鄭夢周を殺害したとして有名な趙英珪です。
しかし、意外にもその時、上級官僚でした。
実在した趙英珪(チョ・ヨンギュ)とはどんな人物だったのか?
詳しくご紹介します。
実在した趙英珪はどんな人物?
趙英珪(チョ・ヨンギュ)は平民から李成桂の兵士となり、軍功を上げて出世した人物です。
趙英珪のプロフィール
趙英珪のプライベートに関する情報は皆無で、家族についてはほとんど何も分かっていません。
初名:趙評
生年:不詳
没年:1395年
享年:不詳
氏族:新昌趙氏
父:不詳
母:不詳
妻:不詳(車堅質の妾)
趙英珪の家系図
趙英珪(チョ・ヨンギュ)は新昌趙氏の始祖で、忠清南道牙山市新昌面を本貫としています。
趙英珪は開国功臣でしたが、その子孫はあまり繁栄しなかったようです。
趙英珪の家族
趙英珪(チョ・ヨンギュ)の妻は名門延安車氏一族の車堅質の妾だったといいます。
趙英珪には3人の息子(趙珠、趙仁、趙祐)がいましたが、成人後の消息は不明です。
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趙英珪の生涯
趙英珪(チョ・ヨンギュ)の幼少期の情報は全くありません。
倭寇の討伐で戦功を上げる
1385年頃、趙英珪は李成桂とともに倭寇の討伐で何度も戦功を上げています。
この時、趙英珪は判衛尉寺事(正三品)の官職でした。
鄭夢周を殺害する
1392年4月、趙英珪(チョ・ヨンギュ)は李芳遠の命令で鄭夢周を善竹橋で殺害しています。
実はこの時、意外にも趙英珪は判典客寺事(正三品)の上級官僚でした。
李芳遠と趙英珪の出会いは不明ですが、趙英珪が李成桂の邸宅に出入りしている時だったと推測されます。
開国功臣に選ばれる
1392年7月、朝鮮が建国、李成桂が初代国王に即位しました。
趙英珪(チョ・ヨンギュ)は朝鮮建国の貢献により開国功臣2等に選ばれ、禮曹典書(正三品)に任命されます。
趙英珪の最後
1395年、趙英珪(チョ・ヨンギュ)は病気で亡くなり、參贊門下府事(正二品)に追尊されました。
実録には次のように記録されています。
禮曹典書趙英珪卒。 英珪初名評。 從上潛邸, 屢立戰功, 國初, 與於功臣之列, 至是病卒。 贈參贊門下府事, 致賻以厚。 子珠、仁、祐。
<引用元:太祖実録1395年1月9日>
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まとめ
ドラマの多くが趙英珪を李芳遠の忠実な部下のように扱っていますが、意外にも、趙英珪は上級官僚でした。
李芳遠の命を受けて、趙英珪がなぜ、主導的に鄭夢周の殺害を実行したのか、詳しいことは分かっていません。
趙英珪は李芳遠の元で活躍すること無く、第一次王子の乱が起こる3年前の1395年に亡くなっています。