沈温は世宗の正室・昭憲王后の父親です。
太宗に姜尚仁の獄事(冤罪)で処刑されています。
沈温はどんな人物だったのか?
家系図から詳しく調べてみました。
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沈温の家系図
沈温は、沈洪孚を始祖とする氏族・青松沈氏の出身です。
青松沈氏は高麗時代から続く名門で、朝鮮時代には数多くの政府高官を輩出しています。
曾祖父の沈淵は高麗の閤門祗候、祖父の沈龍は高麗の贈門下侍中、父の沈德符は左政丞と代々官僚の家系でした。
<沈温の家系図>
青松沈氏の一族からは、昭憲王后(沈温の娘)をはじめ、4人の王妃を輩出する名門氏族となります。
・昭憲王后(第4代王・世宗)
・仁順王后(第13代王・明宗)
・端懿王后(第20代王・景宗、追尊)
・純元王后(第23代王・純祖)
<青松沈氏の王妃>
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沈温はどんな人物だったのか?
沈温は誠実で温厚な人柄だったと言われています。
沈温のプロフィール
生年:1375年
没年:1418年
享年:44歳
氏族:青松沈氏
妻:三韓国大夫人(順興安氏)
子供:3男6女
父:沈德符
母:仁川門氏(郞將門必大の娘)
沈温の親兄弟
沈温は7人の男兄弟の五男でした。
姜尚仁の獄事で、沈温と沈泟は処刑、その他の兄弟はみな連座で捕らえられて、流刑となっています。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 沈德符 | 1328-1401 | |
母 | 仁川門氏 | 不詳 | 郞將門必大の娘 |
長男 | 沈仁鳳 | 不詳 | 都摠制 |
次男 | 沈義龜 | 不詳 | 判事 |
三男 | 沈繼年 | 1368-1434 | 知成州事 |
四男 | 沈澄 | 不詳 | 仁壽府尹 |
五男 | 沈温 | 1375-1418 | 領議政、処刑 |
六男 | 沈淙 | 不詳 | |
七男 | 沈泟 | 不詳-1418 | 処刑 |
父の沈德符は太祖の戦友
1385年、東北面の上元帥だった父の沈德符は、李成桂と共に倭寇と戦い、多くの功績を上げました。
また、その年の冬には賀正使として明に行き、帰国後、青城府院君に封じられています。
1388年の威化島回軍のときには、曹敏修の左軍に所属していました。
昌王を廃位にして、恭譲王を擁立するときに、李成桂(太祖)、鄭道傳、鄭夢周と共に主導的な役割を果たしています。
1392年、判門下府事として朝鮮王朝の開国を迎え、1393年には、回軍功臣に追錄され、青城伯に封じられました。
その後も昇進をかさね、1399年には左政丞となりましたが、1401年に亡くなっています。
弟・沈淙は太祖の次女の夫
沈温の弟・沈淙は1393年に太祖の次女の慶善公主と結婚しました。
1398年に、沈淙は青原君に封ぜられ、その年の第一次王子の乱で李芳遠を助け、その戦功により定社功臣に選ばれています。
1400年の第2次王子の乱では、中立的な立場をとっていましたが、1416年に、敗れて流配中の李芳幹と密かに交流していたことが発覚します。
その結果、沈淙は庶民に降格の上、流刑にされてしまいました。
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沈温の家族
沈温と妻・三韓国大夫人の間には3男6女の子供がいました。
長女は世宗の正室・昭憲王后です。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
妻 | 三韓国大夫人 | 不詳-1444 | 順興安氏 |
長男 | 沈濬 | 不詳-1448 | 閔無恤の娘と結婚、領中樞院事 |
次男 | 沈澮 | 1418-1493 | 領議政 |
三男 | 沈决 | 1419-1470 | 領敦寧府事 |
長女 | 昭憲王后 | 1395-1446 | 世宗の正室 |
次女 | 不詳 | 不詳 | 盧物載の妻 |
三女 | 不詳 | 不詳 | 姜碩德の妻 |
四女 | 不詳 | 不詳 | 柳子偕の妻 |
五女 | 不詳 | 不詳 | 朴崇之の妻 |
六女 | 不詳 | 不詳 | 朴去踈の妻 |
長女は世宗の正室・昭憲王后
沈温の長女は第4代王・世宗の正室となった昭憲王后です。
父親が無罪の罪で殺害され、母親が奴婢にされても、生涯、夫に尽したといいます。
そのため、朝鮮王朝における三大徳妃の1人と称されています。
昭憲王后について詳しくは>>昭憲王后の家系図【名家出身の徳妃の波乱万丈の生涯】
領議政に上り詰めた次男・沈澮
父・沈溫が謀反の罪で処刑されたため、長男の沈澮とその兄弟たちは官職の道を閉ざされていました。
しかし、文宗が即位すると、沈温の名誉が回復され、子孫は官職に就くことが許可されます。
長男の沈澮は既に亡くなっていましたが、次男の沈澮と三男の沈決は官職に登用されました。
沈澮は敦寧府注簿に採用され、その後、順調に昇進していきます。
世祖は沈澮を叔父として大切に扱い、1467年には議政府領議政に抜擢しています。
次の王・成宗のときにも重臣として仕え、1493年に享年76歳で亡くなっています。
復官後、順調に出世した三男・沈决
三男の沈决も、次男の沈澮同様、文宗の時にようやく敦寧府主簿に登用されました。
その後、順調に出世して、1461年には、工曹判書に昇進しています。
1470年、成宗のときに領敦寧府事に登用されましたが、その年、52歳で生涯を閉じています。
沈温の生涯
1375年、沈温は沈德符の息子として生まれました。
沈温は11歳で高麗の監試に合格すると、最初に兵曹と工曹の義郞を務めました。
その後、沈温は順調に昇進していきます。
順調な昇進の時代
恭靖王が王位に就くと、龍武司大護軍(従三品)、神武司大護軍を務めました。
太宗の時代には、知閣門事、大護軍、幹辦內侍茶房事、龍驤司上護軍(正三品)、判通禮門事を歴任しています。
その後も、承政院同副代言に抜擢されると、左副代言、嘉善大夫(従二品)、左軍同知総制、嘉靖大夫豊海道都觀察使、参知議政府事、資憲大夫(正二品)、刑曹判書、戶曹判書と着実に昇進していきます。
更に、漢城判尹、議政府参贊、左軍都総制を歴任しました。
世宗が即位すると、国舅として清川府院君に封じられ、最終的には領議政府事(領議政)にまで上り詰めています。
沈温が処刑された姜尚仁の獄事
外戚の勢力拡大を恐れる太宗によって、沈温は濡れ衣を着せられて処刑されています。
冤罪であったことは、当時から明らかでした。
沈温が処刑された姜尚仁の獄事についてご紹介します。
1418年8月、兵曹参判の姜尚仁(カン・サンイン)が、軍事に関する事項を世宗にしか報告しなかった事件が発覚しました。
そのころ、軍事を掌握していたのは上王になった太宗でした。
太宗は功臣であった姜尚仁を庇いますが、最終的には事件に関係した者は流配、姜尚仁は官職を剥奪され官奴にされています。
しかし、この事件は、このままでは収まりませんでした。
1418年9月、世宗の即位を知らせるために、沈温が明に謝恩使として向かいました。
そのときに、多くの官僚や学者が沈温の出発を盛大に見送ったといいます。
それを知った太宗は、沈温とその一族の巨大な勢力に嫉妬と大きな恐れを抱きます。
11月3日、突然、左議政の朴訔(パク・ウン)により、姜尚仁の一件が大逆罪として取り上げられたのです。
政敵(領議政・沈温)を排除したい朴訔と外戚を排除したい太宗が裏で手を結んでいたことは明らかでした。
太宗は庇ったはずの姜尚仁を、今度は利用しようと企てたのです。
姜尚仁らは、再び捕らえられて厳しく尋問されました。
その結果、新たに沈溫、沈泟、李灌、曺恰などの名前が浮かび上がってきました。
沈泟は父・沈温の実弟です。
11月22日、姜尚仁、李灌、沈泟らは捕らえられて厳しく拷問されました。
そして、遂に拷問に耐えられず、「首謀者は沈温である」と自白してしまいます。
関係した姜尚仁、李灌、沈泟、朴習ら10余名は処刑、親族も成人男性は処刑、女性や幼い子は奴婢にされました。
国内で大事件が起こっていることも知らず、沈溫が明から帰国します。
事態に驚いた昭憲王后は世宗に懇願しますが、太宗に対して世宗は為す術がありませんでした。
12月22日、国境付近まで来た沈溫は義州で捕らえられ、翌日の23日に水原まで送られた後、処刑(自害)されています。
この一連の事件を姜尚仁の獄事と呼んでいます。
まとめ
沈温は人柄も良く、誰からも好かれ、一族も高麗時代から続く名門・青松沈氏でした。
そのことが太宗から狙われる要因となり、冤罪により殺害されてしまいました。
やり場がない怒りと悲しみの昭憲王后でしたが、この試練に耐えに耐え忍びました。
沈温の名誉が回復されたのは、彼女の息子の文宗が即位してからです。
また、この時に孫たちは官職に復帰することができました。