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純元王后の家系図【安東金氏の勢道政治の基礎を築いた王妃】

純元王后(スンウォンワンフ)は外戚の安東金氏が王朝で勢力を拡大するのに貢献した王妃でした。

純元王后とはどんな王妃だったのか、純元王后の家系図から調べてみました。

 

純元王后の家系図

純元王后(スンウォンワンフ)は第23代国王・純祖の正室で、安東金氏一族の出身です。

 

<純元王后の家系図>

父親の金祖淳は正祖から信頼を得ていた人物で、正祖の息子・純祖を託されていました。

安東金氏の家祖は高麗王朝の初代王・太祖(王建)を助けた功臣でした。

純元王后の先祖も代々、王朝で重臣を務めています。

<純元王后の先祖>

名前 時代 最終官職
八代祖 金尚憲 仁祖~孝宗 左議政
七代祖 金光燦 仁祖~顕宗 同知中枢府事
六代祖 金壽恒 顕宗~粛宗 領議政
五代祖 金昌集 粛宗~景宗 粛宗~景宗
高祖父 金濟謙 粛宗~景宗 右副承旨
曾祖父 金達行
祖父 金履中
金祖淳 正祖~純祖 弘文館大提学

 

純元王后が王妃になった背景

正祖の信頼を得ていた純元王后の父・金祖淳(キム・ジョスン)は息子の李玜(純祖)を助けるように依頼をされます。

そのため、李玜(純祖)の結婚相手を選ぶ揀択の途中で正祖は亡くなりますが、事実上、金祖淳の娘・純元王后が世子嬪に決まっていました。

1800年に純祖が即位すると、その2年後の1802年に純元王后は正式に王妃となります。

 

安東金氏黄金時代の基礎を築く

純祖が即位した当初は、まだ11歳と幼かったため、大王大妃の貞純王后(純祖の曾祖父・英祖の継妃)が垂簾聴政を実施しました。

しかし、1803年12月に貞純王后が垂簾聴政をやめて引退すると、いかなる官職も辞して表に出なかった金祖淳(キム・ジョスン)が本性を現し始めます。

純祖の親政が始まると、国王の義父(国舅)の金祖淳は金氏一族を朝廷の要職に就けていきます。

 

純元王后(スンウォンワンフ)も実家の栄華繁栄の為に、純祖に積極的に働きかけたといわれています。

こうして、第25代国王・哲宗の時代まで約60年間の間、外戚安東金氏が国の政治を牛耳る勢道政治が行われました。

その権力は凄まじく、たとえ王族でも金氏には抵抗できずに、酷いときには怒りを買うと謀反の罪を着せられ死罪にされる場合もありました。

 

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純元王后はどんな王妃だったのか?

純元王后(スンウォンワンフ)は外戚・安東金氏による勢道政治に貢献した王妃でした。

安東金氏のあまりの勢力に悩んだ純祖が1819年、息子の孝明世子の妃に豊壌趙氏の女性を選び安東金氏と対抗させました。

 

代理聴政を任された孝明世子は、妻・孝顕王后 の豊壌趙氏一族から父親の趙万永や親族を要職の就けて、安東金氏の一族を追放していきました。

この結果、一時的に安東金氏の勢力は衰え、純元王后は落胆しますが、1830年に孝明世子が亡くなると再び安東金氏が勢力を取り戻しました。

こうして、宮廷における純元王后の力も再び強くなっていきました。

<純元王后のプロフィール>
生年:1789年5月15日(陰暦)
没年:1857年8月4日
配偶者:純祖
子女:孝明世子他
氏族:安東金氏
父親:金祖淳

 

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純元王后の家族

純元王后(スンウォンワンフ)は純祖との間に、2男3女の子供を生んでいます。

関係 名前 生年-没年 備考
純祖 1790-1834年 第23代国王
本人 純元王后 1789-1857年
長男 孝明世子 1809-1830年 嫁:神貞王后
次男 大君 1820-1820年 夭逝
長女 明温公主 1810-1832年
次女 福温公主 1818-1832年
三女 徳温公主 1822-1844年
養子 哲宗 1831-1864年 第25代国王

 

父親の金祖淳

金祖淳(キム・ジョスン)は正祖の信任を得ていた人物で、正祖から純祖の将来を託されていました。

正祖が亡くなり、純祖が即位しますが、貞純王后が垂簾聴政を行うと目立った動きは見せませんでした。

 

しかし、貞純王后が退き、純祖が自ら政治を始めると国舅として金祖淳が表に出て動き始めます。

親族を朝廷の要職に就けて、朝廷を独占しました。

こうして、金祖淳は安東金氏の勢道政治の基礎を築いていきました。

<金祖淳の家族>

関係 名前 生年-没年 備考
本人 金祖淳 1765年-1832年 弘文館大提学
青松沈氏 1766年—1828年
長男 金逌根 1785年—1840年
次男 金元根 1786年—1832年
長女 純元王后 1789年—1857年 純祖の正室
三男 金左根 1797年—1869年 領議政
次女 貞敬夫人 詳細不明 夫:南久淳
三女 貞敬夫人 詳細不明 夫:李谦在
四女 詳細不明 詳細不明 夫:李肯愚
五女 詳細不明 詳細不明 夫:李章绍

 

純元王后の弟

金祖淳(キム・ジョスン)の息子は父親・金祖淳の力で朝廷の要職に就いていきますが、特に権力を振るったのが三男の金左根(キム・ジャグン)でした。

金左根は純元王后を後ろ盾に、要職を歴任して領議政まで上り詰めます。

時の王であった哲宗は何事も金左根にお伺いを立てるほどでした。

 

この辺の凄さは、ドラマ「風と雲と雨」のキム・ジャグンを見ると理解できます。

「風と雲と雨」に出てくる壮洞金氏(チャンドンキムシ)のキム・ジャグンは安東金氏の金左根がモデルです。

 

純元王后の養子・哲宗

1834年に純祖が亡くなると、孫の憲宗が8歳で即位しましたが、憲宗は23歳で逝去してしまいました。

憲宗が亡くなると、跡継ぎがいないことから、安東金氏一族は江華島で百姓をしていた哲宗を王に仕立て上げます。

 

王族の戸籍を剥奪されていた哲宗を純祖と純元王后の養子とした上で、王として即位させたのです。

そして、純元王后が垂簾聴政を行う形で、実際には兄の金左根が政治を主導しました。

 

また、哲宗は純元王后と金左根の言われるままに安東金氏から哲仁王妃を迎えます。
まさに、哲宗はお飾りの王様でした。

 

純元王后が登場するドラマ

純元王后(スンウォンワンフ)が登場するドラマは多くありません。

<純元王后が登場するドラマ>
・雲が描いた月明り(2016年、ハン・スヨン)
・哲仁王后(2020年、ぺ・ジョンオク)

 

まとめ

純元王后(スンウォンワンフ)の家系図から分かるように、安東金氏一族からは代々、朝廷に重臣を排出していました。

そして、金祖淳(キム・ジョスン)の娘・純元王后が純祖の王妃になってから、朝廷の重要な官職を親族が独占し始めます。

 

こうして、朝廷を専横した安東金氏一族がその後60年間に渡り、外戚が政治を主導する勢道政治を行いました。

安東金氏の勢道政治の基礎は父の金祖淳と娘の純元王后が築いたものでした。

 

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