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世宗の家系図【韓国で最も人気のある朝鮮最高の名君】

第4代王の世宗は、優れた政治・文化改革を行い朝鮮王朝最高の名君と称されています。

世宗とはどんな王だったのか?

本記事では、世宗の家系図から、業績、家族、生涯について分かりやすく解説します。

世宗の家系図

世宗の祖先は全州の豪族で、代々高麗朝廷に従事していました。

祖父は朝鮮王朝を建国した太祖(李成桂)、父は冷酷な粛清で王権を強化、朝鮮王朝の基盤を築いた太宗(李芳遠)です。

母の元敬王后は名門・閔氏(ミンシ)の出身ですが、父に一族を滅ぼされています。

<世宗の家系図>

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世宗はどんな王だったのか?

世宗は朝鮮王朝の歴代王の中でも最高の名君と評価されている王です。そのため、敬意を込めて世宗大王(セジョンデワン)とも呼ばれています。

反抗する臣下を次々と粛清した父とは違い、世宗は在位中、死を命じた臣下は一人もいませんでした。これは世宗の人柄を物語るエピソードであり、朝鮮王朝では特筆すべきことです。

<世宗のプロフィール>
尊称:忠寧大君(チュンニョンデグン)
生年:1397年年4月10日
没年:1450年2月17日
在位:1418年8月11日-1450年2月18日
廟号:世宗
陵墓:英陵
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世宗の驚きの生活

世宗は子供のころから本が大好きで、食事も本を読みながらとるほどの狂的な読書家だったといいます。興味の対象は言語から化学、天文学、力学、医学に至るまで幅広い分野に及びました。

また、世宗は音楽にも造詣が深く、絶対音感を持っていたと言われています。絶対音感は表音文字ハングルの製作に大いに役立ちました。

一方、読書ばかりで武術などの運動は大嫌い、三度の食事は必ず肉を食べるほどの肉好きでした。そのため、20代で既に重度の糖尿病を患い、生涯、糖尿病、白内障、膀胱結石、腫れ物など、重い病気に苦しんだと言われています。

世宗の顔は謎?

お札の肖像画や銅像として現代でも見かける世宗ですが、実は、世宗の本当の顔は分かっていません。

大韓民国の10000ウォン紙幣に描かれた世宗は、金基昶が空想で描いたものです。この世宗の肖像画は1973年に国家標準肖像画に指定されています。

<豆知識>国家標準肖像画とは
偉人の肖像画が乱立することを防ぐために、韓国政府が標準と定めた肖像画です。世宗のように実像がわからず、想像で描かれたものも多い。

また、ソウルの光化門広場の銅像は兄の孝寧大君像と末裔である李錫の顔が参考にして製作されたものです。

紙幣や銅像で韓国一有名な世宗ですが、実は、その顔は謎でした。

世宗の家族

世宗には一人の正室と多くの側室がいました。

正室・昭憲王后との間には8男2女の子供をもうけましたが、更に、10人の側室との間に10男2女の子供をもうけています。

名前 子供 備考
正室 昭憲王后 8男2女 李珦 第5代王・文宗
李瑈 第7代王・世祖(首陽大君)
側室 令嬪姜氏 1男
慎嬪金氏 6男2女 李璔 桂陽君(妻は仁粋大妃の姉)
恵嬪楊氏 3男
淑儀曺氏 なし
昭容洪氏 なし
淑媛李氏 1女
尚寝宋氏 1女
司記車氏 なし

注)子供は代表的な子供を記載しています。

三大徳妃と呼ばれる昭憲王后

世宗の正室は朝鮮王朝三大徳妃と称される昭憲王后です。1418年、太宗の譲位で世宗が即位すると王妃に昇格しました。

このとき、義父の太宗が外戚を警戒したことから、父親をはじめ一族の多くが処刑されます。母親は奴婢に転落、彼女の一族は没落しています。

しかし、昭憲王后はこの悲劇にじっと耐え忍び、多くの子孫を残しました。

昭憲王后について詳しくは>>昭憲王后の家系図【名家出身の徳妃の波乱万丈の生涯】をご覧ください。

世宗の兄弟

世宗は8人の兄弟姉妹の三男でした。

関係 名前 生年-没年 備考
長男 譲寧大君/李褆 1394-1462 廃世子になる
次男 孝寧大君/李補 1396-1486 出家する
三男 忠寧大君/李裪 1397-1450 世宗
四男 誠寧大君/李褈 1405-1418 14歳で逝去
長女 貞順公主 1385-1460 李伯剛の妻
次女 慶貞公主 不詳-1455 趙大臨の妻
三女 慶安公主 1393-1415 吉昌君/權跬の妻
四女 貞善公主 1404-1424 宜山君/南暉の妻

本来であれば、兄の譲寧大君が王位を継ぐはずでしたが、女性関係が派手で素行不良であったため、世子を廃位されています。

次男の孝寧大君は政治には関心がなく、仏教に興味を持ち、出家しています。次男であるにも関わらず、世子に選ばれなかったのは性格と社交性に問題があったとも言われています。

弟の誠寧大君は年を取ってから生まれたため、両親から格別な寵愛を受けましたが、1418年に感染症(天然痘または麻疹)で亡くなっています。

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世宗の数々の業績|ハングル創製

世宗の業績は数多くありますが、1番有名で後世に影響を与えたものはハングルの発明です。

ハングルにより、民は言葉を文字で伝えることができるようになりました。

当時の朝鮮は漢字文化圏であり、漢字以外に文字はありませんでした。民は話し言葉以外に意思を伝える術がなかったのです。

独自の文字への反発

当初、ハングルの普及は漢字による知識を独占したい官僚や両班の猛反対を受けます。反対派の代表格は集賢殿で副提学を務め崔萬理(チェ・マルリ)でした。

独自の文字を持つと、モンゴル人、チベット人、日本人のような野蛮人に成り下がるとさえ言われました。

しかし、世宗は「ハングルは文字ではない。漢字の素養が無い民に発音を教えるための記号に過ぎない」とハングルの公布を強引に進めました。

ハングルの公布

1446年の公布時には「訓民正音(フンミンジョンウム):民を訓おしえる正しい音」として公布しています。

<訓民正音>

訓民正音の序文には訓民正音を公布する目的が書かれています。まさに、世宗の思いです。

<訓民正音の序文>
わが国の言語は中国とは異なり、文字と相通じていない(漢字では書き表せない)ので、愚かな(漢字の知識がない)民たちは言いたいことがあっても、意思を表現できない(書き表せない)ことが多い、私はそれを哀れに思い、新たに28文字を制定した。人々が簡単に覚えて、日々便利なようにさせることを願ってのことである。

当初、訓民正音は漢字に対して卑俗な文字として、なかなか普及しませんでしたが、文字が普及するにつれ、民の文化レベルは飛躍的に高まっていきました。

<豆知識>ハングルとは
ハングルは言語ではなく、朝鮮語を表記するための表音文字です。日本でいうところの「ひらがな」に相当するものです。従って、ハングルさえ知っていれば、韓国語の意味は分からなくても読むことは可能です。韓国語が話せる人にとって、大変便利な文字なんです。 「ハン」は「大きな」という意味、「グル」は「文(ふみ)」という意味、従って、「ハングル」は「偉大なる文字」という意味です。

世宗の数々の業績|技術、実学

印刷技術の進歩

世宗は朝鮮国内の活字や印刷技術の改良を命じています。

すると、従来の金属活字「癸未字」の欠点を改善した、「庚子字」や「甲寅字」が次々と開発されました。

特に、1434年に開発された「甲寅字」は「朝鮮金属活字の花」と呼ばれ、1日の印刷量を2倍に増やしたと言われています。

2021年、ソウル・仁寺洞の発掘で金属活字「甲寅字」の実物が発見されています。

<金属活字の「甲寅字」>

印刷技術とハングルの発明は、印刷物を通して多くの情報が韓国内に行き渡り、医学、技術、文化の普及に貢献したことは間違いありません。

実学の発展

世宗は天文学、気象学、農業、医学、音楽、火砲などの実学分野にも発展に貢献した王です。

特に、官奴であった蔣英実(チャン・ヨンシル)は、世宗に才能を見出され、多くの天文観測器具を作り上げました。世宗は蔣英実の功績を認め、後に奴婢の身分から免賤しています。

蔣英実の父は高麗王朝の高官でしたが、朝鮮王朝の建国と同時に一家は賤民(奴婢)の身分に落とされていました。

<世宗時代に発明、製作された主要な物>
・簡儀台(王立天文台)
・渾天儀(天体観測器)
・仰釜日晷(日時計)
・自撃漏(自動水時計)
・測雨器(雨量計)
・火砲鋳造所
<世宗時代に編纂された書籍>
・本国経験方、農事直説(農書)
・銃筒謄録(火砲の鋳造法と火薬使用法)
・医方類聚(医学書)

世宗の数々の業績|人材育成、政治、領土拡大

集賢殿による人材育成と政治運営

世宗は宮中に学問研究所として集賢殿(チッピョンジョン)を設置しました。

集賢殿は単純に学問を研究する機関から、王に政策を提案する政策諮問機関として機能し、文官による政治運営の原動力になりました。

また、新しい文化や技術を創出する機関としても重要な役割を果たしました。

集賢殿には、身分や国籍を問わず、有望な人材が採用され、鄭麟趾(チョン・インジ)、徐居正(ソ・ゴジョン)、申叔舟(シン・スクジュ)、成三問(ソン・サンムン)、朴彭年(パク・ペンニョン)などの優秀な人材が輩出されています。

政治における権力の分散化

世宗は即位当初から肥満体で糖尿病を患っており、晩年は病状がかなり悪かったようです。

彼は、世子を摂政にしようとしましたが、臣下の反対にあいます。そこで、六曹直啓制を議政府署事制に変更しています。

議政府署事制は、王の国事負担を軽減しながらも、王が全体を統括できる制度でした。

<豆知識>六曹直啓制と議政府署事制
六曹直啓制は王が省庁を直接統括する制度、議政府署事制は領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議して、その結果を国王に上奏する制度です。議政府署事制は民主主義と専制主義の中間のような制度でした。

北方の領土拡大(四郡六鎮)

世宗は領土拡大にも力を注ぎました。

崔潤徳の女真族討伐

1433年、崔潤徳は北方・閭延に侵入した女真族の討伐を任されます。彼は、1万5千人の兵士を率いて、女真族討伐を敢行、大勝利を収めました。

その後、7年かけて鴨緑江上流に四郡(閭延、慈城、茂昌、虞芮)を設置、女真族の占領地を朝鮮の領地としています。

金宗瑞による六鎮の構築

また、同時期の1433年に金宗瑞を咸吉道都観察使に任命して、東北地方の領土拡大を命じています。

金宗瑞は豆満江まで国土を拡大、1449年に最後の要塞・富寧を設置して北方の要塞となる六鎮(穏城、鐘城、会寧、富寧、慶興、慶源)を完成させています。

この四郡と六鎮により、朝鮮と中国の北方国境線は豆満江・鴨緑江沿岸まで拡大しました。

しかし、境界線に於ける行城(壁)の構築、領地への住民の移住など、多くの財力と労力が必要とされ、北方領土の維持は、後の朝鮮にとって大きな負担となっていきます。

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世宗の生涯

世宗の生涯は名君と呼ばれるに値する数々の業績を残した一生でした。

好学の少年時代

世宗は幼少の頃から読書と学問が大好きで、極度の読書好きを心配した父親の太宗が書籍を全て撤去させるほどでした。

世宗は屏風の裏に残された1冊の本を見つけて、数百回も読んだ逸話は有名な話です。

父が実権を握った即位からの4年間

太宗は、1418年に問題児だった譲寧大君を世子から廃位すると、三男の忠寧大君(世宗)を世子に擁立して、その数ヶ月後に王位を譲位しています。

第4代王・世宗の誕生です。

しかし、即位からの4年間は、実質、父の太宗が人事権と軍事権を握り、残虐な粛清で政敵を排除、強力な中央集権を作り上げた時代でした。

独自の政策を実行した時代

1422年に太宗が亡くなり、世宗の親政が始まると、独自の政策を次々と実行していきました。

世宗が残した数々の業績については、先にご紹介したとおりです。

太宗の冷酷さに対する批判はありますが、彼の粛清と強権で築き上げた基盤の上で、世宗の理想政治が実現したことは間違いありません。

病に苦しんだ晩年

世宗は昼間は政務に励み、夜は学問に熱中するなど、休む暇なく働いたと言われています。そのため、晩年は健康が急激に悪化、最後は目の病で文字が読めなくなるほどでした。

相次ぐ不孝が世宗の病に追い打ちをかけます。1444年には五男の広平大君、1445年には七男の平原大君が亡くなり、1446年には長年連れ添った昭憲王后が亡くなります。

世宗は政務への熱意は薄れ、相次ぐ不孝による悲しみと病の苦痛から逃れるため、盲目的に仏教に傾倒していきました。

そして1450年、世宗は後世に末永く残るすぐれた業績を残して、54年の生涯を閉じました。

世宗が登場するドラマ

世宗は韓国内では人気の王ですが、世宗を主人公とした本格的な時代劇は意外に少ないことにびっくりします。

世宗の生涯を扱ったドラマとしては全86話と長編ですが、「大王世宗」がおすすめです。

<世宗が登場する時代劇>
龍の涙(1996年、アン・ジェモ)
王と妃(1998年、ソン・ジェホ)
死六臣(2007年、キム・ジュンシク)
大王世宗(2008年、キム・サンギョン)
根の深い木(2011年、ハン・ソッキュ)
インス大妃(2011年、チョン・ムソン)
ポンダンポンダン
(2016年、ユン・ドゥジュン)
チャン・ヨンシル
(2016年、キム・サンギョン)
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補足:世宗の生涯一覧

世宗の生涯を一覧に整理しました。

年齢 出来事
1397 1 第3代国王太宗の三男として生まれる
1400 4 父が第3代王・太宗として即位する
1408 12 2月11日、忠寧君に封じられる
2月16日、沈氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚する
1412 16 5月3日、忠寧君が大君(忠寧大君)に進封される
1418 22 6月、譲寧大君が世子を剥奪される
忠寧大君(世宗)が世子に冊封される
8月11日、太宗が忠寧大君に譲位、第4代王・世宗として即位する
太宗は軍事権をもって上王となる
義父・沈温が太宗に対する反逆・不敬の罪で処刑される
1419 23 太宗の主導で対馬征伐が行われる(己亥東征)
1420 24 王の政策諮問機関の集賢殿を設置する
1422 26 太宗が亡くなり、世宗の親政が始まる
1423 27 官婢の蔣英実を登用する
1424 28 長女の貞昭公主が天然痘で亡くなる
1425 29 朝鮮通宝を鋳造、貨幣経済の浸透を試みる
1426 30 塩浦、富山浦、乃而浦の三浦を開港する
1429 33 鄭招らが「農事直説」の編纂を開始する
1431 35 黄喜(ファンヒ)が領議政に就任する
1432 36 王立天文台である簡儀台を設置する
孟思誠、尹淮らが「新撰八道地理誌」を編纂する
1433 37 金宗瑞が女真族の討伐を開始する
1434 38 甲寅字を鋳造する
1435 39 「続六典」の編纂を終える
1436 40 貢法詳定所を設置して、田税制度を定める
六曹直啓制を議政府署事制に変更する
1441 45 蔣英実が世界最初の雨量計(測雨器)を発明する
1442 46 王の輿が破損、制作監督の蔣英実が不敬罪に問われる
世宗の病状が悪化、世子(文宗)に摂政を命じる
1443 47 ハングルを創製する
1444 48 崔萬理が文字創製に対する反対上訴を提出する
12月7日、王妃の母安氏が亡くなる
12月8日、五男の広平大君が麻疹で亡くなる
1445 49 1月16日、七男の平原大君が痘瘡で亡くなる
1446 50 3月24日、39年連れ添った昭憲王后が亡くなる
10月9日、ハングルを公布する
1448 52 李珦(文宗)の一人息子・李弘暐(端宗)を世孫に冊立する
1450 54 2月17日、世宗は54歳で逝去、献陵に埋葬される
1469 昭憲王后とともに英陵に移葬される

まとめ

世宗は韓国で最も愛され尊敬される王様です。

そのため、韓国には世宗の名を付けた様々な施設が存在しています。

世宗特別自治市(都市名)
世宗大王 (駆逐艦)
世宗基地(南極観測基地)
世宗文化会館、世宗研究所、世宗大学校
など

これを見ても、世宗が韓国最大の名君であることは間違いないでしょう。

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