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鄭道伝の家系図【李芳遠に殺害された朝鮮建国最大の功労者】

鄭道伝は朝鮮王朝の基礎を築いた最大の功労者でした。

鄭道伝はどんな人物だったのか、家系図から詳しくご紹介します。

鄭道伝の家系図

鄭道伝は高麗後期に奉化縣の戸長を務めた鄭公美を始祖とする奉化鄭氏一族の出身です。

曽祖父、祖父は身分の低い地方の官史を務めていましたが、父の鄭云敬(チョン・ウンギョン)が科拳に合格、初めて中央政府の官僚となりました。

1359年、鄭云敬は刑部尚書に任命されています。

<鄭道伝の家系図>

しかし、鄭道伝の母の禹氏は奴隷と僧の密通により生まれた卑しい身分でした。

鄭道伝は一族に賤民の血が混じる卑しい出生に生涯苦しめられます。

<豆知識>鄭道伝と鄭道傳の違い
チョンドジョンを調べると、鄭道伝と鄭道傳の二通りの漢字がでてきます。通常は「鄭道伝」が使われますが、時代劇ドラマの字幕では「鄭道傳」が使われる場合が多いですね。実は、「傳」は「伝」の旧字なんです。現代では、「傳」は常用漢字外の漢字で、人名用漢字としてのみ使用されています。
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鄭道伝はどんな人物だったのか?

鄭道伝は500年以上続く朝鮮王朝の基礎を築いた最大の功労者でした。

新しい国の政治、軍事、外交、教育に至るまでのすべて仕組みを作り、朝鮮の憲法となる経国大典を書いた人物です。

朝鮮王朝の建国理念である「崇儒排仏」を確立したのも鄭道伝でした。

首都を漢陽(ソウル)に遷都したときに都全体の設計図を描き、宮殿名やソウル市内の地名などを命名しています。

王宮を景福宮(キョンボックン)と命名したのも鄭道伝です。

まさに、500年以上続く朝鮮王朝の基礎を築いた人物でした。

鄭道伝のプロフィール

<鄭道伝の肖像画>

妥協を許さない堅物的な性格で、自身の前に立ちふさがる者は師でも友人でも容赦なく粛清しました。

そのため、何度も流刑にあっていますが、決して意志を曲げることはありませんでした。

<プロフィール>
鄭道伝(チョン・ドジョン)
高麗末の儒学者
本名:宗之
号:三峰(サムボン)
生年:1342年
没年:1398年8月26日
氏族:奉化鄭氏
父:鄭云敬(刑部尚書)
母:禹氏(栄川禹氏)
妻:崔氏(慶州崔氏)
息子:鄭津(二人は処刑されている)

号とは、本名とは別に使用される名称で、今で言うペンネームです。

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鄭道伝の家族

鄭道伝には3人の息子がいましたが、長男以外の二人は1398年の第一次王子の乱の時に鄭道伝とともに殺害されています。

<鄭道伝の家族>

関係 名前 生年-没年 備考
鄭云敬(ウンギョン) 不詳-1366 刑部尚書
禹氏 不詳-1366 栄川禹氏
崔氏 不詳 慶州崔氏
長男 鄭津(ジン) 1361-1427
次男 鄭泳(ヨン) 不詳-1398 殺害される
三男 鄭遊(ユ) 不詳-1398 殺害される

唯一生き残った鄭道伝の息子・鄭津

第一次王子の乱の時に、奇跡的に生き残ったのが長男の鄭津(チョン・ジン)でした。

鄭津は一命を取り留めますが、降格の上、身分の低い水軍に配属されます。

1407年、趙浚(チョ・ジュン)、權近(クォン・グン)らの嘆願により、ようやく官位と身分を回復しました。

官職に復帰した鄭津は要職を歴任していきます。

1416年:仁寧府尹
1417年:安東大都護府
1419年:忠清道観察使
1420年:判漢城府事
1420年:成節使(明の燕京を訪問)
1420年:平安道観察使
1421年:判漢城府事
1423年:工曹判書
1425年:刑曹判書

1427年、 刑曹判書在職中に67歳で病死、死後、議政府右賛成に贈職されています。

なお、鄭津は父の著作を集めて「三峰集」としてまとめています。

鄭道伝の生涯

1342年、鄭道伝は父・鄭云敬と母・禹氏の間に3男1女の長男として生まれました。

出生地は慶尚道(キョンサンド)の栄州(ヨンジュ)です。

幼少の頃から聡明だった鄭道伝は読書好きで熱心な勉強家だったといいます。

1360年に崔氏婦人と結婚、翌年、鄭津が生まれています。

しかし、若い頃は意志を曲げず、何度も罷免と復職を繰り返しました。

順調な出世と両親の死

1362年、鄭道伝は進士試に合格して、正式に政府官吏となり、翌1363年には忠州牧の司錄(地方官吏)を務めています。

1364年、開京(開城)に戻り、典校主簿(従7品)に就き、1365年には王の秘書職である通禮門祗候(正7品)を務めます。

順調に出世していた鄭道伝ですが、1366年に父と母を相次いで亡くします。

そのため、故郷の栄州に帰り、3年間の喪に服しました。

師匠・李穡、親友・鄭夢周との出会い

喪が開けた1369年に都に戻りますが、この頃、生涯の師匠と親友に出会います。

李穡(イ・セク)と鄭夢周(チョン・モンジュ)です。

1370年に鄭道伝は師匠となる李穡を成均館に訪ねています。

この時、鄭夢周、李崇仁、金九容などが成均館で性理学を教えていました。

1371年、早くも鄭道伝は成均館の博士(正7品)として性理学を教えるようになります。

親元派により流刑に

1374年9月に恭愍王が殺害され、この事実を中国大陸で勢力を伸ばす明に知らせることを主張、1375年、鄭道伝は親元派の李仁任に流刑にされています。

鄭道伝は、1377年に流刑生活を終えると、栄州(ヨンジュ)で政治には関わらず、学問と教育に集中しています。

野に下って暮らしていた頃から8年あまりの間、新たな王朝を夢見て、自分の夢を託せる人物を探していたと思われます。

李成桂との出会いと片腕としての活躍

1383年、鄭道伝は李成桂こそ自分の夢を託せる人物と考え、東北面(現在の咸鏡道)に彼を訪ねています。

李成桂と意気投合した鄭道伝は、李成桂の参謀役を務め始めます。

1388年、李成桂が威化島回軍を起こし政権を掌握すると、鄭道伝は李成桂の絶大な信頼を得て、王の秘書職及び成均館の最高責任者・大司成(正3品)となります。

その後、鄭道伝は李成桂の片腕となり、目覚ましい活躍をしていきます。

まずは、1389年、李成桂とともに昌王を廃して恭譲王を擁立しました。

更に、趙浚、尹紹宗などとともに土地改革を断行、1391年には科田法を実施、土地を国有化し再分配しています。

これには親元派の反発が激しくなり、再び流刑に処されますが、翌1392年に流刑から釈放されています。

朝鮮王朝の建国

1392年4月、李成桂が狩りのときに落馬して負傷するという事件が起こります。

このとき、鄭夢周に家系が不確かだと言いがかりをつけられて、鄭道伝は3度目の流刑に処されていました。

祖母が奴婢の卑しい身分を隠していた罪です。

しかし、李芳遠(後の太宗)が鄭夢周を暗殺、鄭道伝は危機一髪のところで釈放されました。

この頃、「打倒高麗」を目指す李芳遠と鄭道伝、「高麗維持」で改革を望む鄭夢周は激しく対立していました。

1392年7月17日、鄭道伝は南誾、趙浚など52名と共に李成桂を王に推戴、遂に朝鮮王朝を建国しました。

鄭道伝は開国功臣1等に録勲されます。

鄭道伝への権力の集中

1394年9月には、高麗王の息がかかる開京(開城)から漢陽(ソウル)へ遷都を実行します。

漢陽の宮殿など建物の設計、地域の命名など都の設計図を描いたのは鄭道伝でした。

鄭道伝は王宮の景福宮(キョンボックン)を中心に周囲22kmに及ぶ城壁を築き、漢陽を城壁で防衛する城塞都市としました。

鄭道伝は、新しい国の政治、軍事、外交、教育、法律に至るまでのすべて仕組みを作り始めました。

こうした過程を経て、徐々に権力は鄭道伝に集中していきました。

鄭道伝は朝廷のほとんどすべての要職を兼任して、政治・軍事・財政を掌握、その権力は国王の太祖を凌ぐほどだったといいます。

反対に李芳遠は政治から遠ざけられていきました。

李芳遠との対立

朝鮮建国時から李芳遠と鄭道伝はことごとく対立していました。

絶対的な君主政治(国王中心の政治)を目指す李芳遠大臣を中心とした政治(宰相中心の政治)を目指す鄭道伝との間には大きな亀裂が生じていたのです。

更に、義弟の李芳碩を世子にして、鄭道伝が後ろ盾になったことで、李芳遠の鄭道伝に対する怒り、憎しみは頂点に達したといえます。

しかし、政府の中枢から遠ざけられていた李芳遠は不用意には動きませんでした。

反逆者として葬られる可能性があったからです。

鄭道伝の最後

キッカケは、鄭道伝が明に対する遼東攻撃のために王子や武将から私兵を奪い、国軍に吸収しようとしたときでした。

李芳遠にとって私兵は最後の砦でした。

そこで、鄭道伝の遼東計画を自分たちの排除の口実と受け取ったのです。

1398年、第一次王子の乱が起こります。

李芳遠は鄭道伝らが韓氏の王子たち(李芳遠の兄弟)を殺害する計画を立てているとでっち上げ、私兵を動員して鄭道伝らを襲撃します。

鄭道伝は南誾の側室の家で南誾、沈孝生、李懃、張至和と共に殺害されてしまいました。

朝鮮王朝の基礎を描いた鄭道伝は、実現した姿を見ること無く、あっけなく、この世を去ることになりました。

鄭道伝の再評価と名誉の回復

鄭道伝は長らく、逆賊として扱われてきました。

1791年、正祖は鄭道伝の学問を再評価、三峯集を新たに発刊させています。

また、1865年、興宣大院君が景福宮を再建するときに、漢陽の設計者である鄭道伝の勲爵を回復させました。

鄭道伝は朝鮮王朝の土台作りの中で、首都漢陽の建設、私兵の廃止による国防の強化、「朝鮮経国典」などを著作して法の整備を進め、強力な中央集権国家を目指しました。

また、民(たみ)を国の中心として、土地改革、農業振興、年貢の減免などに力を注ぎました。

鄭道伝の政策の素晴らしさは、逆賊として徹底的に鄭道伝を否定した李芳遠(太宗)が、鄭道伝が立案した政策をほぼすべて取り込み実行したことからも明らかです。

鄭道伝が登場するドラマ

鄭道伝が出るドラマをご紹介します。

「鄭道伝」のチョ・ジェヒョンと「六龍が飛ぶ」のキム・ミョンミンは供に名演技で鄭道伝像を作り出しています。

・開国(1983年、キム・フンギ)
・龍の涙(1996年、キム・フンギ)
・鄭道伝(2014年、チョ・ジェヒョン)
・六龍が飛ぶ
(2015年、キム・ミョンミン)
・太宗イ・バンウォン
(2021年、イ・クァンギ)
( )内は演じた俳優です。

まとめ

鄭道伝は朝鮮王朝の政治、軍事、外交、教育に至るまでのすべて仕組みを作り、朝鮮の憲法となる経国大典を書いた人物でした。

大臣を中心とした政治を目指す鄭道伝は、絶対的な君主政治を目指す李芳遠と交わることができず、最後は李芳遠に殺害されてしまいます。

しかし、李芳遠(太宗)が鄭道伝が描いた朝鮮王朝を引き継ぎ実現しています。

鄭道伝はまさに、500年以上続く朝鮮建国の最大の功労者でした。

そして、今なお、韓国史上、最も偉大な革命家であり、政治家の一人であることは間違いありません。

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