Googleのアドセンス広告を表示しています

禑王(ウ王)の家系図【僧の辛旽と奴婢の般若の子供だったのか】

禑王(ウ王)は僧の辛旽とその奴婢・般若の子供だったのか。

禑王の家系図から詳しく調べてみました。

 

禑王の家系図

王子のいなかった恭愍王に当時、臣下だった僧の辛旽(シンドン)は侍婢だった般若(パニャ)を紹介しました。

辛旽は恭愍王の親任を得て政権を独裁した僧です。

 

1365年7月に恭愍王と般若の間に王禑(後の禑王)が誕生します。

母親の身分が低いことを心配した恭愍王は側室の宮人韓氏を順静王后と追尊して生母と称しました。

<禑王の家系図>

 

【PR】スポンサーリンク

禑王は辛旽の子だったのか?

李成桂が上げた、禑王とその子・昌王の廃位の理由は

禑王は辛旽の子であり、正統な王位継承者ではない」でした。

 

「高麗史」列傳第四十六には禑王について次のように述べられています。

辛禑小字牟尼奴,旽婢妾般若之出也
<引用元:高麗史 列傳第四十六 辛禑一>

<訳>辛禑は幼名を牟尼奴(モニノ)といい、辛旽の妾の婢・般若の子である。

禑王は辛旽の子と決めつけ、辛禑と称しています。

 

また、太宗実録にも次のような記録があります。

恭愍王無子, 將寵臣辛旽子禑, 陰養宮中, 稱爲己子, 及恭愍王薨, 其臣李仁任乃立禑爲嗣。<引用元:太宗実録1403年11月15日>

<訳>恭愍王に子供はなく、寵臣辛旽の子である禑を密かに宮中で養育し、自分の子と称した。恭愍王が亡くなったとき、臣下の李仁任は禑を恭愍王の嫡嗣として擁立した。

 

「高麗史」の編纂は朝鮮時代に鄭麟趾らによって行なわれています。

また、太宗実録は当然、李成桂の即位は正統であることが、大前提で書かれています。

従って、禑王が辛旽の子である信憑性は極めて低いと思われます。

 

【PR】スポンサーリンク

禑王はどんな王だったのか?

禑王は身分の低い母親を生母に持ち、幼い頃から養母に育てられました。

まだ、幼い10歳で即位しますが、政治を行えるはずもなくお飾り的な王でした。

 

19歳のときに、ようやく親政を宣言しました。

しかし、臣下の力が強く、自分の政治を行うことはできませんでした。

 

禑王のプロフィール

第32代高麗王
初名:牟尼奴(モニノ)
本名:王禑(ワンウ)
生年:1365年7月7日
没年:1389年12月14日
享年:25歳
在位:1374年10月30日-1388年7月12日
父:恭愍王
生母:般若(パニャ)
養母:順静王后(名目上の生母)
王妃:謹妃李氏(李琳の娘)

 

禑王の家族

禑王には多くの妃と側室がいましたが、記録されている子供は後に第33代国王として即位する昌王だけでした。

あまりにも多くの妃を抱えたために、各宮殿に供給する物資が非常に多く、倉庫の在庫が底をついたことが高麗史に記録されています。

関係 名前 生年-没年 備考
謹妃李氏 1365-不詳 李琳の娘。本貫は固城李氏
息子 王昌 1380-1389 第33代国王
寧妃崔氏 崔瑩の娘。本貫は東州崔氏
毅妃盧氏 本名は釋婢。本貫は長淵盧氏
淑妃崔氏 本名は龍徳
安妃姜氏
正妃申氏 本貫は平山申氏
德妃趙氏 本名は鳳加伊
善妃王氏
賢妃安氏 本貫は竹山安氏。定妃安氏の姪
後宮 和順翁主 妓生出身で、本名は小梅香
後宮 明順翁主 妓生出身で、本名は燕双飛
後宮 寧善翁主 不詳-1420 妓生出身で、本名は七點仙

 

昌王の生母・謹妃李氏

1379年の4月、李琳(イ・リム)の娘が王妃に選ばれました。

翌年に第33代国王・昌王を生んだ謹妃(グンビ)です。

 

父・李琳は別名李成琳といい、高麗末期の武将でした。

謹妃李氏が王妃に選ばれたのは、父・李琳が当時、権力を握っていた李仁任(イ・イニム)と従兄弟(いとこ)の関係だったことが影響したと言われています。

 

謹妃李氏が昌王を生むと、父親の李琳も政権の中枢に入っていきました。

禑王が廃位されると、李琳は忠州に流刑となりましたが、謹妃李氏は息子が王になったので大妃となり、宮殿に残りました。

しかし、1389年、昌王が廃位されると謹妃李氏も廃位され、庶民に転落しています。

 

崔瑩の娘・寧妃崔氏

禑王は李仁任が失脚して、崔瑩が朝廷を掌握すると、崔瑩の娘を王妃に迎えると言い出しました。

崔瑩は、娘が側室の子なので王妃の資格がないと断りますが、禑王の懇願に負けてしまいます。

禑納崔瑩女爲妃(中略)禑如崔瑩第,遂與瑩,宴于崔氏宮(中略)封崔氏爲寧妃,立府曰寧惠。
<引用元:高麗史 列傳第五十 辛禑五 1388年3月>

<訳>禑王は崔瑩の娘を迎えて王妃とした。(中略)禑王が崔瑩の家に行き、崔瑩と一緒に王妃崔氏の宮殿で宴会を開いた。(中略)崔氏を寧妃に冊封し、寧惠府を設置した。

1388年3月に、崔瑩の娘を王妃(寧妃崔氏)に迎えた禑王は、度々、崔瑩の家に伺い、崔瑩との関係改善に務めたと言われています。

しかし、寧妃崔氏との結婚生活はたったの3ヶ月で終わりました。

 

1388年6月、禑王と崔瑩は威化島回軍で開京に戻った李成桂により流刑とされてしまいます。

寧妃崔氏も禑王に従って、廃位となり流刑地に送られました。

 

禑王の寵愛を受けた德妃趙氏

德妃趙氏は初名を鳳加伊といい、趙英吉と李仁任の家の奴婢との間に生まれた娘です。

1384年6月、李仁任の家を訪れた禑王は、鳳加伊を一目みて気に入りました。

初趙英吉,爲李仁任婢壻,生女曰鳳加伊,禑如仁任第,滛焉,寵傾後宮
<引用元:高麗史 列傳第四十八 辛禑四 1384年6月>

<訳>趙英吉が李仁任の奴婢との間に鳳加伊という娘をもうけた。禑王が李仁任の家に行ったときに、その女と情を通じ、後宮よりも寵愛した。

禑王の寵愛を受けた鳳加伊は1385年に肅寧翁主に封じられます。

1386年8月、肅寧翁主は憲妃に昇格、特別に作られた屋敷の肅寧府で暮らし始めます。

 

1387年、鳳加伊は正式に徳妃に冊封されました。

父親の趙英吉も待遇を受け、典農副正を経て密直副使まで昇進しています。

 

1388年に禑王が追放されると、徳妃は他の妃と同様に宮廷から追放されています。

 

禑王の生涯

禑王は政治を行うこと無く、身分の低い母親に生まれた出生が政治に利用された悲劇の王でした。

 

禑王の誕生

恭愍王に継承者がいなかったことから、臣下の僧・辛旽(シンドン)は自分の侍婢だった般若(パニャ)を紹介します。

1365年7月、恭愍王と般若の間に王禑が生まれました。

 

王禑は1371年、7歳で宮廷に入ると、宮人韓氏が養母となり王宮で育てました。

1373年には、禑(ウ)の名前を与えられています。

 

禑王の即位

1374年、恭愍王が親元派に殺害されると、禑王は李仁任(イ・イニム)の推挙で第32代高麗王に即位します。

 

しかし、禑王は10歳と幼かったので、恭愍王の母である明徳太后が摂政を行いました。

1376年に養母の宮人韓氏が亡くなると、宮人韓氏を順静王后と追尊して、生母と称しました。

 

これを聞いた生母の般若は明徳太后の住まいに侵入、生母であることを訴えました。

このふるまいが罪に問われ、般若は李仁任により処刑されます。

 

明徳皇后の死と王室の衰退

1380年1月、王室を支えてきた祖母の明徳皇后が亡くなり、代わって李仁任が摂政になりました。

李仁任は王室の親戚であった慶復興(キョン・ボクフン)に言いがかりをつけて流刑とし、朝廷から排除します。

 

当時、慶復興は朝廷で大きな権力を持つ高麗最高官僚の門下侍中でした。

これにより、王室は政治に対する影響を完全に失い、李仁任の独裁政治が始まります。

 

息子の王昌が生まれる

1379年4月、禑王は李琳の娘(謹妃:グンビ)と結婚しました。

1380年8月、王妃・謹妃李氏との間に待望の息子・王昌が誕生します。

 

1383年、禑王は親政を宣言しましたが、独自の軍隊も無く権力基盤は脆弱でした。

そこで、禑王は益々、李仁任を頼ります。

 

1384年には、頻繁に李仁任の家を訪れた禑王の記録が残っています。

李仁任の権勢が高まるにつれて、李仁任一派は傍若無人に私腹を肥やし、その専横ぶりは目に余るようになりました。

 

李仁任一派の失脚

1388年1月、戊辰被禍(ムジンピファ)が起こりました。

李仁任の側近・廉興邦の家奴(使用人)の李光が趙胖の土地を強奪した事件をキッカケに、不満の溜まっていた崔瑩と李成桂が李仁任一派を一挙に粛清した事件です。

 

崔瑩と李成桂は林堅味、廉興邦らを処刑、李仁任を流刑にしました。

これにより、摂政として君臨していた李仁任に代わって、崔瑩と李成桂が政治の表舞台に現れることになりました。

 

定妃安氏の元に頻繁に通う

1387年頃、高麗史には頻繁に定妃安氏の元に通う禑王の記録が残っています。

この時、禑王22歳、定妃安氏35歳でした。

1376年、禑王11歳のときに養母の宮人韓氏が亡くなってから、定妃安氏が養母として禑王を育てていました。

禑如高懽家, 遂如定妃殿. 暮又如定妃殿, 禑數至妃殿, 頗有醜聲.
<引用元:高麗史 列傳第四十九 辛禑四 1387年11月>

<訳>禑王は高懽の家に立ち寄った後、定妃殿に行き、夕方にもまた定妃殿に行った。王が一日に何度も定妃殿に通うので、悪い噂が多く流れた。

定妃安氏は禑王の父・恭愍王の妃で大妃として宮殿に暮らしていました。

禑王は1日に何度も定妃殿に通うので、悪い噂も多く流れたといいます。

 

幼い頃に生母と養母を亡くし、祖母の明徳皇后からも疎ましく思われてきた禑王にとって、実際の育ての親である定妃安氏は母であり、理想の女性だったのかもしれません。

この頃、禑王は定妃安氏のために府(住まい)まで作り、慈惠府と名付けています。

 

遼東討伐軍の派遣

1388年2月、明が鉄嶺以北の割譲を一方的に通告してきました。

当時、権力を掌握していた崔瑩はこれを拒否、遼東討伐軍を派遣することを決定します。

しかも、その遂行を李成桂に命じました。

 

遼東派遣は巨大な明に挑む無謀な計画でしたが、当時、親明派として勢いのあった李成桂の軍隊を壊滅させる目的があったのです。

禑王は親明派の李成桂を嫌い、崔瑩の娘を王妃(寧妃)として迎え、崔瑩を後援勢力として期待していました。

 

禑王は崔瑩を総司令官、曹敏修と李成桂を左右都統使とした遼東討伐軍を組織します。

しかし、崔瑩は遠征には加わらず、曹敏修と李成桂を遼東遠征へと向かわせました。

 

李成桂の威化島回軍

最初から遼東討伐に懐疑的であった李成桂は、豪雨のため威化島で足止めされました。

食料も無くなり、脱走する兵も増え、李成桂は引き返すことを提案しますが、拒否されます。

進退窮まった李成桂は、遂に威化島回軍を断行します。

 

都に戻った李成桂は開京(開城)を包囲、崔瑩は捕らえて流刑とします。

こうして、李成桂と曹敏修は軍事権をはじめとする全ての権力を掌握することに成功します。

 

禑王の最後

李成桂と曹敏修は次の王を巡って対立します。

曹敏修は李穡と秘密裏に会談して、禑王の息子・王昌を昌王として即位させました。

禑王は上王とされ、江華島の離宮へ追放されています。

事実上の廃位でした。

 

新しい国を望む李成桂は直前で曹敏修に裏切られたことになります。

しかし、李成桂は大司憲の趙浚と共謀して、田制改革に反対する曺敏修を弾劾、流刑とします。

これをキッカケに李成桂派は対抗勢力を次々と失脚させていきました。

 

そして遂に、李成桂は禑王は恭愍王の子ではなく、辛旽(シンドン)の子だという言いがかりをつけて、禑王の息子の昌王を廃位させています。

1389年12月、禑王と昌王は流刑先で処刑されてしまいました。

 

まとめ

幼くして王位に就いた禑王は恭愍王の母である明徳太后が摂政を行いました。

明徳太后が亡くなってからも、臣下の影響力が強く、思うような政治を行うことができませんでした。

禑王は李仁任、崔瑩と臣下に操られ、最後は僧と奴婢の子として処刑された悲劇的な王でした。

 

error: Content is protected !!