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イソンゲ(李成桂)の家系図【朝鮮王朝を建国した初代国王】

朝鮮王朝が建国されたときの初代国王がイソンゲ(李成桂)です。

イソンゲについて家系図を中心に詳しくご紹介しています。

イソンゲ(李成桂)の家系図

イソンゲ(李成桂)は、新羅で46代王・文聖王のときに司空を務めた李翰(イ・ハン)を始祖とする全州李氏の出身です。

<イソンゲの家系図>

先祖は代々全州の豪族で、高麗朝廷に従事していました。

李成桂の6代前の李璘(イ・リン)の兄・李義方(イ・ウイバン)は高麗の武臣であり、武臣政権の最初の執権者でした。

 

しかし、李義方は武臣政権の第2代執権者である鄭仲夫に殺害されます。

李璘は家族を連れ故郷の全州に逃げ込み、家門は難を逃れたと言われています。

<イソンゲの先祖>

続柄 追尊 名前 備考
高祖父の祖父 李璘 高麗の朝廷で内侍執奏
高祖父の父 李陽茂
高祖父 穆祖 李安社 元に寝返る
曽祖父 翼祖 李行里
祖父 度祖 李椿
桓祖 李子春 再び、高麗に寝返る
本人 太祖 李成桂 初代国王

その後、高祖父にあたる李安社(イアンサ)は、一族郎党と共に東北面に移住、東北面・宜州をモンゴル軍から守る宜州兵馬使に任命されています。

しかし、李安社は侵攻してきたモンゴル軍に破れ投降してしまいます。

 

1255年、投降した李安社は元からは厚遇され、斡東千戸所(1000人程度の軍事組織)を治める達魯花赤(モンゴルの官職)になりました。

高麗から敵の元に寝返ったのです。

 

1258年、モンゴル軍は高麗に軍事侵攻、鉄嶺(チョルリョン)以北の土地を奪って、和州(ファジュ)に出先機関の双城総管府を設置しました。

1271年、モンゴル帝国は国名を中国王朝史の慣例にならい元に改称しています。

<モンゴルの軍事侵攻による領土拡大>

李安社の職は李行里、李椿、そして、イソンゲの父・李子春(イ・ジャチュン)と受け継がれ、李子春は双城総管府の千戸(千人の隊長)の地位にいました。

1335年、双城総管府の永興(ヨンフン)で李子春の次男として李成桂が誕生しました。

 

一方、高麗では1351年に第31代王に即位した恭愍王が反元政策を開始しました。

1356年5月、国内で親元派の筆頭だった 奇皇后の兄・奇轍(キチョル)を処刑、7月にモンゴルの拠点である双城総管府を柳仁雨、李仁任が総攻撃しました。

 

このとき、恭愍王の対元政策に進んで協力したのが、イソンゲの父・李子春でした。

今度は、元から高麗に寝返ったのです。

 

李子春は数々の功績を上げ、東北面兵馬使(従二品)の官職を授かりました。

高麗の都の開京に屋敷も賜っています。

 

これにより、全州李氏一族は、再び高麗に復帰することになります。

李子春は1361年に亡くなりますが、次男のイソンゲが武将として後を引き継ぎました。

 

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新興武将としての台頭

父・李子春を引き継いだ27歳の李成桂は朝鮮各地で数々の戦功を上げて、新興武将として台頭していきました。

李成桂の主な功績>

年月 年齢 功績
1361年10月 27 朴義の乱を平定
1362年1月 28 紅巾軍からの開京奪回
1362年2月 28 納哈出の撃退
1364年 30 崔儒の撃退
1370年1月 36 東寧府の攻撃
1370年11月 36 遼陽の制圧
1380年9月 46 倭寇の撃退(荒山大捷)

 

名声を博した開京城一番乗り

1361年には紅巾軍が10万の大軍で開京を占領し、国王は福州(現在の慶尚道安東)に避難しています。

紅巾軍は1362年初めまで開京を占領して略奪と殺戮を繰り返し、開京は散々たる状況に陥りました。

高麗軍が開京を包囲した時、李成桂は2000人の兵を率いて開京城に一番乗り、開京奪回に貢献して、その名を一躍有名にしました。

 

李成桂が名声を高めた荒山大捷

1380年9月、李成桂は倭寇討伐のため、軍を率いて南原へ向かいました。

この時、禑王は李成桂を楊廣、全羅、慶尙三道都巡察使に任命しています。

李成桂は激しい戦闘の末、倭寇を撃退、歴史的な大勝利を収めます。

 

この時の倭寇の首領は阿只抜都(アキバツ)として実録に記録されています。

阿只抜都は若くて勇猛で、白馬にまたがり、顔面まで防具で覆っていたといいます。

しかし、阿只抜都は高麗軍がつけた名前で、実在の人物が誰なのか、詳しいことは分かっていません。

 

李成桂と義弟の李之蘭が弓で阿只抜都を殺害、倭寇は意気喪失、討ち滅ぼされたと記録されています。

この戦いは、荒山の大勝利を意味する荒山大捷(ファンサンテチョブ)と呼ばれ、李成桂を高麗の英雄に押し上げた歴史的な大勝利となりました。

この戦いで千数百頭の馬を捕獲、倭寇の残党は70名ほどだったといいます。

<豆知識>倭寇を打ち負かした3つの大勝利
大捷とは、圧倒的な大勝利を意味します。鴻山大捷、鎮浦大捷、荒山大捷の3つの大勝利が倭寇を打ち負かした歴史的な大勝利として有名です。鴻山大捷(ホンサンテチョブ)は、1376年7月、崔塋(チェ・ヨン)が鴻山で倭寇を打ち負かした大勝利で、崔塋はこの時、61歳でした。鎮浦大捷は、1380年8月、崔茂宣(チェ・ムソン)が火砲を利用して、100隻の戦艦で500隻の倭寇の艦隊を鎮浦で撃破した戦いです。そして、荒山大捷が、1380年9月、李成桂が南原で倭寇を撃退した歴史的勝利でした。

 

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イソンゲ(李成桂)を支えた二人の賢者

李子春の私兵を引き継いだイソンゲ(李成桂)は高麗の敵・紅巾軍や倭寇を次々と撃退して、多くの功績を挙げていきました。

イソンゲの名は広まり、イソンゲを慕って多くの政治改革を目指す有志たちが集まり始めます。

 

その中に、イソンゲの両輪となる鄭夢周(チョン・モンジュ)と鄭道伝(チョン・ドジョン)がいました。

しかし、この二人は相容れない政治理念を持っていました。

 

鄭夢周は高麗に忠誠を尽くし、王朝を維持したまま腐敗した政治、社会を変革しようとしました。

一方、鄭道伝は現王朝を倒して、新たな王朝を作ることを考えていました。

イソンゲが変革のリーダーに成長していくにつれ、理念の違いは大きな溝になっていきました。

 

イソンゲ(李成桂)はどんな王様?

イソンゲ(李成桂)は小さい頃から聡明で度胸があり、体格がよく武術に長けていたと言われています。

特に、弓の名人だったイソンゲは父・李子春の後を継ぎ、高麗の武将として活躍、次々と戦功を上げて頭角を表していきました。

 

イソンゲのプロフィール

生年:1335年10月11日
没年:1408年5月24日
享年:74歳
在位:1392年8月5日-1398年10月14日
姓・諱:李旦(初名:成桂)
廟号:太祖
祖父:李椿(度祖)
祖母:敬順王后
父:李子春(桓祖)
母:懿恵王后(永興崔氏)
姉:貞和公主
妻:神懿王后(安辺韓氏)
  神徳王后(谷山康氏)
陵墓:健元陵

 

イソンゲの家族

イソンゲ(李成桂)は生涯、2人の正室と4人の側室の間に13人の子供をもうけました。

子供 続柄 名前
正室 神懿王后
第一夫人
6男2女 長男 鎮安大君/李芳雨
次男 永安大君/李芳果
三男 益安大君/李芳毅
四男 懐安大君/李芳幹
五男 靖安大君/李芳遠
六男 徳安大君/李芳衍
長女 慶慎公主
次女 慶善公主
神徳王后
第二夫人
2男1女 七男 撫安大君/李芳蕃
八男 宜安大君/李芳碩
三女 慶順公主
側室 誠妃元氏 なし
貞慶宮主 なし
和義翁主 1女 淑慎翁主
賛徳周氏 1女 宜寧翁主

七男の李芳蕃は後に、李成桂に担がれて第34代王となる恭譲王の兄・定陽君/王瑀(ワンウ)の長女と結婚しています。

また、李成桂の四男・李芳幹の息子・李孟宗(イ・メンジョン)は恭譲王の妹と結婚しました。(後に死別、韓琦の娘と再婚)

<李成桂と高麗王族の関係>

 

三女の慶順公主は李成桂の政敵であった李仁任の甥(弟・李仁立の息子)の興安君/李済(イジュ)と結婚しました。

<李成桂と権門勢家・李仁任との関係>

こうして、李成桂は王族と朝廷の権力者との親戚の関係を結んだのです。

 

イソンゲの妻

イソンゲ(李成桂)が王になる前の高麗時代は一夫多妻制でした。

そこで、イソンゲにも二人の妻がいました。

 

一人は故郷に住む第一夫人で神懿王后(シヌィワンフ)韓氏(ハンシ)、もう一人は開京に住む第二夫人で神徳王后(シンドクワンフ)康氏(カンシ)です。

ドラマには、韓氏(ハンシ)、康氏(カンシ)の名で登場します。

 

第一夫人の神懿王后は、李成桂が朝鮮を建国する1年前に亡くなっています。

従って、朝鮮王朝の初代王妃は第二夫人の神徳王后になります。

 

イソンゲの息子たち

イソンゲ(李成桂)は生涯に8人の息子を得ました。

<イソンゲの息子達>

続柄 名前 生年
没年
備考
長男 李芳雨
イ・バンウ
1354
1394
建国の2年後に持病により39歳でなくなる
次男 李芳果
イ・パングァ
1357
1419
第2代王・定宗になる
三男 李芳毅
イ・バンウィ
不詳-
1404
李芳遠を支援したが、李芳遠が即位後4年に亡くなる
四男 李芳幹
イ・バンガン
1364
1421
李芳遠に不満を持ち、反乱を起こすが失敗して流刑になる
五男 李芳遠
イ・バンウォン
1367
1422
第3代王・太宗になる
六男 李芳衍
イ・バンヨン
生没
不詳
イソンゲが即位前に亡くなる
七男 李芳蕃
イ・バンボン
1381
1398
性格が凶暴で軽率のため世子になれなかった
八男 李芳碩
イ・バンソク
1382
1398
末っ子のため可愛がられ世子となるが、李芳遠に殺害される

長男から六男までの6人は、イソンゲが朝鮮王朝の王になる前に第一夫人との間にもうけた子供です。

七男、八男の2人は第二夫人との間にもうけた子供であり、王に即位したときに兄の李芳蕃は12歳、弟の李芳碩は11歳でした。

 

イソンゲは即位すると、第二夫人の下の子である李芳碩を王世子としました。

当然、第一夫人の子供たちからは不満が高まり、この決定が朝鮮王朝最初の兄弟による血の抗争をよぶことになりました。

 

イソンゲの前の王と次の王

イソンゲ(李成桂)は高麗の国王・恭譲王を追放して、朝鮮王朝を建国します。

つまり、イソンゲの前の王は高麗の最後の王である第34代王・恭譲王(コンヤンワン)です。

 

1392年8月5日にイソンゲは朝鮮王朝の初代王・太祖として即位しました。

しかし、跡継ぎ問題が上手くいかず、後継ぎとして望んだ八男の李芳碩は五男の李芳遠により殺されてしまいます。

 

息子たちの争いに嫌気をさしたイソンゲは次男の李芳果に譲位して政治の舞台から引退してしまいました。

つまり、イソンゲの次の王は次男の李芳果である定宗(チョンジョン)です。

 

イソンゲ(李成桂)の最後

太宗実録にイソンゲが亡くなったことが記録されています。

太上王薨于別殿
(引用元:太宗実録1408年5月24日)

太上王とは太祖のことで、別殿とは昌徳宮のことです。

<訳文>太上王(太祖)が別殿(昌徳宮)で亡くなる

 

イソンゲの死因

イソンゲは74歳で亡くなっています。

50歳弱が平均年齢であった時代にしては、相当長生きしたほうです。

後の研究で脳梗塞を患っていたとの研究もあるようですが、死因は老衰と考えて間違いないでしょう。

 

イソンゲのお墓

イソンゲ(李成桂)のお墓は東九陵(トングルン)にあります。

東九陵には9つの陸があり、総面積は58万坪と実に広く、東京ドーム約40個分に相当する韓国最大規模の王陵です。

 

景福宮から見て「東側」にあり、「九つ」の陵があることから「東九陵」呼ばれています。

場所は京畿道九里市仁倉洞です。

 

イソンゲが眠る健元陵

イソンゲ(李成桂)のお墓は東九陵の奥にある健元陵(コンウォンルン)です。

東九陵は風水学的には最高の明堂(ミョンダン)と評価されるお墓で、その中でも健元陵は王陸としては一番綺麗な形の陸です。

<豆知識>
明堂(ミョンダン)とは
明堂とは風水学的に吉の場所のことで、代表的な明堂としては生きている人が泊まる陽宅(宮殿)と、死んだ人が眠る陰宅(お墓)があります。明堂として、最高の陽宅(宮殿)が昌徳宮、最高の陰宅(お墓)が東九陵と言われています。

 

健元陵の特徴

イソンゲ(李成桂)のお墓には、他のお墓にはない特徴があります。

<健元陵の3つの特徴>
・陸の名前が3文字
・陸寝には故郷の土とススキが使われた
・神道碑(シンドビ)がある

他の王の陸が全て2文字なのに対して、イソンゲの陸の名前だけが「健元陵」と3文字です。

また、こんもりと盛られた陸寝(ヌンチム)にはイソンゲの故郷である咸鏡道咸興(ハンギョンドハムン)の土が使われています。

王の生前の行跡を記した碑の神道碑(シンドビ)があるのも特徴です。

 

そして、イソンゲの墓には故郷のススキが植えられています。

<年に1度行われるすすき刈りの様子>

イソンゲは生前、いつも故郷の咸鏡道咸興を懐かしんでいました。

そこで、息子の太宗が故郷の土とススキでイソンゲのお墓を造ってあげました。

これは、生前、イソンゲを恨んでいた太宗が唯一、イソンゲの願いをかなえたものでした。

 

李芳遠のイソンゲと神徳王后に対する恨みと執念

李芳遠(太宗)は自分が王になることを拒んだ父親のイソンゲや義母の神徳王后を心の底から恨んでいました。

特に息子を世子にした神徳王后に対する恨みは相当酷かったと想像できます。

 

イソンゲ(李成桂)は生前、死んだら継室・神徳王后の隣に埋葬されることを望んでいました。

しかし、李芳遠はイソンゲの墓を神徳王后の墓から遠く離れた東九陵に造ってしまいました。

 

更に、イソンゲが亡くなると太宗は神徳王后の墓を壊して別の場所(貞陵)に移し、墓に使われていた石は橋の材料に使ってしまいました。

清渓川にかかっている廣通橋(クァントンギョ)の柱や土台に使ったのです。

つまり、民が踏みつけるようにしたのです。

何という執念でしょうか。

 

そして、自分の墓もイソンゲのお墓とは正反対の西にある西五陵に造ったのです。

死んでからも親の顔を見たくもなかったのでしょう。

 

イソンゲの子孫と李氏朝鮮

イソンゲ(李成桂)の子孫とは「イソンゲの血筋をひいて後に生まれる人々」のことを示しています。

子孫で分かるように、「子」や「孫」がまさにそうです。

 

イソンゲの子孫

イソンゲの第一夫人であった神懿王后の孫までの人数だけでも相当な数になります。

これに側室の子供や孫も加わります。

現代において、イソンゲの血筋をひいた人々は多数存在すると推定されます。

<イソンゲの第一夫人の孫まで>

 

最近では、SEVENTEENのディノがイソンゲの子孫と話題になりました。

真偽は定かではありませんが、子孫である可能性はあると思います。

フィギュアスケートの織田信成が信長の子孫と言われているのとおなじですね。

 

李氏による朝鮮王朝

朝鮮王朝の王様はイソンゲ(李成桂)の子孫の中でも、基本的には王の直系子孫が継承します。

王の系図を見ると、子供がいなくて親族の子供を養子にして王位を継承させたケースも見られます。

 

イソンゲ(李成桂)の名字が李(イ)なので、王様の本名には李(イ)が付いています。

だから、イ・バンウォン(李芳遠)、イ・サン(李祘)など、王様の本名は名字がみんな李(イ)なんですね。

 

つまり、王様の家系は李氏一族なんです。

そのため、朝鮮王朝を李氏朝鮮と呼ぶこともあります。

 

イソンゲ将軍が登場するドラマ

・開国(1983年、イム・ドンジン)
・龍の涙(1996年、キム・ムセン)
・シンドン~高麗中興の功臣~
(2005年、イ・ジヌ)
・シンイ(2012年、オ・ジェム)
・大風水(2012年、チ・ジニ)
・鄭道伝(2014年、ユ・ドングン)
・イにョップの道
(2014年、イ・ドギョン)
・六龍が飛ぶ
(2015年、チョン・ホジン)
・チャン・ヨンシル
(2016年、ギム・ギヒョン)
・私の国(2019年、キム・ヨンチョル)
・太宗イ・バンウォン
(2021年、キム・ヨンチョル)
( )内はイソンゲを演じた俳優です

 

 まとめ

イソンゲ(李成桂)は朝鮮王朝を建国した初代国王です。

しかし、その晩年は息子たちの権力闘争に嫌気がさし、世を捨て仏教にのめり込んだと言われています。

イソンゲは生前、故郷の咸鏡道咸興(ハンギョンドハムン)をいつも懐かしんでいたといいます。

波乱万象の生涯を送ったイソンゲが、最後を迎える頃に故郷の静かな土地に思いを馳せたのは必然だったと言えるでしょう。

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