鄭夢周は高麗最高の忠臣でした。
李成桂が絶対的な信頼を置いた鄭夢周とは?
鄭夢周の家系図から追ってみました。
鄭夢周の家系図
鄭夢周は高麗の重臣で樞密院知奏事を務めた鄭襲明を始祖とする延日鄭氏一族の出身でした。
<鄭夢周の家系図>
鄭夢周が生まれたときには、延日鄭氏一族は酷く衰退した状態でした。
曽祖父の鄭仁壽、祖父の鄭裕、父の鄭云瓘は官職に就かず、母方の祖父である李約のみが役人を務めていました。
鄭夢周の家族
ドラマの鄭夢周には家族に関する場面はほとんどでてきません。
実際には妻の李氏との間に2男3女の子供をもうけていました。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 鄭云瓘 | 不詳-1355 | 儒学者 |
母 | 李氏 | 不詳 | 永川李氏 |
弟 | 鄭過 | 不詳-1392 | |
弟 | 鄭厚 | 不詳 | |
弟 | 鄭蹈 | 不詳 | |
妻 | 李氏 | 不詳-1392 | 慶州李氏、李士贇の娘 |
長男 | 鄭宗誠 | 1374-1442 | 吏曹參議 |
次男 | 鄭宗本 | 1377-1443 | 成均館司藝 |
長女 | 鄭氏 | 不詳 | 成翼之の妻 |
次女 | 鄭氏 | 不詳 | 李長得の妻 |
三女 | 鄭氏 | 不詳 | 韓承顏の妻 |
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鄭夢周はどんな人物だったのか?
幼い頃から大変聡明で、学問を好んで学んだ人物でした。
学者としてだけでなく、政治家、外交官、軍人としても活躍したことが知られています。
特に、鄭夢周は文武両道の人物で、文臣としてだけでなく武臣としても多くの功績を残しました。
逆賊として李芳遠に殺害されますが、最後まで高麗に忠誠を尽くした「高麗最高の忠臣」として高い尊敬と評価を受けています。
鄭夢周のプロフィール
<鄭夢周の肖像画>
朝鮮後期の画家である李漢喆が描いたものと言われています。
ソウルの国立中央博物館に所蔵されています。
鄭夢周(チョン・モンジュ)
高麗末の儒学者
本名:夢蘭、夢龍、夢周
号:圃隠(ポウン)
字:達可
諡号:文忠
生年:1337年12月22日
没年:1392年4月4日
父:鄭云瓘(チョンウングァン)
母:永川李氏
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鄭夢周の凄さを物語る話
鄭夢周の凄さを物語る話はいくつも存在しますが、ここでは特に際立ったものをご紹介します。
李芳遠も尊敬する人物
鄭夢周を殺害した李芳遠も即位した時に、鄭夢周を領議政に追贈、益陽府院君に封じています。
また、鄭夢周の子どもたちは連座で処罰されることはありませんでした。
鄭夢周の威厳は孫にもおよんでいます。
世祖は鄭保が鄭夢周の孫であるということを知ると、慌てて処刑することを中止したといいます。
最後まで説得した李成桂
王を変えて新しい国を作りたい李成桂と高麗王朝を維持して、国を立て直したい鄭夢周は交わることがありませんでした。
それでも、李成桂は最後まで説得を諦めませんでした。
鄭夢周を尊敬する人は李成桂側にも多く、鄭夢周を害したときの非難と反発を恐れた李成桂は何とか鄭夢周を説得して味方にしたかったのです。
だから、勝手に鄭夢周を殺害した李芳遠に激怒し、鄭夢周の死を痛く惜しんだといいます。
儒学者としての凄さ
鄭夢周は李穡(リセク)の元で性理学を学びますが、後に李穡は鄭夢周を「東方理学の祖」と評価するほど優秀でした。
鄭夢周の周りには鄭夢周を師と仰ぐものが多く集まってきました。
朝廷に登用する人材で鄭夢周の弟子や影響を受けていない人を探すのは大変だったと言われています。
外交手腕を発揮
1377年、鄭夢周は室町時代の日本に派遣されています。
鄭夢周は室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)と折衝にあたりました。
粘入り強い交渉の結果、倭寇により日本に連れて行かれた数百人の高麗人を連れて帰ることに成功しています。
また、中国における元から明への交代期には、二度、明に向かい親明派として活躍しました。
鄭夢周の死に心痛める人々
鄭夢周の高麗王朝に対して忠誠を尽くすべきであるという信条を決して曲げず、結果、殺害されてしまった生き様から、朝鮮では大変崇拝された人物でした。
後世の儒学者からは朝鮮性理学の祖と仰がれるほどでした。
鄭夢周が亡くなると、開京市中の商人は数日間店を休み、鄭夢周に哀悼の意を評したといいます。
尊敬する僧は命がけでさらされた鄭夢周の遺体を引き上げ葬儀を行いました。
また、悲報を聞いた鄭夢周を知る日本人は、日本で彼の葬儀を行ったと言われています。
鄭夢周の生涯
高麗に最後まで忠誠を貫いた鄭夢周です。
彼の生涯を追ってみました。
儒者としての地位を固める
1337年12月22日、鄭夢周は慶尚北道永川の裕福な両班の家庭に生まれました。
幼い頃から学ぶことが好きだった鄭夢周は金得培の門生として学びます。
1357年、監試(成均館の入学試験)に合格すると、1360年には科挙の文科にトップ合格します。
そして、当代最高の学者であった李穡の下で性理学(朱子学)を学びました。
1362年、初の官職として藝文檢閱になっています。
1367年、成均館が再興されたときに、総責任者となった李穡のもとで、後進の育成にあたりました。
自身は司藝・直講・司成などを歴任し儒者としての地位を固めます。
その後、鄭夢周は文臣としてだけでなく武臣としても数々の功績を上げていきます。
李成桂の片腕として絶大な信頼を得る
1363年、李成桂らとともに女真や倭寇の征伐に参加していますが、これが、李成桂との出会いだったと思われます。
1376年、鄭夢周は親元派の外交方針に反対したため、蔚山彦陽へと流刑となりましたが、鄭道伝の口添えで許され、朝廷に復帰しています。
1380年には、助戦元帥になって李成桂傘下で倭寇討伐に参加しました。
この戦いで鄭夢周は李成桂の片腕として絶大な信頼を得ました。
1388年、李成桂が威化島回軍を起こし政権を掌握すると、鄭夢周は李成桂に協力します。
1389年には、李成桂とともに昌王を廃して恭譲王を即位させました。
李成桂と路線が一緒に見えましたが、鄭夢周は高麗を立て直す為に李成桂と連合の道を選んでいたのです。
深まる李成桂との対立
時が経つにつれて、王を変え、新しい国を建国しようとする李成桂との溝が大きくなっていきました。
鄭夢周は王権を維持したまま、高麗を立て直すことを頑として譲りませんでした。
易姓革命派が李成桂を王に推薦する動きを察すると、鄭夢周は李成桂一派を粛清せざるを得ないと考えるようになります。
易姓革命派とは、「姓を易える」、つまり、高麗の王(王氏)を変えて、新たな王(李氏)を立てることを目指す一派です。
まずは、易姓革命派の急先鋒である鄭道伝を「卑しい身分の出身だ」と言いがかりをつけ、身分を隠していた罪で流刑にしてしまいます。
1392年、李成桂は狩りの最中に落馬して大怪我を負いました。
鄭夢周はこれはチャンスと考えます。
李成桂の殺害を試みますが、先に李芳遠に気づかれて失敗してしまいます。
鄭夢周の最後
鄭夢周の殺害計画に危機を感じた李芳遠は、急遽、李成桂を開京に戻しました。
そして、鄭夢周殺害を計画します。
1392年4月4日、鄭夢周は李芳遠の部下であった趙英珪により、開京の善竹橋で白昼堂々と鉄槌で殴られて暗殺されてしまいます。
<鄭夢周が殺害された善竹橋>
開城に存在する善竹橋は国宝として、現在も保護されています。
善竹橋に見られる黒ずんだ跡は、鄭夢周の血痕が残ったものと伝えられています。
鄭夢周がいなくなった高麗には、もはや戦う力は残されていませんでした。
殺害されてから、3か月後の1392年に朝鮮王朝が建国されました。
鄭夢周を殺害した李芳遠ですが、鄭夢周を心から尊敬し、人物として高く評価していたことは間違いないようです。
1401年、太宗(李芳遠)は鄭夢周を領議政に追贈、益陽府院君に追封しています。
<鄭夢周の旧邸宅跡>
鄭夢周の自宅は1573年に修復され儒教の教育機関「崧陽書院」になっています。
鄭夢周のお墓
京畿道龍仁(キョンギド ヨンイン)に存在する鄭夢周の墓はほとんど王陵に匹敵するレベルです。
鄭夢周が人々から、いかに尊敬されていたかが分かります。
<鄭夢周の立派なお墓>
場所:京畿道 龍仁市 処仁区 慕賢邑 陵院里 山3
また、鄭夢周の墓の前には、朝鮮において聖なる場所の入り口に建てられる紅箭門(フンサルムン)があります。
紅箭門は「赤い矢の門」という意味で、鄭夢周の朝鮮に対する忠誠心を称えるものです。
<鄭夢周の紅箭門>
袂を分けた「何如歌」と「丹心歌」
鄭夢周が殺害される直前に李芳遠と交わした有名な詩があります。
何如歌(ハヨガ)と丹心歌(タンシムガ)です。
李芳遠は何とか鄭夢周を仲間に引き入れたいと、詩に託し何如歌を詠みました。
しかし、鄭夢周は丹心歌で高麗の国への揺るぎない忠誠心を示して、拒絶しました。
これを聞いた李芳遠は鄭夢周の説得を諦めます。
如此亦何如 如彼亦何如
城隍堂後垣 頽落亦何如
我輩若此爲 不死亦何如
萬壽山の蔦が絡み合ってもいいではないか
我らも、かく絡み合いながらも末永く世を楽しもうではないか
段落毎の最後の二文字「何如」をとって、何如歌と名付けられました。
此身死了死了 一百番更死了
白骨爲塵土 魂魄有也無
向主一片丹心 寧有改理與之
白骨が塵土(ちり)になり、魂があろうとなかろうと
君に捧げし一片丹心は変わることはない
君に捧げし一片丹心とは、高麗の国への忠誠心のことです。
この2つの詩は韓国人なら誰でも知っている有名な詩だとといいます。
まとめ
李成桂からの強い説得にも応じず、最後まで頑なに高麗への忠誠を貫く通した鄭夢周でした。
李芳遠に逆賊として殺害された鄭夢周でしたが、人々から尊敬と忠臣の評価は下がることはありませんでした。
母国を思う深い忠誠心から信条を曲げることなく、その結果殺害されてしまった心に刺さる生き様から、鄭夢周は朝鮮において大変崇拝されてきました。
「高麗最高の忠臣」と朝鮮王朝以降も変わらず讃えられています。