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仁順王后の家系図【親の影で耐えた涙の王・明宗に仕えた薄幸の王妃】

仁順王后は親の影で耐え忍んだ「涙の王」明宗の王妃です。

気の強い姑のもとで暮らした仁順王后とはどんな王妃だったのか。

仁順王后の家系図からご紹介します。

 

仁順王后の家系図

仁順王后の父・沈鋼は青松沈氏一族の出身です。

青松沈氏は、朝鮮王朝時代に多くの政府高官を輩出した沈洪孚を始祖とする名門氏族です。

仁順王后の母・完山府夫人は第3代王・太宗の次男・孝寧大君の流れをくむ王族の系統です。

<仁順王后の家系図>

 

また、青松沈氏は3人の王妃を輩出した氏族でもあります。

仁順王后以外には、第4代国王世宗の王妃・昭憲王后、第20代国王景宗の王妃 端懿王后が青松沈氏一族の出身です。

<三人の王妃を輩出した青松沈氏>

 

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仁順王后はどんな王妃だったのか?

仁順王后に関する記録もほとんどありません。

息子の順懐世子は13歳で亡くなりますが、息子を亡くしたときには酷く悲しんだことが記録されています。

 

仁順王后のプロフィール

仁順王后は儀礼を厳しく遵守し、王様には誠実で、敬い、礼を尽くし、決して逆らうことはなかったといいます。

仁順王后(インスンワンフ)
生年:1532年5月25日
没年:1575年1月2日
在位:1545年7月6日-1567年6月28日
諡号:宣烈懿聖仁順王后
氏族:青松沈氏
夫:明宗
子女:順懐世子(名は暊)
父親:沈鋼
母親:完山府夫人(全州李氏)
陵墓:康陵

 

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仁順王后の家族

一人息子の順懐世子が13歳で亡くなると、その後、子供に恵まれませんでした。

明宗の死後、養子を迎えて王位を継承させました。

関係 名前 生年-没年 備考
沈鋼 1514-1567 青陵府院君
完山府夫人 1512-1559 名は李希慶
明宗 1534-1567 第13代国王
本人 仁順王后 1532-1575
長男 順懐世子 1551-1563 13歳で逝去
養子 宣祖 1552-1608 第14代国王

 

養子を迎え国王とする

順懐世子の死後、明宗と仁順王后には子供ができませんでした。

そこで、明宗が亡くなると中宗の息子・徳興君の三男・河城君を養子に迎えて、第14代国王・宣祖として即位させました。

<養子を迎えて宣祖として即位>

宣祖は朝鮮王朝で庶子(側室から生まれた子供)から、初めて王になった人物です。

 

仁順王后の生涯

仁順王后は1532年に沈鋼の娘として生まれました。

1544年、文定王后の息子の慶源大君(後の明宗)と結婚しています。

 

翌年の1545年に、仁宗が在位8ヶ月で突然亡くなり、慶源大君が第13代王・明宗として即位しました。

同時に、仁順王后は王妃として冊封されました。

 

1551年、初めての王子、順懐世子を出産します。

しかし、1563年、順懐世子が13歳の若さで他界してしまいます。

 

更に1567年には、今度は夫の明宗が病死してしまいました。

明宗に跡継ぎがいなかったことから、中宗の庶孫・河城君を養子に入れて、第14代国王宣祖として即位させました。

最初の1年間は宣祖が幼かったため、仁順王后が垂簾聴政を行いました。

 

1569年、仁順王后は尊号を受け懿聖王大妃と称されています。

1575年1月2日、表舞台から身を引いていた仁順王后が昌慶宮通明殿で静かに亡くなりました。

享年44歳でした。

 

まとめ

仁順王后は多くの官僚や王妃を輩出した名門一族の出身でした。

しかし、明宗の母親・ 文定王后が朝廷をはじめとする宮廷を仕切り、明宗も仁順王后も活躍の場がありませんでした。

 

宣祖が即位したときに、仁順王后は垂簾聴政で政治に参加していますが、1年後にはきっぱりと政治から身を引いています。

その後は、静かで平和な余生を過ごしたと思われます。

陵墓は康陵(カンヌン)であり、現在は夫の明宗と共に静かに眠っています。

 

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