李成桂(イソンゲ)を失意のどん底に落とした兄弟同士の抗争
彼らは、どんな息子だったのか?
李成桂の息子たちについてご紹介します。
李成桂の息子たち
李成桂(イソンゲ)には8人の息子がいました。
長男から六男までが第一夫人であった神懿王后韓氏(ハン氏)との子供です。
七男、八男は第二夫人であった神徳王后康氏(カン氏)との子供でした。
<息子たちの一覧>
母親 | 本名 | 称号 | 生年 | 没年 | 享年 | |
第一夫人 神懿王后 |
長男 | 李芳雨 | 鎮安大君 | 1354 | 1394 | 41 |
次男 | 李芳果 | 永安大君 | 1357 | 1419 | 63 | |
三男 | 李芳毅 | 益安大君 | 不明 | 1404 | 不明 | |
四男 | 李芳幹 | 懐安大君 | 1364 | 1421 | 58 | |
五男 | 李芳遠 | 靖安大君 | 1367 | 1422 | 56 | |
六男 | 李芳衍 | 徳安大君 | 1370 | 1387 | 18 | |
第二夫人 神徳王后 |
七男 | 李芳蕃 | 撫安大君 | 1381 | 1398 | 18 |
八男 | 李芳碩 | 宜安大君 | 1382 | 1398 | 17 |
一人ひとり、ご紹介していきます。
【PR】スポンサーリンク
長男:李芳雨(イバンウ)
1354年、李芳雨は李成桂(イソンゲ)と神懿王后の長男として生まれました。
李芳雨は池奫の娘と結婚、若い頃から官職につき、礼儀判書、密直副使などを歴任しました。
高麗への忠誠心が高く、王を倒そうとする父の李成桂に反発して、妻子を連れて江原道で隠居生活をはじめてしまいます。
1392年、李成桂が太祖として即位すると、鎭安君に冊封されますが、宮殿には帰りませんでした。
1393年、持病のため41歳の若さで亡くなっています。
諡号は教孝(キョンヒョ)です。
【PR】スポンサーリンク
二男:李芳果(イバングァ)
1357年、李芳果は李成桂(イソンゲ)と神懿王后の次男と生まれました。
温厚で真面目な性格の李芳果は野心のない人物でした。
李芳果は勇敢な武将で、常に李成桂を助け、威化島回軍でも大きな功績を残しています。
しかし、弟の李芳遠とともに開国功臣から外されてしまいました。
こうした恨みが、異母弟の李芳碩の世子擁立で爆発、1398年の第1次王子の乱へとつながっていきます。
第1次王子の乱が成功裏に終わると、李芳果は意に反して王世子に冊立されました。
1400年に第2次王子の乱が収まると、李芳遠に担がれ李芳果は第2代王として即位します。
しかし、実態は李芳遠の操り人形でした。
第2次王子の乱で李芳遠の権力が強まると、王妃の助言もあり、李芳遠に王を譲ってしまいます。
譲位してからは、政治から離れて、仁德宮で暮らし、1419年63才で死去しました。
三男:李芳毅(イバンウィ)
李芳毅は李成桂(イソンゲ)と神懿王后の三男として生まれました。生年は不明です。
第1次王子の乱では、李芳遠に加担して功績を上げました。
しかし、弟の李芳幹が第二次王子の乱を起こすと、これを嘆き、官職を辞退してしまいます。
官職は辞めましたが、李芳遠を支持、李芳遠が王になると益安大君に封じられました。
1404年に病気のため死去しています。
2000年に李芳毅の遺影が盗まれる事件がありましたが、18年後の2018年に文化財庁の犯罪取締チームが捜査の末に回収しています。
<李芳毅の遺影>
四男:李芳幹(イバンガン)
李芳幹は1364年に李成桂(イソンゲ)と神懿王后の四男として生まれました。
第一次王子の乱では、鄭道伝一派を排除して功績を上げました。
しかし、王権に対する野心が強く、そのときの論功行賞や私兵の廃止に不満を持ち、李芳遠と激しく対立します。
そして、遂に、挙兵して第二次王子の乱を起こしますが、李芳遠に鎮圧されて流刑にされてしまいます。
流刑地を転々としますが、処刑されることはなく、58歳の天寿を全うしました。
最後は流刑地から解放され、故郷に戻って亡くなったと言われています。
五男:李芳遠(イバンウォン)
李芳遠は1367年に李成桂(イソンゲ)と神懿王后の五男として生まれました。
幼少のころから聡明かつ冷静沈着な人物あった李芳遠は、遂に1400年に第3代国王・太宗に即位します。
1383年、科挙に合格した李芳遠は武臣の一族としては、珍しく文臣として官僚になりました。
八男の李芳碩が世子になったことに不満を持っていた李芳遠は第一次王子の乱を起こし、鄭道伝らを殺害しました。
王位は次男の李芳果に譲りましたが、実質、政権は李芳遠が掌握していました。
1400年1月に四男の李芳幹が起こした反乱を鎮圧すると、自ら王世子となり王位を確実にします。
そして、同年11月に身の危険を感じた定宗(李芳果)が譲位すると、李芳遠は第3代国王に即位しました。
六男:李芳衍(イバンヨン)
李芳衍は李成桂(イソンゲ)と神懿王后の末の息子として生まれました。生年は不明です。
頭脳明晰で、1385年に科挙に合格して、官僚となっていますが、朝鮮王朝建国前に亡くなりました。
子供はいませんでした。
七男:李芳蕃(イバンボン)
李芳蕃は1381年、李成桂(イソンゲ)と第二夫人神徳王后の長男として生まれました。
李成桂としては七男になります。
性格が乱暴で軽率のため、鄭道伝らが世子にすることに反対、代わりに弟の李芳碩が世子になりました。
李芳蕃の妻(慶寧翁主)が高麗王・恭譲王の兄(定陽君王瑀)の娘であったことも影響していたといわれています。
つまり、新しい国(朝鮮)の世子の妃が高麗王の親族であることが障害になると考えたのです。
李芳蕃は第一次王子の乱で李芳碩とともに殺害されてしまいます。
享年18歳でした。
八男:李芳碩(イバンソク)
李芳碩は1382年に李成桂(イソンゲ)と第二夫人神徳王后の次男として生まれました。
李成桂としては八男になり、末っ子のため李成桂に大変可愛がられました。
性格は温和で聡明であったため、第二夫人の神徳王后が鄭道伝らと相談して世子に推薦しました。
李成桂がこれを認めて、1392年、10歳にして朝鮮王朝で初めての世子になります。
この頃、結婚していますが、妻(世子嬪・柳氏)と李萬の密通が発覚、世子嬪は廃位され宮殿を追い出されました。
1394年に2番目の世子嬪として沈孝生の娘を迎えています。
李芳碩は、1398年に李芳遠が起こした第一次王子の乱で殺害されてしまいました。
享年17歳でした。
まとめ
朝鮮王朝建国時に起こった兄弟同士の血の抗争。
王になるために邪魔な親兄弟を殺害する、また、王になったら危険な兄弟を粛清する。
500年以上続く、朝鮮王朝に残された数々の血なまぐさい親族の争いは、ここから始まっていました。