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元敬王后の家系図【夫に尽くしながらも残酷なほど不幸だった王妃】

夫に多大な貢献をしたにも関わらず、残酷な仕打ちを受けた元敬王后です。

元敬王后はどんな王妃だったのか。

家系図から詳しくご紹介します。

 

元敬王后の家系図

元敬王后は驪興閔氏(ヨフンミンシ)一族の出身です。

驪興閔氏は高麗時代から存在する名門氏族で、閔称道を始祖としています。

<元敬王后の家系図>

驪興閔氏一族は元敬王后以降、仁顕王后、明成皇后、純明孝皇后と歴代2人の王后と2人の皇后を輩出した名門氏族でした。

<驪興閔氏一族と妃>

夫の太宗は外戚の権力が拡大するのを恐れて、元敬王后の4人の弟を粛清してしまいました。

その結果、元敬王后一家の男系の血筋は途絶えてしまいます。

 

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元敬王后はどんな王妃だったのか?

太宗実録では、元敬王后のことを「貞操、静寂、威厳、誠実」を持った女性であると記録しています。

惟爾貞嬪 閔氏, 幽閑貞靜, 誠一端莊
<引用元:太宗実録1401年1月10日の抜粋>

<訳>元敬王后閔氏は奥深く静かで、志が固く誠実、偽りがなく、威厳のある女性でした。

貞嬪閔氏は元敬王后のことです。

 

元敬王后のプロフィール

元敬王后(ウォンギョンワンフ)
生年:1365年7月11日
没年:1420年7月10日
享年:56歳
在位:1401年1月10日-1418年8月10日
別称号:静妃
別称:厚徳王大妃
夫:太宗/李芳遠(イ・バンウォン)
氏族:驪興閔氏
父親:閔霽
母親:宋氏
陸墓:献陵

 

元敬王后の家族

元敬王后は、4男3女の次女でした。

1410年には、閔無咎(ミン・ムグ)と閔無疾(ミン・ムジル)、1416年には閔無恤(ミン・ムヒュル)と閔無悔(ミン・ムフェ)の弟が賜死を命じられました。

4人の弟は全て、無惨にも夫・太宗により殺されたのです。

関係 名前 生年-没年 備考
閔霽 1339-1408
不詳 1342-1424 宋氏
閔無咎 不詳-1410 賜死
閔無疾 不詳-1410 賜死
閔無恤 不詳-1416 賜死
閔無悔 不詳-1416 賜死
不詳 1356-1408 平原君/趙璞の妻
本人 元敬王后 1365-1420 太宗の王妃
仁川郡夫人 1376-1443 盧閈の妻

 

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閔無咎兄弟の獄

元敬王后の弟である閔無咎(ミン・ムグ)と閔無疾(ミン・ムジル)は、第一次王子の乱、第二次王子の乱で太宗を助けた功績で功臣に封ぜられました。

順風満帆だった閔氏兄弟でしたが、次第に高まる外戚の権勢を太宗は恐れていました。

 

1407年、領議政府事だった李和が閔無咎、閔無疾を訴える上訴をあげました。

これを皮切りに、閔氏兄弟への激しい弾劾が始まります。

裏で太宗の指示もしくは忖度があったことは間違いないと思われます。

 

上訴の内容は閔無咎兄弟が世子を利用して権力を握ろうとした疑惑でした。

具体的な内容は、

太宗が譲位の意を示した時に、閔氏兄弟は喜びの表情を見せ、太宗が復位を決めたときには悲しい表情をした。

閔氏兄弟は「太宗に世子以外の子供は不要である」ようなことを述べた。

また、閔氏兄弟は「太宗は私達を疑っており、嫌っている」と語っていた。

など、実は他愛もないことの断片を切り出して繋げ、言いがかりを付けたようなものでした。

 

結局、閔無咎と閔無疾は世子を利用して権力を握ろうとした罪で延安に流配となりました。

後に済州島に移され、1410年に賜死させられています。

 

兄たちの死に不満を持っていた閔無恤(ミン・ムヒュル)と閔無悔(ミン・ムフェ)は、世子である讓寧大君に二人の兄の恨みを訴えました。

これが太宗の耳に入り、1415年、海豊に流配となり、翌年の1416年に賜死させられています。

 

兄弟たちの妻子など関連する人々は処罰され、夫の太宗により元敬王后の家門は完全に滅亡させられました。

太宗にとっては煩わしい外戚の脅威を完全に排除したのです。

 

元敬王后の子供

元敬王后は李芳遠との間に4男4女の子供をもうけていますが、長男の李褆を生む前に3人の男の子を幼くして亡くしていました。

関係 称号 名前 生年-没年 備考
長男 譲寧大君 李褆 1394-1462 世子を廃位
次男 孝寧大君 李補 1396-1486 仏教を保護
三男 忠寧大君 李裪 1397-1450 世宗
四男 誠寧大君 李褈 1405-1418 14歳で逝去
長女 貞順公主 不詳 1385-1460 李伯剛の妻
次女 慶貞公主 不詳 不詳-1455 趙大臨の妻
三女 慶安公主 不詳 1393-1415 權跬の妻
四女 貞善公主 不詳 1404-1424 南暉の妻

 

元敬王后の生涯

元敬王后は、夫に尽くし幸せだった半生と酷く残酷な半生を送った王妃でした。

 

夫婦仲の良かった世子嬪時代

1365年、元敬王后は名門一族であった驪興閔氏の閔霽の娘として生まれました。

1382年、李成桂の五男である李芳遠と結婚、当初、夫婦仲はよく、4男4女をもうけています。

 

当時は、婿養子のような風習があり、李芳遠も元敬王后の実家で生活していたようです。

1392年、義父・李成桂によって朝鮮王朝が建国されると、元敬王后は靖寧翁主(チョンニョン オンジュ)に封じられました。

 

1394年に李褆(イ・ジェ)、後の譲寧大君(ヤンニョン テグン)が生まれました。

実は、結婚後12年の間に3人の息子を生んでいますが、全員、幼くして亡くなっています。

その後、1396年に李補(孝寧大君)、1397年に李裪(忠寧大君)、後の第4代王・世宗を生んでいます。

 

1400年2月に李芳遠が世子に冊封されると世子嬪となり、同年11月に李芳遠が第3代王・太宗に即位すると、王妃に冊封されています。

 

元敬王后の内助の功

元敬王后は夫の李芳遠が政権奪還に成功するように多くの面で助力しています。

1398年8月、鄭道伝が私兵解体を進めた時に、武器も燃やしてしまいましたが、元敬王后は武器を密か実家に隠して保管、第1次王子の乱に貢献しています。

1401年1月10日の太宗実録にも、元敬王后の政権確立に貢献したことが記録されています。

 

酷く不幸な王后時代

太宗は側室を多く抱えたため、元敬王后との夫婦仲が悪化したと言われています。

更に、元敬王后の悲劇は続きます。

外戚勢力を恐れた太宗は元敬王后の弟4人を粛清してしまいました。

 

李芳遠が太宗として即位できたのは、元敬王后の実家の権力と財力の力が大きかったことは間違いありません。

しかし、王位に就いた太宗にとって、閔氏の実家は逆に大きな恐れとなったのです。

 

息子に心痛する元敬王后

元敬王后は息子たちにも悩まされます。

長男の譲寧大君は世子でありながら、品行が悪く、遂には世子を廃位させられます。

 

また、溺愛していた四男の誠寧大君は天然痘で14歳で亡くなりました。

元敬王后の悲しみは大きかったと言います。

 

元敬王后の最後

1418年、太宗の譲位に伴って元敬王后は厚徳王大妃となります。

元敬王后は、太宗が亡くなる2年前の1420年に56歳で亡くなりました。

現在は献陵に太宗と二人で眠っています。

 

まとめ

元敬王后は名門の氏族に生まれ、王妃にまでなりました。

彼女の献身的な貢献が夫を王位に就けたと言っても間違いありません。

しかし、王妃になってからの半生は不幸のどん底でした。

 

それでも、元敬王后は56年の生涯を生き抜き、今は献陵に夫・太宗と埋葬されています。

王妃になってからは不幸な生涯でしたが、太宗はどこかで元敬王后の助力に感謝していたのかも知れません。

 

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