳</td>
<td>永川李氏</td>
</tr>
<tr>
<td>弟</td>
<td>鄭過</td>
<td>不詳-1392</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>弟</td>
<td>鄭厚</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>弟</td>
<td>鄭蹈</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>妻</td>
<td>李氏</td>
<td>不詳-1392</td>
<td>慶州李氏、李士贇の娘</td>
</tr>
<tr>
<td>長男</td>
<td>鄭宗誠</td>
<td>1374-1442</td>
<td>吏曹參議</td>
</tr>
<tr>
<td>次男</td>
<td>鄭宗本</td>
<td>1377-1443</td>
<td>成均館司藝</td>
</tr>
<tr>
<td>長女</td>
<td>鄭氏</td>
<td>不詳</td>
<td>成翼之の妻</td>
</tr>
<tr>
<td>次女</td>
<td>鄭氏</td>
<td>不詳</td>
<td>李長得の妻</td>
</tr>
<tr>
<td>三女</td>
<td>鄭氏</td>
<td>不詳</td>
<td>韓承顏の妻</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>鄭夢周はどんな人物だったのか？</h2>
<p>鄭夢周（チョン・モンジュ）は、高麗末期を代表する儒学者であり政治家です。</p>
<p>幼少期から聡明で、若くして科挙に合格しています。その後、学者・外交官・政治家として幅広く活躍しました。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-8465" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/1dc41d48ad0c711d6954f1af4cfefa56.jpg" alt="鄭夢周の肖像画（ソウル国立中央博物館所蔵）" width="210" height="277" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/1dc41d48ad0c711d6954f1af4cfefa56.jpg 325w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/1dc41d48ad0c711d6954f1af4cfefa56-300x395.jpg 300w" sizes="(max-width: 210px) 100vw, 210px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜鄭夢周の肖像画＞<br />
（ソウル国立中央博物館所蔵）</strong></p>
<div class="primary-box">本名：夢蘭、夢龍、夢周<br />
号：圃隠（ポウン）<br />
字：達可<br />
諡号：文忠<br />
生年：1337年12月22日<br />
没年：1392年4月4日（享年56歳）</div>
<p>鄭夢周は政変の中で李芳遠によって殺害されましたが、最後まで高麗への忠誠を貫いた人物として、後世に「高麗最高の忠臣」と高く評価されています。</p>
<p>では、なぜ鄭夢周はそこまで忠臣として語り継がれる存在となったのでしょうか。</p>
<h2>史料が伝える鄭夢周の評価</h2>
<p>鄭夢周の評価を決定づけたのは、学問的業績だけではなく、その人格と信念でした。最後まで信条を曲げなかった姿勢は、朝鮮王朝期の史書において忠臣の典型として位置づけられ、後世に高く評価されました。</p>
<p>特に注目されるのが、李成桂勢力との政治的対立の中でも高麗への忠誠を守り続けた点です。多くの官僚が新王朝側へ転じる中、鄭夢周は最後まで高麗への忠誠を貫きました。この姿勢は後世、「義理と節義を体現した人物」として高く評価されることになります。</p>
<h3>各方面からの評価</h3>
<p>鄭夢周は政敵、師、さらには国外からも高く評価された人物でした。</p>
<p>・<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/lee-sung-ge-kakeizu2224/">李成桂</a>が最後まで鄭夢周を説得しようとしたことは、その学識と名望が高く評価され、新王朝側にとっても重要な人物と見なされていたことを示しています。</p>
<p>・<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/lee-bang-won-kakeizu2385/">李芳遠</a>は即位後、鄭夢周を領議政に追贈し、子どもたちも連座で処罰していません。この対応は、殺害が政治的決断であった一方、鄭夢周の人物的評価が否定されていなかったことを示す措置と解釈されます。</p>
<p>・師である李穡は鄭夢周を「東方理学の祖」と評価し、学問的功績の大きさを称えました。</p>
<p>・日本側が弔意を示したと伝えられる記録もあり、外交官としての名声が国外にも及んでいたことがうかがえます。</p>
<h2>鄭夢周の生涯</h2>
<p>1337年12月22日、鄭夢周は慶尚北道永川の裕福な両班の家庭に生まれました。幼い頃から学ぶことが好きだった鄭夢周は金得培の門生として学び始めます。</p>
<h3>儒者としての地位を確立</h3>
<p>1357年、監試（成均館入学試験）に合格した鄭夢周は、1360年に科挙文科で首席合格を果たしました。その後、当代最高の学者・李穡のもとで性理学を学び、1362年に藝文檢閱として官界入りします。成均館再興後は教育にも携わり、司藝・直講・司成を歴任して儒者としての地位を確立しました。</p>
<h3>李成桂との出会いと協力関係</h3>
<p>1363年、鄭夢周は李成桂らとともに女真・倭寇討伐に参加し、これが両者の出会いと考えられています。</p>
<p>1376年、親元派と外交方針をめぐり対立して流刑となりますが、鄭道伝の口添えで赦免されて復帰しました。</p>
<p>1380年、助戦元帥として李成桂配下で倭寇討伐に従軍し、深い信頼を得ました。威化島回軍後も協力関係を保ち、1389年には昌王を廃して恭譲王を擁立しますが、その目的はあくまで高麗再建にありました。</p>
<h3>深まる李成桂と溝</h3>
<p>時が経つにつれ、王朝交代を目指す李成桂と、高麗王権の維持による再建を望む鄭夢周との対立は次第に深まりました。易姓革命の動きを察した鄭夢周は阻止を決意し、急先鋒であった<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/chondozyon-kakeizu2384/">鄭道伝</a>を弾劾して流刑に追い込みます。</p>
<p>李成桂は鄭夢周の才能を高く評価しており、新政権への参加を望んでいたとされます。両者の対立は単なる個人的敵対ではなく、「王朝への忠義」と「新国家建設」という政治理念の衝突でした。</p>
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          </div>

</div>

<h2>鄭夢周の最期</h2>
<p>1392年、落馬で負傷した李成桂を好機と見て排除を図りますが、この動きは李芳遠に察知され、計画は未遂に終わりました。この出来事に危機を感じた李芳遠は、鄭夢周の殺害を計画します。</p>
<p>1392年4月4日、鄭夢周は李芳遠の部下であった<a rel="follow" target="_blank" href="https://justarandomnote.com/chon-yongyu-jitsuwa2409/">趙英珪</a>により、開京の善竹橋で白昼堂々と鉄槌で殴られて暗殺されています。</p>
<p>この事件は、『高麗史』に次のように記されています。</p>
<blockquote><p>判典客寺事趙英珪等，殺守侍中鄭夢周<br />
＜高麗史卷四十六：恭讓王4年4月4日の条＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞判典客寺事の趙英珪らが、守侍中の鄭夢周を殺害した</div>
<p>また、『太祖実録』にはその時の様子が詳しく記録されています。</p>
<blockquote><p>夢周至, 英珪馳擊不中, 夢周叱之, 策馬而走。 英珪追擊馬首, 馬蹶, 夢周墜地, 起而急走, 呂等追殺之。<br />
＜太祖実録巻1：総書131条＞</p></blockquote>
<div class="secondary-box">＜訳＞夢周が到着すると英珪が突撃したが外れ、夢周は叱りつけて馬で逃走した。英珪が馬首を打つと馬が倒れ、夢周は落馬して走ったが、高呂らに追われて殺害された。</div>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-8464" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/46c80e1995b3dd1a15fd4f9a76e4074b.jpg" alt="鄭夢周が殺害された善竹橋の画像" width="421" height="294" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/46c80e1995b3dd1a15fd4f9a76e4074b.jpg 539w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/46c80e1995b3dd1a15fd4f9a76e4074b-500x349.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/46c80e1995b3dd1a15fd4f9a76e4074b-300x209.jpg 300w" sizes="(max-width: 421px) 100vw, 421px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜鄭夢周が殺害された善竹橋＞</strong></p>
<p>開城に存在する善竹橋は国宝として、現在も保護されています。善竹橋に見られる黒ずんだ跡は、鄭夢周の血痕が残ったものと伝えられています。</p>
<div class="information-box common-icon-box"><strong>＜豆知識＞善竹橋の名の由来</strong><br />
善竹橋（ソンジュクギョ）は旧名「善地橋（ソンジギョ）」と呼ばれていましたが、鄭夢周が殺害されると、橋の横から青竹が生えたと言われています。このため、善地橋は善竹橋と呼ばれるようになりました。真っ直ぐに生えていく青竹は、決して屈しなかった鄭夢周の高麗王朝への忠誠心を表していると考えられています。</div>
<p>鄭夢周がいなくなった高麗には、もはや戦う力は残されていませんでした。殺害されてから、3か月後の1392年に朝鮮王朝が建国されました。</p>
<h2>鄭夢周のお墓</h2>
<p>京畿道龍仁に存在する鄭夢周の墓はほとんど王陵に匹敵するレベルです。鄭夢周が人々から、いかに尊敬されていたかが分かります。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-8468" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/bbfeefd85d4ebc923bba88d50f428942-800x448.jpg" alt="鄭夢周の墓の画像" width="416" height="233" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/bbfeefd85d4ebc923bba88d50f428942-800x448.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/bbfeefd85d4ebc923bba88d50f428942-500x280.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/bbfeefd85d4ebc923bba88d50f428942-300x168.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/bbfeefd85d4ebc923bba88d50f428942-768x430.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/bbfeefd85d4ebc923bba88d50f428942-120x68.jpg 120w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/bbfeefd85d4ebc923bba88d50f428942-160x90.jpg 160w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/bbfeefd85d4ebc923bba88d50f428942-320x180.jpg 320w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/bbfeefd85d4ebc923bba88d50f428942.jpg 811w" sizes="(max-width: 416px) 100vw, 416px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜鄭夢周の立派なお墓＞</strong></p>
<p>場所：京畿道 龍仁市 処仁区 慕賢邑 陵院里 山3</p>
<p>また、鄭夢周の墓の前には、朝鮮において聖なる場所の入り口に建てられる紅箭門（フンサルムン）があります。紅箭門は「赤い矢の門」という意味で、鄭夢周の朝鮮に対する忠誠心を称えるものです。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-8782" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/42604c54b6eee952799c8d0d8393cfea.jpg" alt="鄭夢周の紅箭門の画像" width="380" height="247" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/42604c54b6eee952799c8d0d8393cfea.jpg 685w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/42604c54b6eee952799c8d0d8393cfea-500x326.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/42604c54b6eee952799c8d0d8393cfea-300x195.jpg 300w" sizes="(max-width: 380px) 100vw, 380px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜鄭夢周の紅箭門＞</strong></p>
<h2>袂を分けた「何如歌」と「丹心歌」</h2>
<p>鄭夢周が殺害される直前に李芳遠と交わした有名な詩があります。何如歌（ハヨガ）と丹心歌（タンシムガ）です。</p>
<p>李芳遠は何とか鄭夢周を仲間に引き入れたいと、詩に託し何如歌を詠みました。しかし、鄭夢周は丹心歌で高麗の国への揺るぎない忠誠心を示して、拒絶しました。これを聞いた李芳遠は鄭夢周の説得を諦めます。</p>
<div class="secondary-box"><strong>何如歌（李芳遠）</strong><br />
如此亦何如　如彼亦何如<br />
城隍堂後垣　頽落亦何如<br />
我輩若此爲　不死亦何如</div>
<div class="secondary-box">こうであってもいい　ああであってもいい<br />
萬壽山の蔦が絡み合ってもいいではないか<br />
我らも、かく絡み合いながらも末永く世を楽しもうではないか</div>
<p>段落毎の最後の二文字「何如」をとって、何如歌と名付けられました。</p>
<div class="secondary-box"><strong>丹心歌（鄭夢周）</strong><br />
此身死了死了　一百番更死了<br />
白骨爲塵土　魂魄有也無<br />
向主一片丹心　寧有改理與之</div>
<div class="secondary-box">この身が死んで、また死んで、百度繰り返して死んでも<br />
白骨が塵土（ちり）になり、魂があろうとなかろうと<br />
君に捧げし一片丹心は変わることはない</div>
<p>君に捧げし一片丹心とは、高麗の国への忠誠心のことです。この詩は王朝への変わらぬ忠義を表現したものと伝えられ、後世において忠臣精神の象徴として広く知られるようになりました。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>李成桂からの強い説得にも応じず、最後まで高麗への忠誠を貫いたのが鄭夢周でした。李芳遠によって逆賊として命を奪われましたが、その評価が下がることはなく、むしろ時代を超えて忠臣の象徴として尊敬され続けました。</p>
<p>信念を曲げず生きたその姿は、王朝交代という激動の時代を象徴する存在であり、鄭夢周は現在に至るまで「高麗最高の忠臣」として語り継がれています。</p>
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		<title>恭譲王の家系図【しょせん中継ぎだった高麗最後の国王】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[yoshis]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 25 Nov 2023 02:06:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[家系図]]></category>
		<category><![CDATA[イ・バンウォン]]></category>
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					<description><![CDATA[恭譲王は高麗王朝最後の王でした。 正統な王位継承者として担ぎ出されました。 恭譲王はどんな家系の出身なのか。 恭譲王の家系図を詳しく調べてみました。 恭譲王の家系図 恭譲王は第20代国王・神宗の血を引く七代孫の王族ですが [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>恭譲王は高麗王朝最後の王でした。</p>
<p>正統な王位継承者として担ぎ出されました。</p>
<p>恭譲王はどんな家系の出身なのか。</p>
<p>恭譲王の家系図を詳しく調べてみました。</p>
<h2>恭譲王の家系図</h2>
<p>恭譲王は第20代国王・神宗の血を引く七代孫の王族ですが、王位継承とは遠い位置にいました。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-8449" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/8b8b5b7c58acae7b09599be139758a88.jpg" alt="" width="489" height="594" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/8b8b5b7c58acae7b09599be139758a88.jpg 653w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/8b8b5b7c58acae7b09599be139758a88-500x607.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/8b8b5b7c58acae7b09599be139758a88-300x364.jpg 300w" sizes="(max-width: 489px) 100vw, 489px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜恭譲王の家系図＞</strong></p>
<p>恭譲王の母・国大妃王氏も第25代忠烈王の血を引く王族の娘です。</p>
<p>兄の王瑀（定陽君）の娘は李成桂の七男・李芳蕃の正室でした。</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-8440" src="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/fe347bcbaf6d822240db2442625a13e0-800x703.jpg" alt="" width="655" height="576" srcset="https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/fe347bcbaf6d822240db2442625a13e0-800x703.jpg 800w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/fe347bcbaf6d822240db2442625a13e0-500x439.jpg 500w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/fe347bcbaf6d822240db2442625a13e0-300x264.jpg 300w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/fe347bcbaf6d822240db2442625a13e0-768x675.jpg 768w, https://justarandomnote.com/wp-content/uploads/2023/11/fe347bcbaf6d822240db2442625a13e0.jpg 940w" sizes="(max-width: 655px) 100vw, 655px" /></p>
<p style="text-align: center;"><strong>＜恭譲王の親族関係＞</strong></p>
<h2>恭譲王はどんな王だったのか？</h2>
<p>李成桂は第33代王の昌王を正統な王位継承者ではないとして、廃位の上、流刑先で殺害してしまいます。</p>
<p>そして、息子・李芳蕃の妃・慶寧翁主の叔父にあたる定昌君（定昌府院君）を国王・恭譲王に祭り上げました。</p>
<p>高麗王朝最後の国王でした。</p>
<h3>恭譲王のプロフィール</h3>
<div class="primary-box">恭譲王（コンヤンワン）<br />
第34代国王<br />
即位前の称号：定昌君（定昌府院君）<br />
生年：1345年2月5日<br />
没年：1394年4月17日<br />
享年：50歳<br />
在位：1389年12月2日-1392年7月31日<br />
諡号：恭譲大王<br />
父：王鈞<br />
母：国大妃王氏<br />
王妃：順妃盧氏<br />
陵墓：高陵</div>
<h2>恭譲王の家族</h2>
<p>王妃の順妃盧氏は第26代王・忠宣王と妃・順妃許氏の四女・慶寧翁主の孫娘です。</p>
<table width="100%">
<tbody>
<tr>
<td width="25%">関係</td>
<td width="25%">名前</td>
<td width="25%">生年－没年</td>
<td width="25%">備考</td>
</tr>
<tr>
<td>父</td>
<td>王鈞</td>
<td>不詳</td>
<td>定原府院君</td>
</tr>
<tr>
<td>母</td>
<td>国大妃王氏</td>
<td>不詳</td>
<td>延徳府院大君王塤の娘。</td>
</tr>
<tr>
<td>兄</td>
<td>王瑀</td>
<td>不詳-1397</td>
<td>定陽君</td>
</tr>
<tr>
<td>王妃</td>
<td>順妃盧氏</td>
<td>不詳-1394</td>
<td>24代元宗の曾孫娘</td>
</tr>
<tr>
<td>長男</td>
<td>王奭</td>
<td>不詳-1394</td>
<td>殺害される</td>
</tr>
<tr>
<td>長女</td>
<td>粛寧宮主</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>次女</td>
<td>貞信宮主</td>
<td>不詳-1421</td>
<td></td>
</tr>
<tr>
<td>三女</td>
<td>敬和宮主</td>
<td>不詳</td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>恭譲王の生涯</h2>
<p>1345年、恭譲王は父・王鈞と母・国大妃王氏の次男として生まれました。</p>
<p>王族でしたが、王位とは程遠い位置にいました。</p>
<h3>第34代国王として即位</h3>
<p>1389年、昌王が正当な王位継承者でないとして廃位されると、第34代国王として即位させられます。</p>
<p>しかし、所詮、操り人形の王に過ぎませんでした。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>恭譲王は即位すると、李成桂一派の圧力に屈して、流刑になっている禑王と王昌の父子を処刑するよう命じています。</p>
<p>鄭夢周を味方に付け李成桂に対抗しますが、恭譲王の時代は長くは続きませんでした。</p>
<h3>後ろ盾の鄭夢周が殺害される</h3>
<p>1392年、鄭夢周が李芳遠の刺客に開京の善竹橋で殺害されます。</p>
<p>鄭夢周が殺害されると、李成桂に対抗していた勢力は雪崩を打って崩れていきました。</p>
<p>李穡は流刑、鄭夢周一派は粛清されました。</p>
<h3>恭譲王の最後</h3>
<p>恭譲王は最後の手段として、李成桂と同盟を結ぼうとしました。</p>
<p>しかし、恭譲王の廃位を申し出る李成桂一派に、王大妃（定妃安氏）は遂に廃位の教旨を下しました。</p>
<p>1392年7月12日、恭譲王は廃位となり、原州に追放されています。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>南誾が廃位の教旨を読み上げると、</p>
<p>恭譲王は<br />
「余は本来、王になどなりたくなかったが、重臣たちが強引に余を王にした。余は不敏な性格で、事も知らないゆえ、どうして臣下の情（意見）に逆らえるだろうか。」と言って涙を流したと言います。</p>
<p>それから2年後の1394年、謀叛の計画があるとして、恭譲王は配流先の三陟（サムチョク）で息子の王奭とともに殺害されました。</p>
<h3>高麗王朝の滅亡</h3>
<p>李成桂は、高麗王室の一族の徹底排除を企て、流刑先に向かう高麗王室の一族が乗った船を沈めてしまいました。</p>
<p>王氏一族を渡し場から次々と海に突き落としたとも言われています。</p>
<p>これにより、34代475年続いた高麗王朝は完全に滅亡、朝鮮王朝が始まります。</p>
<div style= height:10px aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>
<p>その後も王氏末裔を消し去るため、徹底的に捜査が行われました。</p>
<p>現在、韓国に王氏が少ない理由は、このときに身を隠すために「王」の姓から似た姓の「玉」や「田」に変えたためだとも言われています。</p>
<h2>まとめ</h2>
<p>突然、政治の舞台に立たされた恭譲王に政治を司る能力はありませんでした。</p>
<p>特別な業績もなく表舞台から消えていきました。</p>
<p>しょせん、朝鮮王朝ができるまでの中継ぎの王にすぎなかったのです。</p>
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