500年続く国家を築いた怪物のイバンウォン
実話に基づく生涯を詳しくご紹介します。
史実を知ると、ドラマに対する理解の深みが増しますよ。
太宗 イバンウォンの実話に基づく生涯
ドラマ「太宗 イバンウォン」はかなり史実に忠実に描かれたドラマです。
細かいエピソードも取り込まれており、特に太宗の妻・元敬王后や世宗の妻・昭憲王后の当時の悲しい状況を知ることができます。
威化島回軍
1388年5月22日、李成桂(イソンゲ)は遂に王命にそむき、軍隊を威化島から帰還させることを決意しました。
威化島回軍(ウィファドフェグン)です。
<遼東遠征と威化島回軍の行程>
開京から遼東を攻撃に向かった李成桂と曹敏修の軍隊は、大雨で川を渡れず威化島で立ち往生します。
兵士の疲労と脱走、そして食料不足など、軍隊は壊滅状態に向かっていました。
李成桂の度重なる帰還の督促にも崔瑩は応じず、李成桂は遂に、開京への帰還(回軍)を決めたのです。
6月1日、開京に着いた討伐軍は王宮を包囲、禑王に使者を送り、崔瑩(チェ・ヨン)の処罰を求めました。
禑王が求めに応じないとみると、6月3日、遂に李成桂率いる右軍は東門(崇仁門)、曹敏修率いる左軍は西門(宣義門)から突入します。
討伐軍は、崔瑩の軍隊を倒し、禑王と崔瑩を捕らえて親元派政権の制圧に成功します。
崔瑩に従った兵は極わずかでした。
国が荒廃し、飢餓が蔓延していた高麗では、すでに国王は民心を失い、新しい王を期待していました。
李成桂の「威化島回軍」は民の喜びの声で迎えられたのです。
崔瑩は捕らえられ、島流しの上、後に処刑されました。
李成桂の家族の危機
禑王は、李成桂らを遼東遠征させる際に、反乱に備えて武将らの家族を人質としました。
李成桂の息子も人質となりましたが、回軍が始まると全員脱出しました。
朝鮮王朝実録には次のように記録されています。
是夜, 上王與其兄芳雨及李豆蘭子和尙等, 自成州 禑所, 奔于軍前, 禑日午猶未知
<引用元:太祖実録 総序から抜粋>
注)上王とは李芳果(後の定宗)のことです。太祖実録が編纂されたときに太宗に譲位させられて、上王になっていたのでこう書かれています。
また、この時、官職にあった李芳遠は回軍の知らせを受けると、開京に残っていた継母や異母兄弟をいち早く救出しています。
禑王の廃位と昌王の擁立
崔瑩は拘束され流刑になりましたが、禑王は名ばかりの王として生かされていました。
禑王は李成桂を殺害するために、内侍80名を李成桂の私邸に送り込みます。
しかし、この李成桂の殺害計画は失敗に終わり、禑王は上王とされ、江華島の離宮へ追放されてしまいます。
事実上は、王位の剥奪でした。
朝鮮王朝実録には次のように記録されています。
禑夜與宦竪八十餘人, 被甲馳至太祖及曺敏修、邊安烈第, 以皆屯軍門外不在家, 故不得害而還
<引用元:太祖実録 総序から抜粋>
次期王を巡って議論が粉砕しますが、曹敏修(チョ・ミンス)が李穡(イ・セク)とともに李成桂の反対を押し切り、息子の昌王を即位させました。
1388年6月、第33代王・昌王の誕生です。
この時、昌王はわずか9歳でした。
昌王について詳しくは

昌王の擁立に成功した曹敏修は楊広、全羅、慶尚、西海、交州の都統使を任命され、高麗ほぼ全土の軍事権を掌握しました。
しかし、僅か1ヶ月後の7月、曹敏修は趙浚(チョ・ジュン)の弾劾により、流罪になっています。
李穡も李成桂勢力に弾劾され長湍に流刑となっています。
昌王の廃位と恭譲王の擁立
李成桂と易姓革命派は禑王は辛旽(シンドン)と般若(パニャ)の子であり、昌王も正統な王位継承者ではないと主張しました。
「廃仮立真」です。
昌王は流刑となり、昌王を擁立した王朝擁護派の李穡も流罪となりました。
その後、昌王とその父・禑王は流刑地で処刑されています。
1389年、易姓革命派は高麗第20代王・神宗の子孫である恭譲王を擁立します。
科田法による内政改革
田柴科制度により、農民付きで官僚に与えられる田地と柴地(燃料の柴を採取する土地)は次第に私有地化され、旧勢力(親元派)の経済基盤となり、国家財政を圧迫していました。
田制改革こそ李成桂派の内政改革の中心でした。
李成桂派は旧勢力が持っていた土地を没収して国家の土地とし、新たに官僚の等級に応じて土地を再配分する科田法の制定を強固に進めました。
科田法が断行されると、高麗の旧勢力の経済基盤は没落し、朝鮮王朝を支える新興官僚が経済基盤である収祖権(税を受け取る権利)を得ることになります。
1391年、李成桂派は劣勢をくつがえして科田法の制定に成功、反対派は次々と失脚していきました。
鄭夢周の殺害
飛ぶ鳥を落とす勢いで出世する李成桂に、鄭道伝と鄭夢周は大きな期待を抱いて連携していました。
しかし、王を変えて新しい国を作りたい鄭道伝と高麗王朝を維持して、国を立て直したい鄭夢周は次第に対立していきます。
鄭夢周は鄭道伝ら李成桂一派を粛清せざるを得ないと考えるようになります。
そこで、鄭夢周は「鄭道伝は卑しい身分の出身だ」と言いがかりをつけて、身分を隠していた罪で流刑にしました。
1392年、李成桂は狩りの最中に落馬して大怪我を負いました。
易姓革命派が李成桂を王に推薦する動きを察していた鄭夢周は、李成桂の殺害するチャンスと考えます。
しかし、李芳遠に気づかれて失敗、逆に鄭夢周は李芳遠の腹心・趙英珪(チョ・ヨンギュ)に殺害されてしまいます。
白昼堂々と開京の善竹橋で鉄槌で殴られたのです。
1392年4月のことでした。
李成桂は、鄭夢周を殺害した李芳遠を激怒、鄭夢周の死を痛く惜しんだといいます。
多くの人の尊敬を集める鄭夢周を李成桂は何とか仲間にしたいと考えていたのです。
朝鮮王朝の建国
恭譲王から李成桂への譲位を防ごうとした鄭夢周が殺害されると、形勢は一気に李成桂へと傾きます。
1392年7月、鄭道伝ら易姓革命派が李成桂を国王に推薦、恭譲王が追放され、李成桂が朝鮮王朝初代国王に即位しました。
初代国王・太祖の誕生です。
李成桂は当初、国王になることを拒否、官僚たちからどうしてもと請われる形を取りました。
また、即位式では檀上の王座には上がらず、王座の下に立ちました。
こうした李成桂の行動は全て「王位を奪い取った簒奪者(さつだつしゃ)」と見られたくなかったからでした。
高麗の滅亡
国王に即位した李成桂は、1394年、恭譲王とその子供を流刑地で謀反の容疑で殺害します。
また、江華と巨済に流配された高麗王族の多くは海に投げ込まれて殺害されました。
南孝温が記述した「秋江冷話」には、高麗王族を騙して船に乗せ、船の底に穴を開けて水死させたと書かれています。
しかし、実際にはこのような手の込んだ事はしなかったとも言われており、真相は定かではありません。
しかし、高麗復興を恐れた、朝鮮王朝は王姓を持つものを皆殺しにするよう指示しています。
そのため、難を逃れた王姓を持つ多くの者が全氏、玉氏、田氏などに改姓しました。
威化島回軍から4年、高麗王朝は完全に滅亡し、遂に李成桂が王権を掌握したのです。
世子の擁立
誰もが世子は朝鮮王朝建国の功労者であった李芳遠と考えていました。
しかし、太祖は第二夫人・神徳王后の2番目の息子・李芳碩を世子に指名したのです。
更に、開国の功臣・鄭道伝(チョン・ドジョン)と南誾(ナム・ウン)を教育係に命じました。
裏で、神徳王后が働きかけたことは間違いありません。
僅か10歳の義弟に世子の座を取られた李芳遠の心のうちは煮えくり返るほどだったと推測されます。
これは、後の神徳王后の墓に対する李芳遠の行いを見れば明らかです。
李芳遠が明の使臣として功績を上げる
1394年6月、李芳遠が明に使臣として行くことが決まりました。
上謂殿下曰: “天子若有所問, 非汝莫能對
<引用元:太祖実録1394年6月1日から抜粋>
太祖は李芳遠を明に行かせる理由を述べています。
ドラマのセリフでも使われた言葉です。
太祖をはじめ、臣下が皆、李芳遠の危険を心配すると、参賛門下府事だった南在(ナム・ジェ)が同行を申し出ました。
李芳遠は南在、趙胖らとともに「国号及び王の呼称問題に関する表文」を持って、明に向かいました。
1394年11月、李芳遠は大きな成果を持って明から帰国しました。
明の皇帝は李芳遠の説明や振る舞いに大変感服し、李芳遠に対して厚遇で接してくれたといいます。
明の官僚たちは李芳遠を「朝鮮の世子」と勘違いするほどでした。
なお、南在は、この功績で李芳遠の絶大な信頼を得て、李芳遠の即後の1416年には、領議政にまで上り詰めています。
大儒学者・李穡(イ・セク)の死
李穡は鄭夢周が殺害される前年に流刑から釈放され、韓山府院君に封じられていました。
しかし、1392年に鄭夢周が殺害されると、衿州に追放後、再び、驪興、長興に流刑にされ、その後解放されています。
1395年、李穡の能力を惜しんだ太祖が韓山伯に冊封、朝廷への出仕を命じましたが、辞退しています。
翌年の1396年、李穡は驪江に向かう途中で亡くなりました。
享年69歳でした。
李穡は朝鮮における性理学の発展に大きく寄与、鄭夢周、鄭道伝、河崙 、権近などの優秀な学者を育てた偉大な儒学者でした。
神徳王后の突然の逝去
1396年、神徳王后は体調を崩して、突然亡くなりました。
突然の訃報に悲しみにくれた李成桂は聚賢坊に王妃陵を設けて,陵号を貞陵と定めました。
太祖は在位中だけでなく、譲位以後も、貞陵によく行き追慕を絶やさなかったといいます。
また、神徳王后の供養のために、太祖は1年かけて興天寺を建設しています。
一方、前妻韓氏の陸墓・斉陵へは行くことはありませんでした。
こうした太祖の行動が太宗の神徳王后への恨みを増幅したことは間違いありません。
第一次王子の乱
李芳碩に世子の座を取られ、鄭道伝に権力が集中していくことに、李芳遠は強い危機感を感じていました。
易姓革命派の中心として朝鮮を建国した二人でしたが、両者の間には、交わることのできない大きな考え方の相違がありました。
鄭道伝は宰相(大臣のトップ)を中心とする国家運営を考え、李芳遠は国王を中心とする国家運営を考えていました。
宰相中心論と国王中心論です。
1398年、第一次王子の乱が勃発しました。
キッカケは明の理不尽な要求に対抗するために鄭道伝が計画した遼東征伐でした。
鄭道伝はこの国難を利用して、私兵を国軍に吸収しようと企てたのです。
私兵を失えば丸裸同然になる李芳遠ら王子たちは崖っぷちに追い込まれました。
太祖が病床に伏していること、第二夫人の神徳王后が亡くなっていることも決起の条件になったと思われます。
そして、遂に、李芳遠は私兵により、神徳王后の息子をはじめ、鄭道伝、南誾らを皆殺しにしました。
・鄭道伝(チョンドジョン)
・南誾(ナムウン)
・沈孝生(シムヒョセン)
・李懃(イブン)
・張至和(チャンジファ)
・李芳蕃(李芳遠の異母弟)
・李芳碩(世子、李芳遠の異母弟)
・興安君(異母妹・慶順公主の夫)
・鄭泳(鄭道伝の次男)
・鄭遊(鄭道伝の三男)
神徳王后の娘で太祖の三女の慶順公主は夫の興安君が殺害されてしまいます。
慶順公主は夫が殺害される前に、「李芳遠に加担すれば生き残れる」と伝えましたが、興安君はこれを聞き入れませんでした。
夫を殺害された慶順公主は、生き残るために出家の道を選んでいます。
ドラマ「イ・バンウォン」では、尼になるため、慶順公主が実際に頭を剃るシーンが話題になりました。
この事件で太祖は落胆、李芳遠に深い憎悪の念を抱き親子関係は最悪の状態になったといいます。
病床にあった太祖は、国事を放棄、次男の李芳果(第2代王・定宗)に譲位して隠居してしまいました。
表向きの理由は神徳王后との子供の供養でした。
李芳遠は鄭道伝が王子たちの殺害を計画、そこで先手を打って鄭道伝らを殺害したと太祖には報告していました。
更に、李芳遠は鄭道伝を逆賊の代名詞として朝廷から徹底的に排撃しています。
第二次王子の乱
国王は李芳果(定宗)ですが、権力は李芳遠が掌握していました。
以前から李芳遠をよく思っていなかった四男の李芳幹が、私兵の廃止や論功行賞の不満から遂に反乱を起こしました。
1400年1月の第二次王子の乱です。
この時、協力したのが同じく論功行賞に不満を持っていた朴苞(パクポ)でした。
反乱は李芳遠により、あっけなく鎮圧されてしまいます。
朴苞は処刑され、李芳幹は処刑は逃れましたが生涯流刑地を転々とすることになりました。
このとき、李芳幹の息子の李孟宗(イ・メンジョン)も反乱に参加していましたが、同じく流刑となり、世宗のときに自決させられています。
朝鮮第3代王・太宗の誕生
第二次王子の乱で反対勢力を排除した李芳遠は世子に冊立され、国政と軍事を完全に掌握しました。
1400年2月4日の定宗実録には「弟の靖安公(李芳遠)を王世子として冊立し、軍隊と国家を任せる」と記録されています。
己亥/冊立弟靖安公 【諱】 爲王世子, 句當軍國重事
<引用元:定宗実録1400年2月4日より抜粋>
本来、李芳遠は定宗の弟なので世弟ですが、長子継承の原則を守るために、李芳遠は敢えて、定宗の養子となり世子となったのです。
李芳遠は世子の立場でありながら、私兵の廃止、組織再編など国家の改革を次々と断行していきます。
反対するものは容赦なく排除されました。
国王を無視して大なたを振るう李芳遠の所業に、定宗とその妃・定安王后は自分たちの身の危険を感じていました。
1400年11月13日、定宗は譲位を決意、李芳遠が第3代国王・太宗に即位しました。
国王になった太宗は王権の強化と中央集権化を強引に推進します。
まずは、大臣たちが握っていた業務と権限を徐々に六曹に分散させていきました。
そして、議政府の権限を大幅に弱め、六曹の権限を高めた上で、王が直接、六曹に命令を出せるシステムにしました。(六曹直啓制)
王が行政の中心として、全ての職務を掌握できるようにしたのです。
議政府の上にいるのが王様なので、王様が内閣を通さずに直接、各官庁の命令ができるようにしたということです。
当然、大臣たちの不満は高まりましたが、太宗は抵抗するものは容赦なく処罰しました。
こうして、太宗の冷酷で残虐な王、怪物などのイメージが出来上がっていきました。
太祖の咸興での反抗的隠居
表向きは神徳王后との子供の供養に専念した太祖ですが、太宗に対する恨みは忘れませんでした。
太祖は王の証である玉璽(ぎょくじ)を持ったまま、朝鮮半島北部の咸興(ハムン)にこもってしまいました。
<太祖が引きこもった咸興>
政権移譲を正当化したい太宗は何度も太祖へ官史を送り、漢城へ戻る説得を試みましたが、太祖は頑として受け付けませんでした。
それどころか、咸興へ送った官史が太宗に殺害され、戻ってこなかったと言われています。
このことから、「出かけて行って戻ってこないこと」を、韓国では咸興差使(ハムンチャサ)と言うそうですが、官史が殺害された史実はありません。
趙思義(チョサイ)の乱
1402年、太宗の説得を拒んでいる頃、神徳王后の親戚であった安辺府使の趙思義(チョサイ)が、神徳王后の恨みをはらすために挙兵しました。
そのため、この挙兵は太祖が仕掛けたものとも言われています。
事実は定かではありません。
反乱は善戦しますが、李叔蕃らの活躍により鎮圧され、趙思義と反乱の関係者は処刑されました。
この頃、無学大師が太祖を説得し、太祖はもはや引き際と考えて都に引き返えしたといいます。
1408年5月24日、太祖は激動の人生の幕を閉じています。
都に帰ってからの太祖は政治との関わりを完全に絶って生涯を送ったといいます。
閔氏一族の粛清
太宗は元敬王后の実家である閔氏(ミン氏)一族が大きな勢力を持っていることに危機感を抱きます。
李芳遠を王位に就けた元敬王后の実家の権力と財力が、王位に就いた太宗にとって逆に大きな恐れとなったのです。
太宗は元敬王后の4人の弟を口実を付けて粛清してしまいました。
1407年に閔無咎と閔無疾を流刑の上、1410年に流刑地で賜死させています。
また、1416年には閔無恤と閔無悔を処刑しました。
そのため、元敬王后一家の男系の血筋は途絶えてしまいます。
功臣の粛清
太宗は王権強化のために外戚の粛清を行ってきましたが、開国功臣に対しても必要とあれば容赦なく粛清を実施しました。
太宗の右腕として活躍した李叔蕃(イ・スクボン)も功臣の地位を利用した目に余る数々の横暴な行いにより、1417年慶尚道咸陽に流刑となっています。
その後も、王権を脅かす外戚や功臣に対して、太宗は粛清の手を緩めることはありませんでした。
世子の廃位
1418年、長男の譲寧大君(ヤンニョンデグン)が世子から廃位され、三男の忠寧大君(後の世宗)が王世子に冊封されました。
長男の譲寧大君は小さい頃から勉強せず、一日中遊んでばかりで父の太宗の頭を悩ませる存在でした。
女性関係は特に酷く、気に入った女性は妓女でも宮中に連れ込んだといいます。
伯父の定宗の寵愛を受けた楚宮粧(チョグンジャン)や重臣である郭旋の愛妾の於里(オリ)にまでも手を出しました。
1417年、遂に、臣下達が世子を廃位の上訴を提出、受諾されています。
譲寧大君は処罰されることはありませんでした。
その後、政治の表舞台に出ることはありませんでしたが、王族の長老といて多くの陰謀に加担していきます。
朝鮮第4代王・世宗の誕生
1418年6月に世子になった忠寧大君は、9月に太宗が譲位して上王になると国王として即位しました。
後世に名君と称される第4代王・世宗の誕生です。
譲位した太宗は表向きは軍事権だけ握ったことになっていますが、実態は政治をはじめ全ての実権は太宗が掌握していました。
世宗の親政は太宗が亡くなる1422年まで待つことになります。
沈氏一族の粛清
太宗は自分の妻の実家を没落させただけでなく、息子の嫁・昭憲王后の実家である沈氏(シム氏)一族をも没落させています。
世宗の王妃・昭憲王后の父親の沈温は世宗が即位すると領議政(当時は領議政府事)となりました。
太宗は世子嬪の実家に対しても容赦がありませんでした。
1418年、外戚が強くなることを恐れた太宗により、王妃の義父沈温は濡れ衣を着せられて処刑されてしまいます。
沈温が明に使者として派遣される時に、多くの親族が見送ったことが太宗の猜疑心を強くしたと言われています。
沈温は明からの帰りに国境付近で捕まり、王妃の懇願虚しく殺害されてしまいます。
既に、沈温の弟の沈泟は濡れ衣を着せられ拷問の上、処刑、他の兄弟は連座で流刑にされていました。
更に、王妃の母親と兄弟は身分を降格され奴婢にされてしまいました。
王妃・昭憲王后の父・沈温は実直で政権を握ろうとする野望など全くもっていませんでした。
沈温が冤罪で処刑された「姜尚仁の獄事」は>>沈温の家系図【姜尚仁の獄事で処刑された世宗の義父】で詳しくご紹介しています。
太宗の最後
1422年5月、太宗は寿康宮にて病死しました。
享年55歳でした。
現在、太宗は1420年に亡くなった王妃の元敬王后とともに献陵に眠っています。
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時代背景
李成桂が威化島回軍を行った頃の時代背景をご紹介します。
当時、中国では元から明に王朝の交替が始まる激動の時代でした。
高麗では長い間、元を宗主国として従って来ましたが、禑王の父・恭愍王が反元政策を推し進めました。
元の奇皇后をバックにやりたい放題だった奇皇后の兄・奇轍(キ・チョル)一族を粛清したのは恭愍王でした。
恭愍王は殺害され、反元的な改革は道半ばで頓挫してしまいます。
恭愍王が亡くなると、親元派の李仁任、崔瑩らが禑王を引っ張り出して、王として擁立させました。
禑王の信任を得た李仁任が政権を掌握、朝廷では李仁任の一派が高位、高官を独占、権勢を振るっていきます。
このとき、権力の中枢にいたのが、李仁任(イ・イニム)、林堅味(イム・ギョンミ)、廉興邦(ヨム・フンバン)などでした。
ドラマ「六龍が飛ぶの」で都堂三人衆と言われた李仁謙、吉太味、洪仁訪のモデルが、李仁任、林堅味、廉興邦です。
国は次第に腐敗していき、民衆の生活は苦しくなるばかりでした。
次第に親明派の勢力が民衆の支持を集めていきます。
その中心が易姓革命派の鄭道伝、趙浚らで、李成桂も親明的な易姓革命派でした。
1382年頃、李仁任は実権が弱くなると、政界から引退します。
1388年、李成桂は崔瑩と協力して、李仁任引退後、権力を振るっていた林堅味、廉興邦一派を処刑、このとき李仁任も故郷の京山府に流配され、流配地で亡くなりました。
遼東遠征の目的
第32代王の禑王(ウワン)と崔瑩(チェ・ヨン)が、李成桂を遼東遠征に送ったことには、2つの目的がありました。
一つは、高麗が元より取り戻した鉄嶺以北を一方的に領有すると通告してきた明に対する宣戦布告でした。
しかし、実はもう一つ大きな目的がありました。
それは、高麗で力を付けてきた親明派である李成桂の勢力を削ぐことだったのです。
李成桂は有名な4つの不可論を上疏して反対しますが、禑王は崔瑩に従って、強制的に李成桂を出動させました。
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太宗の第二夫人・神徳王后への恨み
太宗は自分を世子の座から遠ざけ、排除しようとした神徳王后に大きな恨みをもっていました。
それは、1408年に太祖(李成桂)が亡くなるとあからさまになりました。
太宗はすぐに神徳王后を降格し、現在のソウル貞洞にあった神徳王后の陵墓・貞陵を都城外の沙乙閑の麓に遷葬しました。
そのとき、丁字閣や祭壇は徹底に破壊、石彫りの十二支神像は、何と民が足で踏みにじる石橋に使用したのです。
神徳王后のお墓の石材は、清渓川にかかっている廣通橋(クァントンギョ)で見ることができます。
<廣通橋と橋に使われたお墓の石材>
太宗は神徳王后に対する排除を徹底的に行いました。
何と、世宗の時に貞陵の祭祀を親族に主管させ、国行祭祀から排除してしまいました。