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李仁任(イ・イムニ)は実在した李成桂の政敵【高麗末期の独裁者】

李仁任は李成桂の政敵として、よくドラマに登場する人物です。

実在した李仁任はどんな人物だったのか?

李仁任について詳しく調べてみました。

 

実在した李仁任はどんな人物?

李仁任は政治的な能力で、官職の最高位である門下侍中まで上り詰めた人物です。

 

李仁任のプロフィール

<プロフィール>
李仁任(イ・イニム)
爵位:広平府院君
生年:1312年
没年:1388年
享年:77歳
氏族:星州李氏
父:李褒
母:慶州郡夫人(慶州雪氏)
妻:順天朴氏

 

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李仁任の家系図

星州李氏の始祖は新羅の文聖王の時代に吏部尚書(今の総理大臣)を務めた李純由です。

祖父の李兆年は高麗後期の高官で、歴任した官職で多くの功績を上げて、星州李氏を高麗の名門氏族に押し上げました。

父・李褒も檢校侍中を務めた高官でした。

<李仁任の家系図>

 

李仁任の婚姻関係

李仁任は政略的な結婚で、政治基盤を固めていきました。

<李仁任の婚姻関係>

禑王の王妃・謹妃の父親・李琳(李成琳)と李仁任は従兄弟の関係でした。

また、李仁任の甥の興安君(李済:イジュ)は政敵であった李成桂の三女・慶順公主と結婚させています。

興安君は李仁任の弟・李仁立の息子です。

当時、李仁任の側近の河崙(後に、李芳遠の側近になる)の妻は弟・李仁美の娘でした。

 

李仁任の親族

李仁任は、父・李褒と母・慶州郡夫人の息子として生まれました。

6男2女の次男です。

祖父、父ともに高麗の高官で、兄弟も重要な官職を歴任するなど、代々官僚の家系でした。

李仁任の家族

関係 名前 生年-没年 備考
李褒 不詳-1373 同知密直
慶州郡夫人 不詳 慶州雪氏、薛文遇の娘
李仁復 1308-1374 檢校侍中
本人 李仁任 1312-1388 門下侍中
李仁美 不詳 判書、河崙の義父
李仁立 1333-1387 同知密直司事、慶順群主の義父
李仁達 不詳 注簿
李仁敏 1330-1392 門下評理、星山府院君
不詳  不詳 辛裔の妻
不詳  不詳 朴天祥の妻

 

李仁任の子供

李仁任には2男3女の子供がいましたが、詳しい記録はありません。

僅かな記録として高麗史に、1386年、李仁任の娘(姜筮の妻)が亡くなり、禑王が自ら書師を連れていき、娘の遺影を描かせたことが記録されています。

関係 名前 生年-没年 備考
順天朴氏 不詳
長男 李瓛 不詳
次男 李珉 不詳
長女 不詳 不詳 李霖の妻
次女 不詳 不詳-1386 姜筮の妻
三女 不詳 不詳

 

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李仁任の生涯

1312年、李褒の次男として生まれました。

幼い頃の記録はありませんが、祖父の李兆年は要職を歴任した高官でした。

 

李仁任が官職に就く

李仁任は蔭敍制(ウンソゼ)によって典客寺丞の官職に採用されると、次々と昇級を重ね、典法摠郞になりました。

1358年には左副承宣(正三品)に昇進しています。

<豆知識>蔭敍制(ウンソゼ)
高麗・朝鮮時代にあった制度で、功績のあった高官が自分の子孫を試験無しで、官職に登用する制度のことです。

1359年、中国の農民反乱軍である紅巾賊が義州に侵攻してきました。(第一次侵攻)

李仁任は西京存撫使に任命され、戦功を上げて功臣2等に冊封されています。

 

1362年には、紅巾賊が首都の開京を占領しましたが(第二次侵攻)、高麗軍が奪還、

李仁任は、この戦いでも戦功を上げて功臣1等に冊封されています。

 

恭愍王の信頼を得て昇進

李仁任は恭愍王の信頼を得て順調に昇進していきます。

1363年、平壌尹に任命されると、1365年には三司右使・都僉議贊成事、そして、1368年には左侍中に任命されました。

1374年には守侍中になり、広平府院君に冊封されています。

 

恭愍王が殺害される

1374年9月に、恭愍王が殺害されると、恭愍王を殺害した洪倫と崔萬生を処刑、明徳太后の反対を押し切って、息子の牟尼奴(モニノ)を王位に就けました。

第32代高麗王・王禑の誕生です。

 

禑王は10歳と幼かったので、恭愍王の母である明徳太后が摂政を行いました。

しかし、実質的な摂政者は李仁任でした。

 

権力の頂点に立つ

1380年1月、明徳太后が亡くなると、李仁任が摂政になり、政権を完全に掌握します。

1381年7月、李仁任は最高位である門下侍中(朝鮮王朝の領議政に相当)に昇格、遂に権力の頂点に立ちました。

 

李仁任は親元政策を維持、親明政策を支持する勢力を朝廷から追放しました。

そして、李仁任の側近である林堅味(イム・ギョンミ)、廉興邦(ヨム・フンバン)、池奫(チ ユン)を要職に就けています。

 

李仁任一派の専横

高麗史(列傳第三十九、李仁任)には、禑王は李仁任を父、妻を母と呼び、李仁任は禑王を自分の息子のように扱ったと記録されています。

李仁任の権勢は益々強くなっていきました。

李仁任一派は李仁任を後ろ盾に、賄賂の要求、土地の強奪、官職の売買などの不正で私腹を肥やしていきます。

 

1382年2月、李仁任は病気で執務ができなくなり、一時政務から離れ、自宅で静養しています。

静養中、禑王は頻繁に李仁任の家を訪れた記録が残っています。

 

李仁任が朝廷からいなくなると、林堅味、廉興邦を中心とした李仁任一派の不正や横暴的な態度は益々、酷くなっていきました。

1386年8月、林堅味を罷免すると、李仁任は再び左侍中になり政界に復帰します。

しかし、翌年の1387年8月、老病(老衰によって起こる病気)には勝てず辞任しています。

 

李仁任一派の粛清と李仁任の最後

1388年、廉興邦の家奴(使用人)の李光が趙胖の土地を強奪した事件をキッカケに、崔瑩と李成桂は林堅味、廉興邦ら李仁任一派を処刑しています。

戊辰被禍(ムジンピファ)です。

特に、林堅味、廉興邦ら李仁任一派の粛清は徹底的に行われ、家族、親戚、側近から奴婢まで全て処刑されました。

 

この時、李仁任は故郷の京山府(慶尚北道)へ流刑となりますが、その年に流刑地で亡くなっています。

李仁任の親族が処罰されることはありませんでした。

 

まとめ

李仁任は恭愍王の信頼を得て、官職を昇進していきました。

恭愍王が殺害されると、幼い息子の王禑を擁立、李仁任は遂に権力の頂点に立ちました。

李仁任は政権を掌握、独裁政治を始めました。

その結果、私腹を肥やすことのみに励んだ李仁任一派の専横は酷くなり、高麗は滅亡へと突き進んでいきました。

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