Googleのアドセンス広告を表示しています

李芳遠(イバンウォン)の家系図【血の抗争を展開した家族】

朝鮮王朝の建国物語には必ず登場する李芳遠(イバンウォン)です。

李芳遠の家族は最高権力者である国王の座を巡って血の抗争を展開しました。

朝鮮王朝の粛清の歴史の始まりとなった悲劇を、李芳遠の家系図から詳しく調べてみました。

 

李芳遠(イバンウォン)の家系図

イバンウォンは新羅で司空を務めた李翰を始祖とする全州李氏の出身です。

全州李氏一族は、新羅時代から高麗時代にかけて全州地方に勢力を持っていた地方の有力豪族でした。

イバンウォンの祖先について詳しくは>>イソンゲ(李成桂)の家系図【朝鮮王朝を建国した初代国王】をご覧下さい。

<イバンウォンの家系図>

李成桂(イソンゲ)の最初の王妃である神懿王后(シヌィワンフ)は6人の男の子を生みました。

イバンウォンは五男として生まれています。

しかし、第一次王子の乱、第二次王子の乱で兄弟を粛清、イバンウォンは第3代国王・太宗として即位します。

 

イバンウォンの反乱万丈の実話については、こちらで詳しくご紹介しています。

太宗 イバンウォンの実話【朝鮮王朝を築いた李芳遠の生涯】
ドラマ「太宗 イ・バンウォン」は李成桂(太祖)の朝鮮王朝建国から第3代王・太宗の死までを描いた壮大なドラマです。500年続く国家を築いた怪物・イバンウォンの実話に基づく生涯を詳しくご紹介します。

 

プロフィール

1367年、李成桂の五男として生まれたイバンウォンは、1382年に兄弟で唯一、科拳に合格して官史(密直司代言)になっています。

1388年には、正朝使の書状官として中国の明を訪問しています。

1392年、鄭夢周を殺害したあたりから、李成桂一派の中核として伸し上がっていきました。

第3代国王
廟号:太宗(テジョン)
本名:李芳遠(イバンウォン)
生年:1367年5月16日
没年:1422年5月10日
享年:56歳
在位:1400年11月29日-1418年9月9日
父:太祖(五男)
母:神懿王后韓氏
王后:元敬王后閔氏
陵墓:献陵

 

イバンウォンの親兄弟

第一夫人の神懿王后は朝鮮建国前に亡くなり、イソンゲは神徳王后(シンドクワンフ)を次の王妃に迎えています。

第一夫人の神懿王后はイバンウォンを含めて6男2女、第二夫人の神徳王后は2男1女の子供がいました。

<イバンウォンの親兄弟>

初代国王・太祖 兄弟
正室 神懿王后 6男2女 長男 李芳雨
イバンウ
 39歳逝去
二男 李芳果
イバングァ
第2代定宗
三男 李芳毅
イバンウィ
病死
四男 李芳幹
イバンガン
流刑
五男 李芳遠
イバンウォン
第3代太宗
六男 李芳衍
イバンヨン
建国前に逝去
長女 慶慎公主 李薆の妻
次女 慶善公主 沈悰の妻
継室 神徳王后 2男1女 七男 李芳蕃
イバンボン
殺害される
八男 李芳碩
イバンソク
世子、殺害される
三女 慶順公主 興安君/李済の妻
側室 誠妃 子女なし
貞慶宮主 子女なし
和義翁主 1女 淑慎翁主
賛徳 1女 宜寧翁主

イソンゲは、第二夫人の息子である八男の李芳碩(イバンソク)を世子にして、イバンウォンの反感をかうことになります。

これが兄弟による血の抗争の始まりでした。

 

イバンウォンの家族

イバンウォンは1人の正室と9人の側室をめとり、なんと29人の子供がいました。(朝鮮王朝実録より)

正室の元敬王后(ウォンギョンワンフ)との間には4男4女の子供をもうけています。

 

長男の李褆/譲寧大君は素行不良により世子を廃位されています。

三男の李祹(イ・ド)/忠寧大君が、後に名君と言われる第4代国王・世宗 です。

<元敬王后とその子供>

関係 名前 生年-没年 備考
正室 元敬王后 1365-1420
長男 譲寧大君 李褆 1394-1462 廃世子
次男 孝寧大君 李補 1396-1486 政治には無関心
三男 忠寧大君 李祹 1397-1450 第4代国王・世宗
四男 誠寧大君 1405-1418 天然痘により逝去
長女 貞順公主 1385-1460 李伯剛の妻
次女 慶貞公主 不詳-1455 趙大臨の妻
三女 慶安公主 1393-1415 吉昌君/權跬の妻
四女 貞善公主 1404-1424 宜山君/南暉の妻

 

【PR】スポンサーリンク

イバンウォンは側室が最も多かった王

イバンウォンは妓生さえも側室として入宮させ、最終的には20人以上の側室をもちました。

彼女たちには、翁主の称号(側室から生まれた王女の称号)を与えています。

<イバンウォンの代表的な側室>

側室 子女数 子供 備考
孝嬪金氏 1男 敬寧君 李裶、孝嬪は奴婢出身
信嬪辛氏 2男7女 諴寧君 李裀
温寧君 李裎、癸酉靖難に参加
貞静翁主 趙末生の長男趙璿の妻
淑貞翁主
貞信翁主
淑寧翁主
昭信翁主
昭淑翁主
淑慶翁主
善嬪安氏 2男2女 恵寧君 李祉
益寧君
敬慎翁主
淑安翁主
懿嬪権氏 1女 貞恵翁主
昭嬪盧氏 1女 淑恵翁主
淑儀崔氏 1男 熙寧君 李袉
徳淑翁主 1男 厚寧君 李衦
貞嬪高氏 1男 謹寧君 李襛
明嬪金氏 1女

孝嬪金氏は正室・元敬王后の実家の奴婢でしたが、元敬王后が王妃になる前から仕えていました。

孝嬪金氏は息子・敬寧君を生みますが、誕生年には2つの説があります。

即位前の1396年または即位後の1402年と言われていますが、実録では壬午の年と記録されており、1402年の即位後が有力です。

ドラマ「太宗イ・バンウォン」に史実通り、孝嬪金氏は元敬王后の実家の奴婢として登場しています。

 

政略的な婚姻としては、信嬪辛氏の娘の貞静翁主が太宗の側近だった趙末生の長男・趙璿と結婚しています。

趙末生が朝廷で勢力を強固にするために、王族との婚姻を望んだものと思われます。

 

また、ドラマ「六龍が飛ぶ」のプニは元敬王后からイバンウォンの側室になることを迫られますが、プニは架空の人物です。

プニのモデルになったような側室は見当たりません。

 

【PR】スポンサーリンク

兄弟による血の抗争

イバンウォンを語る上で、兄弟間の抗争を避けることはできません。

イソンゲ(太祖)が第二夫人の子供である八男の李芳碩(イバンソク)を世子にしたことから、兄弟間の血の抗争が始まります。

 

イバンウォンの兄弟

イバンウォン(李芳遠)には男8人の兄弟がいました。

七男と八男は第二夫人・神徳王后の息子でイバンウォンの異母弟にあたります。

生年、没年、享年を入れて再度、ご紹介します。

母親 本名 称号 生年 没年 享年
第一夫人
神懿王后
長男 李芳雨 鎮安大君 1354 1394 41
次男 李芳果 永安大君 1357 1419 63
三男 李芳毅 益安大君 不明 1404
四男 李芳幹 懐安大君 1364 1421 58
五男 李芳遠 靖安大君 1367 1422 56
六男 李芳衍 徳安大君 1370 1387 18
第二夫人
神徳王后
七男 李芳蕃 撫安大君 1381 1398 18
八男 李芳碩 宜安大君 1382 1398 17

兄弟について詳しくは>>李成桂(イソンゲ)の息子たち【失意のどん底に落とした兄弟の抗争】をご覧下さい。

 

兄弟による血の抗争・王子の乱

第一次王子の乱(1398年)

1395年に明から難癖を付けられた鄭道伝は中国遼東への遠征軍を編成します。

これを口実に、鄭道伝は王子や武将から私兵を奪い国軍に吸収しようとしました。

鄭道伝は王族の弱体化と宰相の権限の強化を図ったのです。

 

これを危機と感じたイバンウォンは以前から対立していた鄭道伝らの殺害を決意します。

政治運営に対して国王中心論のイバンウォンにとって、宰相中心論の鄭道伝は許し難い存在でした。

また、義弟の李芳碩が世子となり、鄭道伝が後ろ盾になったことに、イバンウォンの怒りと憎しみは頂点に達していました。

 

鄭道伝は遼東征伐を計画、私兵を解体して遠征軍の編成を企てました。

イバンウォンは鄭道伝の私兵解体に危機感を抱き、鄭道伝らが密議している家に火を放ち、鄭道伝ら重臣を殺害しました。

同時に、不満で目障りだった世子の李芳碩(イバンソク)と李芳蕃(イバンボン)も殺害してしまいます。

1398年、第一次王子の乱の勃発です。

 

イバンウォンは高官を買収して、「鄭道伝らが李芳碩を盾に謀略を計画していたので先制を機して殺害した」と、イソンゲに報告させました。

イバンウォンは鄭道伝を逆賊として自分の行動を正当化したのです。

この時、イソンゲは病床に伏しており、李芳碩と李芳蕃の母親の神徳王后は既に亡くなっていました。

 

第二次王子の乱(1400年)

1398年、兄弟の争いに嫌気がさした太祖が譲位して、李芳果(イバングァ)が王位に就きました。

この時、誰もが王位継承者はイバンウォンと思っていましたが、イバンウォンは固辞、李芳果に譲っています。

しかし、影で実権を握っていたのイバンウォンでした。

 

朴苞(パクポ)は第一次王子の乱で功績を上げた功臣でした。

しかし、イバンウォンの彼に対する評価は低く、不満をいだいていました。

 

朴苞(パクポ)は自分が王にふさわしいと思っている兄の李芳幹を焚き付け、反乱を起こしました。

1400年、第二次王子の乱の勃発です。

 

しかし、この乱はイバンウォンにあっけなく鎮圧され、李芳幹は流配、朴苞は処刑されてしまいます。

この乱をキッカケにイバンウォンは王世子に冊立されます。

己亥/冊立弟靖安公 【諱】 爲王世子, 句當軍國重事:
<引用元:定宗実録1400年2月4日から抜粋>

<訳>弟の靖安公(李芳遠)を王世子として冊立し、軍隊と国政を任せる

本来、李芳遠は定宗の弟なので、世弟のはずですが、古来からの慣習である長子相続制の原則を守りたかったのです。

大臣が、「昔から帝王の弟は皇太弟であり、皇太子ではない」と反対すると、王は「今、私は弟を直ちに息子とする」と言って押切りました。

 

李芳遠の思惑が働いていたことは間違いありません。

しかし、後に自分がこの原則を破ることになるとは思ってもみなかったと思います。

 

世子となったイバンウォンは政敵を徹底的に排除、権力の集中化を図ります。

1400年11月、もはや、飾りでしかなかった第2代王の定宗は、王妃の勧めもあり、遂に、イバンウォンに譲位することを決意します。

第3代国王・太宗の誕生です。

 

妻は悲劇の元敬王后

元敬王后(ウォンギョンワンフ)はイバンウォンと17歳で結婚しました。

元敬王后の家柄はよく、一族の力を当てにしての政略結婚だったといいます。

当初は、夫婦仲もよく4男4女をもうけました。

元敬王后は夫を助けて朝鮮建国にも貢献したといいます。

 

しかし、イバンウォンが王位に就くと、その仲は急速に悪化していきました。

一つの原因は、イバンウォンが王権強化のために側室を多数持ち子供を増やしたことです。

しかし、決定的な原因は、元敬王后の一族である閔氏(ミンシ)が力を持つのを恐れて、元敬王后の4兄弟を粛清したことです。

力のある親族は粛清され、元敬王后の一族は完全に没落してしまいました。

 

さらに、元敬王后の長男の譲寧大君が素行不良で世子を廃位され、自分自身も危うく廃位になるところでした。

追い打ちをかけるように、溺愛していた4男・誠寧大君が天然痘で14歳で亡くなってしまいました。

 

このように、夫を王にするために尽くした元敬王后ですが、夫の即位後には大きな悲劇に待ち受けていました。

その悲劇とは>>元敬王后の家系図【夫に尽くしながらも残酷なほど不幸だった王妃】をご覧下さい。

 

イバンウォンの死因

朝鮮王朝実録の1422年5月10日に李芳遠が亡くなったことが記録されています。

太上王薨于新宮、春秋五十六
<引用元:世宗実録1422年5月10日>

<訳>新宮(寿康宮)で上王(イバンウォン)が亡くなる。享年56歳。

イバンウォンは1422年5月に寿康宮で病気で亡くなりました。

病名は分かっていません。

韓国の年齢で56歳でした。

 

イバンウォンの墓

イバンウォンは元敬王后と並んで献陵(ホンヌン)に埋葬されています。

場所はソウル特別市瑞草区内谷洞です。

<イバンウォンのお墓(右の献陵)>

献陵の隣には、第23代国王・純祖とその妃である純元王后が合葬されている仁陵(インヌン)があります。

仁陵は合葬なのでこんもり盛られた陸寝(ヌンチム)は一つです。

 

仁陵はもとは坡州の長陵の近くにありましたが、1856年に献陵の隣に移されました。

献陵(ホンヌン)と仁陵(インヌン)を合わせて献仁陵(ホニンルン)と呼ばれています。

 

イバンウォンの祖先

イバンウォンの祖先は全州の豪族で高麗の朝廷に仕えていました。

イバンウォンの高祖父の父にあたる李安社も高原郡をモンゴル軍から守る宜州兵馬使を任されていました。

 

しかし、李安社はモンゴル軍に破れ投降してしまいます。

一族は一時、モンゴルの臣下として働きますが、イバンウォンの祖父の李子春が高麗の王に寝返り、功績を重ねて高麗の臣下として返り咲きました。

<イバンウォンの系図>

<イバンウォンの祖先>

続柄 追尊 名前 備考
高祖父の父 穆祖 李安社
高祖父 翼祖 李行里
曽祖父 度祖 李椿
祖父 桓祖 李子春
太祖 李成桂 初代国王
本人 太宗 李芳遠 第3代国王

さらに詳しいことは>>イソンゲ(李成桂)の家系図【朝鮮王朝を建国した初代国王】を御覧ください。

 

イバンウォンの代表的なドラマ

イバンウォンが国王になるまでを描いた代表的なドラマは次の3つがあります。

・六龍が飛ぶ(SBS、2015-16年)
・私の国(JTBC、2019年)
・太宗イ・バンウォン (KBS、2021年)

私のおすすめは、何と言っても「六龍が飛ぶ」と「太宗イ・バンウォン」ですね。

「六龍が飛ぶ」でイバンウォンを演じたユ・アインが最初は鄭道伝(チョン・ドジョン)が目指す国に憧れますが、徐々にすれ違っていく姿を見事に演じています。

史実に架空の人物を絡ませたスリルングな物語展開は多くの評論家が評価しています。

 

「太宗イ・バンウォン」はイバンウォンの生涯を描いた最新の本格的な時代劇です。

イバンウォンの視点から、史実に忠実に描かれた「ど直球の物語」です。

イバンウォンがどんな人物でどのようにして王になったか、イバンウォンの生涯を知りたい人にはぜひ、観ていただきたい作品です。

 

私の国はイバンウォンが起こした出来事を中心に、架空の人物の物語を絡めて描いた超大作です。

若手の人気俳優であるヤン・セジョン、ウ・ドファン、ソリョンが好きな人は見逃せません。

私の国と史実との違いは>>私の国は実話?【史実とドラマの違いを徹底検証】で詳しくご紹介しています。

 

イバンウォンの息子は文字を作った天才

イバンウォンは正室の元敬王后との間には4人の男の子がいました。

三男の李祹(イ・ド)が第4代国王・世宗 に即位します。

世宗はハングルを作った王として、韓国で最も尊敬されている王様です。

母親 本名 称号 生年 没年 享年
元敬王后 長男 李褆 譲寧大君 1394 1462 69
二男 李補 孝寧大君 1396 1486 91
三男 李祹 忠寧大君 1397 1450 54
四男 誠寧大君 1405 1418 14

 

長男:李褆(イ・ジェ)

11歳で王世子になりますが、素行不良により廃世子され宮廷の外に出されます。

特に女性絡みの問題が多く、トラブルメーカーだったようです。

廃世子は自由気ままに生きたようで、ドラマでは影で王族や臣下を操る人物として登場します。

 

二男:李補( イ・ホ)

政治に関心がなく、仏教に興味を持ち生涯仏教保護に取り組みました。

政治に関わらなかったせいか、91歳まで長生きしています。

 

三男:李祹(イ・ド)

史実でも温和な性格で学問好きな人物でした。

太宗の後を次いで、第4代国王・世宗 に即位します。

ハングルと作った王として有名で、名君と言われています。

 

四男:誠寧大君

四男の誠寧大君は天然痘により14歳で逝去しました。

元敬王后に溺愛されていたため、亡くなったときの元敬王后の悲しみは大きかったといいます。

 

まとめ

李芳遠(イバンウォン)は、強い王権への執着から用意周到な方法で兄弟を排除して王に着きました。

こうして作られた朝鮮王朝は、その後、500年もの間、継続することになります。

イバンウォンによる粛清はその後の朝鮮王朝で何度となく繰り返される悲劇のモデルになってしまいました。

error: Content is protected !!