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純明孝皇后の家系図【王朝終焉の激動の時代を生きた薄幸の妃】

純宗の最初の妃・純明孝皇后

朝鮮王朝終焉の激動の時代を生きた妃とは

純明孝皇后はどんな妃だったのか?

家系図から詳しく調べてみました。

 

純明孝皇后の家系図

純明孝皇后は長い歴史を持つ氏族・驪興閔氏の出身です。

始祖は、孔子の弟子である閔子騫の末裔であり、高麗の官史であった閔稱道(閔称道)です。

<純明孝皇后の家系図>

異母兄の閔泳翊は閔妃の義兄・閔升鎬の養子となっています。

跡継ぎのいなくなった父・閔台鎬は閔述鎬の息子・閔泳璘を養子に迎えました

 

また、驪興閔氏は4人の王妃を輩出する名門氏族です。

高宗の母・ 驪興府大夫人も驪興閔氏の出身でした。

<驪興閔氏から4人の王妃>

 

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純明孝皇后はどんな妃だったのか?

義理の母になる明成皇后は驪興閔氏一族の出身でした。

そのため、純明孝皇后が純宗の妃に選ばれたことは、明成皇后の影響が大きかったと思われます。

 

純明孝皇后のプロフィール

純宗が即位する前に亡くなったため、皇后になることができませんでした。

純宗の即位後に、純明孝皇后に追尊されています。

<プロフィール>
純明孝皇后(スンミョンヒョワンフ )
生年:1872年10月20日
没年:1904年9月28日
享年:33歳
夫:純宗(第27代王、第2代皇帝)
氏族:驪興閔氏
父:閔台鎬
母:鎮陽府夫人(鎮川宋氏)

 

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純明孝皇后の家族

兄の閔泳翊は先妻の子供でしたが、閔妃の義兄・閔升鎬の養子になっています。

そのため、跡継ぎのいなくなった閔台鎬は閔述鎬の息子を養子に迎えました。

関係 名前 生年-没年 備考
閔台鎬 1834-1884 驪恩府院君
鎮陽府夫人 不詳 2番目の夫人、鎮川宋氏
異母兄 閔泳翊 1860-1914 閔升鎬の養子になる
義弟 閔泳璘 1872-1932 養子、実父は閔述鎬
純宗 1874-1926 第27代王、第2代皇帝
子女 なし

純明孝皇后と純宗との間に子供はできませんでした。

 

純明孝皇后の生涯

1872年、純明孝皇后は閔台鎬と2番目の夫人・鎮陽府夫人の娘として、陽徳坊桂洞で生まれました。

 

兄・閔泳翊の養子による一家の繁栄

1874年、大院君派と思われる爆破事件で閔妃の義理の兄・閔升鎬が息子とともに亡くなりました。

そこで、翌年の1875年に、前妻の息子の閔泳翊が閔升鎬の養子になりました。

 

実は、閔泳翊を養子に出すことは、閔台鎬は承諾していなかったといいます。

閔台鎬は上疏しましたが、高宗は訴えを退けました。

 

跡取りのいなくなった閔台鎬は、仕方なく閔述鎬の息子・閔泳璘を養子に迎えています。

しかし、閔泳翊が明成皇后の義兄の養子になったことで、閔台鎬の家は益々繁栄することになりました。

 

世子嬪として壬午事変を経験

1882年、純明孝皇后は11歳のときに、2歳年下の世子(後の純宗)と結婚しています。

この年の7月、 壬午事変(じんごじへん)が勃発しました。

朝鮮人兵士が俸給の遅配と不正支給に対する不満から暴動を起こしました。

彼らは、閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館、そして朝鮮王宮を襲撃して、朝鮮高官や日本公使館員らを殺害しています。

 

閔妃は王宮を逃げだし、興宣大院君の政権が一時的に復活しました。

しかし、脱出した閔妃は清に救済を要請、その結果、清軍が出撃して勢力を鎮圧、興宣大院君は清に拉致されてしまいます。

 

甲申政変で父親を失う

1884年、清に急速に近づく閔妃に反発した開化派によるクーデター(甲申政変)が発生します。

この反乱で、純明孝皇后の父・閔台鎬は殺害され、兄の閔泳翊は重症を負っています。

一時は政権を掌握した開化派ですが、すぐに清の軍隊により鎮圧され、クーデターは失敗に終わりました。

 

惨劇の乙未事変を経験

1895年10月、乙未事変(いつびじへん)が起こり、義理の母・明成皇后が宮殿内で暗殺されています。

純明孝皇后は明成皇后の殺害現場を目撃して、ショックのあまり、その後、鬱病を発症したとも言われています。

乙未事変の2年後の1897年、大韓帝国が成立し、夫は皇太子、純明孝皇后は皇太子妃となりました。

 

純明孝皇后の最後

1904年、純明孝皇后は病気により、33歳で亡くなっています。

明成皇后の殺害現場を目撃したショックが、死を早めたとも言われています。

 

最初は、京畿道楊州の裕康園に埋葬されましたが、1907年に純宗が即位すると裕陵に昇格しています。

1926年、純宗が亡くなると、南楊州市金谷洞の裕陵(ユリュン)に移され、現在は純宗と共に眠っています。

 

まとめ

純明孝皇后は朝鮮王朝の終焉近くに世子嬪となり、数々のクーデターによる暴挙や殺害を目の辺りにしました。

父親の閔台鎬もクーデターで亡くしています。

 

そうした悲惨な経験が純明孝皇后の寿命を大きく縮めた一つの要因であったことは間違いありません。

ほとんど、歴史の表に出ることはない妃ですが、その悲惨な体験の数は、どの王妃よりも大きかったかもしれません。

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