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昌王の家系図【高麗から朝鮮へ時代の激変に翻弄された幼き王】

歴史にほとんど記録を残さなかった昌王

昌王はどんな王だったのか?

昌王の家系図から調べてみました。

 

昌王の家系図

昌王(チャンワン)は父の禑王が辛旽の息子と言われ、正統な王位継承者ではないと言われました。

父と同じく辛旽の血を引く偽の王族として、辛昌と呼ばれることもありました。

母親の謹妃李氏は李璜を始祖とする固城李氏一族の出身です。

<昌王の家系図>

 

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昌王はどんな王だったのか?

昌王は僅か9歳で即位、翌年の10歳のときに廃位され、殺害されています。

従って、昌王に関する記録はほとんどありません。

 

昌王のプロフィール

昌王(チャンワン)
第33代国王
生年:1380年8月7日
没年:1389年12月14日
在位:1388年7月12日-1389年12月2日
父:禑王
母:謹妃李氏(李琳の娘)

 

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昌王の家族

昌王は10歳で廃位の上、殺害されたため家族をもつこともできませんでした。

父:禑王
母:謹妃李氏
妃:なし

 

父・禑王は辛旽の子だったのか?

昌王の父親の禑王は辛旽の子と言われ、昌王は正統な王位継承ではないと言われました。

そのことは、高麗史にも朝鮮王朝実録にも記録されたいます。

 

しかし、これは朝鮮王朝時代に編集されたものであり、かなり信憑性が低いと思われます。

昌王が辛旽の血を引く血統ということは、李成桂が王になるための口実でした。

詳しくは>>禑王(ウ王)の家系図【僧の辛旽と奴婢の般若の子供だったのか】をご覧ください。

 

易姓革命派の主張「廃仮立真」

廃仮立真(ペガイプチン)とは、偽物を廃して、本物を立てるという意味です。

易姓革命派が主張しました。

 

つまり、禑王と昌王は辛旽の血を引く偽物で、正統な王を立てるべきだという主張でした。

そのため、易姓革命派は禑王を「辛禑」、昌王を「辛昌」と呼び、国王とは認めていませんでした。

 

勢力を拡大した易姓革命派は、昌王を江華島に流配とし、神宗の血統である恭譲王を王位に就けます。

そして、昌王を王位に就けた王朝擁護派の曺敏修と李穡を流罪としました。

<豆知識>易姓革命派とは
易姓革命とは「姓を易える」、つまり、高麗の王(王氏)を変えて、新たな王(李氏)を立てることを意味します。鄭道伝を中心とする易姓革命派は、王を変え、新たな王朝をつくる革命を目指していました。一方、鄭夢周を中心とする王朝擁護派は王朝を維持したままでの政治変革を李成桂に期待していました。

 

昌王の生涯

1374年、祖父の恭愍王が殺害されると、父の禑王が僅か10歳で王に即位しています。

1380年、昌王は禑王と謹妃李氏の長男として生まれました。

 

1388年、李成桂と曺敏修による威化島回軍が起こり、父の禑王は廃位されました。

これにより、昌王は曺敏修と李穡の推薦を受けて王位に就きました。

 

しかし、翌1389年には、正統な王位継承者でないと言う理由で廃位、禑王とともに処刑されてしまいます。

享年10歳でした。

 

昌王の即位と廃位を宣言した定妃安氏

曺敏修と李穡の主張を受け入れて、昌王即位の教旨を下したのが、祖父恭愍王の王妃であった定妃安氏でした。

定妃安氏は昌王の祖母に相当する女性です。

恭愍王の死後、大妃と称され王室に残っていました。

 

この後、定妃安氏は昌王の廃位と恭譲王の即位の教旨、そして、高麗の滅亡と朝鮮の建国となる李成桂即位の教旨を宣言することになります。

生涯3回の王即位の教旨を宣言した定妃安氏は高麗が滅亡すると、「義和宮主」に降格されますが、死罪は逃れました。

 

しかし、高麗を滅亡させた罪悪感からか、生涯、酒浸りの日々を送ったとも言われています。

定妃安氏は高麗王朝が滅亡してから30年後の1428年に亡くなっています。

定妃安氏について詳しくは>>定妃安氏の家系図【高麗3代の王を廃位させた悲劇の大妃】をご覧下さい。

 

まとめ

昌王は王としての存在感を示すこと無く、僅か10歳の若さで処刑されています。

そして、正当な「高麗国王」ではなく、辛旽の孫「辛昌」と呼ばれ、朝鮮建国の理由として記録されることになりました。

 

自身、王としての自覚など無かったと思われます。

まさに、昌王は高麗滅亡の末期において、時代の激変に巻き込まれた幼き王でした。

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