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熙嬪洪氏の家系図【次男・鳳城君を政争で失った中宗の側室】

熙嬪洪氏は、第11代王・中宗に40年にわたり仕えた側室です。墓誌銘では慎み深い人物として描かれる一方、『中宗実録』や『燃藜室記述』には、父・洪景舟と結びつき政治に関与したとする記録も残されています。

この記事では、熙嬪洪氏の家系図をもとに家族構成や政治関与の史実、次男・鳳城君が乙巳士禍で賜死となった経緯について詳しく解説します。

熙嬪洪氏の家系図

熙嬪洪氏(ヒビン ホンシ)は洪殷悅を始祖とする名門・南陽洪氏の出身です。一族には、第28代高麗王・忠恵王の王妃となった明徳王后がいます。

高麗時代から続く高官の家系で、高祖父・洪陟は中軍司正、曽祖父・洪淀は原州判官、祖父・洪任は知中樞府事を務めました。

父・洪景舟(ホン・ギョンジュ)は中宗反正の功績によって靖国功臣に選ばれ、南陽君に封じられています。また、母は癸酉靖難で世祖を補佐した功臣・鄭麟趾(チョン・インジ)の外孫にあたります。

熙嬪洪氏の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<熙嬪洪氏の家系図>

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熙嬪洪氏の家族

熙嬪洪氏は洪景舟と權金成の娘・権氏の次女として誕生しました。中宗との間には二人の王子・錦原君(クムウォングン)と鳳城君(ポンソングン)をもうけています。

関係 名前 生年-没年 備考
洪景舟 不詳-1521
安東権氏 生没年不詳
洪遇龍 生没年不詳
南陽洪氏 生没年不詳 金明胤の妻
本人 熙嬪洪氏 1494-1581
中宗 1488-1544
長男 錦原君(李岭) 1513-1562 妻は海州鄭氏
次男 鳳城君(李岏) 1528-1547 妻は東菜鄭氏
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熙嬪洪氏はどんな人物だったのか

熙嬪洪氏は、中宗が即位した1506年に13歳で側室として入宮しました。その後、昭儀を経て貴人となり、さらに側室最高位の嬪の地位まで昇っています。

墓誌銘には、「生まれつき容姿端正で、貞淑かつ誠実な性格であった。中宗に40年間仕えたが、常に慎み深く、少しの過失もなかった」と記されています。

また、「灼鼠の変」の際には嫌疑をかけられましたが、貞顕王大妃が「洪氏は慎み深く従順な人物であり、他意はない」と擁護したと伝えられています。

一方で、熙嬪洪氏は父・洪景舟を通じた政治工作に関与したとする史料も存在します。このため、熙嬪洪氏には「慎み深い後宮」と「政治に関与した後宮」という二つの側面があったと考えられます。

「走肖爲王」は事実だったのか

洪景舟は娘・熙嬪洪氏を通じて、「国中の人心はみな趙氏に傾いております」と昼夜を問わず王に伝えた。また、木の葉を虫に食わせて「走肖為王」の四文字を書き、予言書のように見せて王に疑念を抱かせたとされます。

しかし、実際に虫を使って意図した文字を描くことは困難であり、この話は後世に脚色された逸話である可能性が高いと考えられます。 実際、この話は『燃藜室記述』が『己卯党籍譜』を引用して記したもので、『己卯党籍譜』は勲旧派により弾圧された士林派※が編纂したとされます。

そのため、この逸話には「己卯士禍は勲旧派の陰謀によって引き起こされた」という見方を強く印象付ける意図が含まれていました。

※士林派は地方儒学者を中心とする新興官僚勢力、勲旧派は政変で功績を立てた功臣を中心とする既得権勢力で激しく対立していました。

熙嬪洪氏の政治的関与

熙嬪洪氏は側室であることを利用して、父の党派に有利になるような政治的関与を働いた形跡が見られます。

このことは己卯士禍から約25年後の実録に見ることができます。成均館の生員・申百齡が趙光祖の名誉回復を求める上疏の中に次のように記されています。

因緣攀附、通路宮掖、【謂因洪景舟之女洪嬪而通路事。】
<中宗実録:中宗39年5月29日の条>

<訳>縁故を利用して宮中に通路を開いた【洪景舟の娘・洪嬪を通じて宮中に道を開いた】

「宮中に道を開いた」とは、洪景舟らが熙嬪洪氏を通じて宮中工作を行っていたことを意味すると解釈されています。【 】内は史官の注釈です。

これは、先の『燃藜室記述』にある「洪景舟が娘・熙嬪を通じて昼夜王に語らせた」という記述とも一致しています。

次男・鳳城君の流配と死

「灼鼠の変」で敬嬪朴氏福城君が嫌疑をかけられて賜死を命じられましたが、熙嬪洪氏の次男・鳳城君もまた、後に逆賊の嫌疑を受けて流配・賜死となっています。この事件は1545年の政変(乙巳士禍)の際、逆徒たちが擁立対象として鳳城君の名を挙げたことが問題視されたものです。

当時、明宗は異母兄である鳳城君をかばい、「本人が自ら関与したわけではない」と主張しました。しかし、大臣たちの追及は厳しく、最終的に鳳城君は江原道・蔚珍へ流配となりました。その後も処罰を求める声は収まらず、1547年、逆謀との関係を疑われたまま賜死となっています。

また、熙嬪洪氏に対する処罰を求める上疏も出されましたが、明宗は「熙嬪は自ら罪を犯したわけではない」「父王の後宮を追放するのは忍びない」として、これを拒否しています。

熙嬪洪氏の最期

墓誌銘によると、鳳城君が非業の死を遂げると、熙嬪洪氏はその悲しみから病となり、宮中を出て30年間外邸で暮らしたとされます。その後も仁聖王大妃・仁順王大妃から厚く遇され、王室との関係は続きました。

そして、1581年11月6日、病により亡くなっています。享年88歳でした。墓は、先に亡くなった長男・錦原君の墓近くである楊州西方・佛光里の鶯山に築かれています。

まとめ

熙嬪洪氏は中宗の後宮として40年仕えた南陽洪氏出身の側室です。墓誌銘では慎み深い人物として描かれる一方、『燃藜室記述』や『中宗実録』には、父・洪景舟と結びつき、宮中工作に関与したとする記録も見られます。

次男・鳳城君は乙巳士禍で賜死となり、熙嬪洪氏自身も追放論の対象となりました。後宮でありながら、敬嬪朴氏と同様に政争の渦中に名を残した人物だったといえるでしょう。

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