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明成皇后の家系図【閔一族は王妃二人を出した名門中の名門】

義理の父親と大バトルを展開した明成皇后ですが、家系図を調べると意外な事実が見えてきました。

 

なお、明成皇后(ミョンソンファンフ)は、死後送られた諡号(しごう)です。

閔一族出身の王妃ということで、閔妃(ミンビまたはミンピ)と呼ばれることもあります。

 

明成皇后の家系図

明成皇后の家系は、太宗の王妃・元敬王后と粛宗の王妃・仁顕王后の二人の王妃を出した名門でした。

閔一族はもとは中国系の一族で、中国を氏族の当主と考えていました。

一族の規模も大きく、朝鮮で最大の領地を持っていたといいます。

 

明成皇后は兄弟姉妹が早世して一人娘だったので、後に興宣大院君の妻の実弟である閔升鎬(ミン・スンホ)が義兄として養子になりました。

この関係が、後に明成皇后が高宗の王妃になるときに強い影響力を発揮します。

<明成皇后の家系図>

 

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明成皇后はどんな王妃だったのか?

明成皇后は早くに父親を亡くしていますが、行儀作法などは充分に身につけ、学問も両班のどんな大家の娘にも引けを取りませんでした。

また、王妃として恥ずかしくない容姿容貌でした。

 

明成皇后は8歳のときに父親の閔致禄(ミン・チロク)を亡くし、一家には権力も財力もありませんでした。

しかし、権力も財力も無かったことが、逆に明成皇后の王妃選定(揀択)に有利に働きました。

 

ソウルから南東60kmに位置する驪州(ヨジュ)に明成皇后が生まれた生家あります。

この生家は、仁顕王后の父親である閔維重の墓所を管理するために墓幕として1687年に建立されました。


<明成皇后が8歳まで住んだ生家>

明成皇后の生家と明成皇后記念館
明成皇后が生まれ、8歳まで住んだ生家は、今ではきれいに改装されて、近くには明成皇后記念館も建立されています。
場所:ヨジュ市明成路71

明成皇后の生家の近くには、明成皇后が8歳から王妃になるまでに住んだ感古堂が漢陽(現ソウル)から2008年に移設されています。

<移設された感古堂>

感古堂は仁顕王后が廃位されたときに住んだ家としても有名です。

 

明成皇后のプロフィール

1866年、明成皇后は15歳で王妃に選ばれて宮廷入りました。

まだ、若かった明成皇后は寡黙な性格で、夜通し王宮の蔵書を読み漁る学問の好きな才女だったといわれています。

 

特に、夫の高宗に相手にされなかった3年間は異常なほどの熱意で読書に没頭したといわれています。

愛読書は「春秋」と「左伝」の歴史書でした。

 

「春秋」は古代中国の春秋時代の歴史書で孔子が制作に関与した、孔子の思想が入った歴史書です。

「左伝」は左氏が書いた「春秋」の解釈書でした。

なぜ、明成皇后がこの時期にこの本を愛読したのかは分かりませんが、この時に身に付けた学識が、後の政治運営において大きな力となったことは間違いありません。

 

<明成皇后のプロフィール>
本名:閔玆暎(ミン・チャヨン)
出生:1851年9月25日
死去:1895年8月20日
享年:45歳
埋葬:1919年3月3日
配偶者:高宗(第26代王)
子女:純宗(第27代王)
氏族:驪興閔氏
父親:閔致禄
母親:韓山李氏

愚鈍で政治に関心のない高宗に対して、政治感覚にも優れ聡明な王妃は、巧みな話術で政治に介入していきました。

その結果、権力を握った明成皇后は頑固で気の強い性格から従わないものを容赦なく弾圧し、粛清していきます。

 

義理の父である興宣大院君さえも、激しく敵対視して失脚させてしまいます。

こうして、絶対的な権力を握った明成皇后は、次第に独裁者として君臨していきました。

 

明成皇后の子供

明成皇后は第26代王国・高宗との間に4男1女の子供を生みますが、4人は幼くして亡くなりました。

成長したのは、後に第27代王国として高宗を引き継ぐ純宗一人だけでした。

<明成皇后の家族>

高宗 第26代王
明成皇后 1866年王妃になる
長男 大君 早世、1871-1871
長女 公主 早世、1873-1873
次男 李坧 純宗、1874-1926
三男 大君 早世、1875-1875
四男 大君 早世、1878-1878

明成皇后に初めて子供ができたのが、結婚して5年目でしたが、生まれてすぐに亡くなってしまいました。

鎖肛(さこう)という排泄不能の奇病でした。

明成皇后の悲しさは想像を絶するものがあり、興宣大院君のくれた朝鮮人参にその原因があると憎悪を募らせました。

また、亡くなった子供のために数日に渡り常軌を逸した祈禱を行ったり、巫女の占いを信じて、無実の女官に酷い刑罰を加えたといいます。

 

明成皇后が王子を生む前に、永保堂 貴人李氏が完和君を産んでいることも、明成皇后が荒れた大きな要因でした。

このあたりの経緯をまとめておきます。

出来事
1866年 明成皇后が王妃になる
1868年 永保堂が李墡(完和君)を生む
1871年 長男が生まれるが、数日後に亡くなる
1873年 長女が生まれるが、すぐに亡くなる
1874年 李坧(純宗)が生まれる
1875年 李坧が王世子として清に認められる
1875年 三男が生まれるが、すぐに亡くなる
1877年 貴人張氏が李堈(義和君)を生む
1878年 四男が生まれるが、すぐに亡くなる
1880年 李墡(完和君)が13歳で亡くなる
1882年 李坧(純宗)の世子嬪に純明孝皇后が決まる
1897年 純献皇貴妃が李垠(英親王)を生む

 

明成皇后の兄

明成皇后の兄弟姉妹は義理の兄の閔升鎬(ミン・スンホ)一人です。

 

明成皇后の父親は、明成皇后が8歳のときに亡くなっています。

明成皇后の兄弟姉妹は早世だったので、跡継ぎとして興宣大院君の妻・驪興府大夫人の実弟である閔升鎬(ミン・スンホ)を養子に迎えたのです。

驪興府大夫人の実弟が明成皇后の義理の兄なったことが、明成皇后が王妃になった決め手の一つになりました。

 

また、外戚として父親のいない明成皇后にとって、義理の兄・閔升鎬は相談役であり、強い味方でした。

閔升鎬は興宣大院君により失脚した安東金氏(アンドンキムシ)や豊壌趙氏(プンヤンジョシ)に近づき、反興宣大院君勢力を固めていきます。

こうして、閔升鎬と明成皇后は閔氏一族による勢道政治の基盤を構築していきました。

 

しかし、1874年に家に送られてきた郵送小包が爆発して、閔升鎬が亡くなってしまいます。

このときに、明成皇后の生母・韓昌府夫人と閔升鎬の息子も爆死しています。

 

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高宗の正室と多数の側室

高宗には、多くの側室がいましたが、特に明成皇后が王妃になる前から寵愛していたのが永保堂 貴人李氏でした。

永保堂 貴人李氏は明成皇后よりも先に、王子の完和君を生んでいます。

 

しかし、1880年、完和君は13歳の若さで病死してしまいました。

貴人李氏はショックのあまり、失語症になったといいます。

第26代王・高宗 名前 子供 備考
正室 明成皇后 李坧 第27代王・純宗
側室 純献皇貴妃 嚴氏 李垠 英親王
永保堂 貴人李氏 李墡*注2 和完君 13歳で死去
貴人張氏 李堈 義親王
内安堂 貴人李氏 子女なし
宝賢堂 貴人鄭氏 李堣 2歳で死去
福寧堂 貴人梁氏 徳恵翁主
光華堂 貴人李氏 李堉 3歳で死去
三祝堂 尚宮金氏 子女なし
貞和堂 尚宮金氏 子女なし
宮人廉氏 子女なし
宮人徐氏 子女なし
宮人金氏 子女なし
宮人張氏 子女なし
生母不明 皇女 李文鎔

注1)1年以内に幼くして亡くなった子は記載していません。
注2)永保堂の息子は死後、完親王の称号が与えられました。

高宗に側室が多かったのは、先代の王であった憲宗、哲宗に跡継がなく、王室が安定しなかったことが影響していると思われます。

また、福寧堂の娘・徳恵翁主は映画「ラスト・プリンセス―大韓帝国最後の皇女―」のモデルになった王女です。

 

明成皇后の子孫

明成皇后の実子である純宗には子供ができませんでした。

そのため、明成皇后の血縁は純宗の代で途絶えてしまいました。

 

一方、高宗と側室の間には成人した子供が3人いましたが、貴人張氏との間に生まれた義親王(李堈)が多くの女性と関係を持ち、多くの子供がいました。

現在生きている高宗の子孫の大半は義親王の子孫です。

 

1958年に行われた調査では、夫人が18名、子女は何と28人も確認されています。

しかし、正式に皇族と認められたのはたったの2名(李鍵と李鍝)でした。

 

王妃になった理由は無力

明成皇后が王妃になった大きな理由は高宗の父親である興宣大院君の望む条件に近かったからです。

興宣大院君は長い間、外戚である安東金氏に苦しめられてきました。

また、王朝が衰退して国が腐敗したのも安東金氏一族によるの六十余年の勢道政治の結果だと考えていました。

従って、興宣大院君は王妃の親戚の勢力が強くなることを酷く嫌っていました。

 

しかし、条件はそれだけでなく、当然、名門出身で王妃としての資質をもった女性であることは必須でした。

王妃選びが難航する中で、興宣大院君の妻である驪興府大夫人が同じ閔一族の明成皇后を推薦しました。

 

明成皇后は王妃として資質は十分な上に、父親を8歳のときに亡くし、周囲には野望を持った人物もいませんでした。

明成皇后の一家は無力だったのです。

 

しかも、妻の驪興府大夫人と同じ閔氏で、一族は王妃を二人も出した名門です。

何より、驪興府大夫人が明成皇后を気に入っていたといいます。

1866年、興宣大院君は息子の王妃として、明成皇后を迎えることに決めました。

 

しかし、このときはまだ、明成皇后と興宣大院君が将来、政敵としていがみ合うとは互いに思ってもみなかったことでしょう。

 

明成皇后の悲劇的な最後

朝鮮で実権を握った明成皇后は清やロシアと手を結びながら、日本を排除して、政権を維持してきました。

明成皇后の暗殺事件

明成皇后の親日派排除に対して危機感を感じた日本は、着任したばかりの三浦梧楼公使のもとで明成皇后の殺害を計画します。

そして、1895年10月8日にソウルの景福宮に日本軍が乱入し、明成皇后は殺害されてしまいました。(乙未事変)

 

三浦梧楼が指揮をとり、実行部隊は日本軍、領事警察、それに刺客として大陸浪人(熊本国権党員、自由党員)が加わっていたといいます。

遺体は証拠隠滅のために、乾清宮の裏の林で燃やされました。

殺害された現場とされる場所の近くには、現在、「明成皇后遭難之地碑」が建てられています。

 

しかし、襲撃を目撃したアメリカ人やロシア人に告発されて、日本は国際的な非難を浴びます。

慌てた日本政府は三浦梧楼を始めとする関係者を日本に戻して、見かけだけの裁判にかけ、証拠不十分として釈放してしまいました。

事件の黒幕は誰だったのか、いまだに分かっていません。

<豆知識>乙未事変の目撃者
目撃者の一人はロシア人のアファナシ・イバノビッチ・セレディン(サバティン)です。当時30代の建築家で、宮廷建築など韓国の建築物の設計に関与していました。サバティンは事件当時、高宗の計らいで王室警護員の資格で宮殿にいましたが、一部始終を目撃。生々しい現場の状況を証言録として歴史に残しています。

 

韓国の人なら誰でも知っている事件ですが、事件を起こした日本でほとんど知られていないのは非常に残念なことです。

こうした事件を知ると、日韓関係には互いに負の部分を見ないことによって起こる偏見が歴史に横たわっていると感じざるを得ません。

 

明成皇后のお墓(洪陵)

1895年に乙未事変で殺害された明成皇后は、清涼里(チョンニャンニ)近くの山に埋められていました。

国が大韓帝国となり、初代皇帝になった高宗は、1897年に明成皇后の国葬を行い、ソウルの清涼里に明成皇后のお墓・洪陵を造成して埋葬しました。

実はこのときに、亡き皇后におくる諡号を「明成皇后」と定めています。

 

1919年に高宗が亡くなると、現在の洪陵に移され高宗と一緒に合祀されました。

<明成皇后が埋葬されている洪陵>

洪陵は他の朝鮮王朝の王陵とは異なり、明の太祖の孝陵を模して皇帝陵の様式で制作されています。

これは、国名を大韓帝国に変えたときに、王様を「皇帝」と称したことによります。

そのため、洪陵には他の王陵では見られないキリン、ゾウ、獅子、ヘテなどの多くの動物の石物が設置されています。

 

明成皇后が登場するドラマ

明成皇后が登場するドラマは数多くありますが、日本で公開されているものをご紹介します。

・明成皇后(2001年、成人:イ・ミヨン/少女:ムン・グニョン/晩年:チェ・ミョンギル)
・済衆院(2010年、ソ・イスク)
・朝鮮ガンマン(2014年、チェ・ウンファ)
・客主〜商売の神〜(2015年、チェ・ジナ)
・緑豆の花(2019年、キム・ジヒョン)
・風と雲と雨(2020年、パク・ジョンヨン)

 

ドラマ「明成皇后」

ドラマ「明成皇后」は王妃として選ばれるときから、殺害されるまでの明成皇后の生涯を描いたドラマです。

全124話と長編です。

史実が歪曲されて描かれているとも言われていますが、ドラマとしては十分に楽しめます。

明成皇后は少女時代をムン・グニョン、成人時代をイ・ミヨン、晩年時代をチェ・ミョンギルの3人の女優が演じました。

 

ムン・グニョンはこのとき、大抜擢されての出演で孤独な少女時代を見事に演じきっています。

イ・ミヨンは鉄の女として、まさに貫禄の演技です。

 

少々長いので中盤、飽きてしまうかもしれませんが、史実に忠実に描かれているので頑張って見れば、当時の歴史を知るには良いドラマです。

視聴前に明成皇后、高宗、興宣大院君について少し調べておくと、より深くドラマを楽しむことができると思います。

 

風と雲と雨

パク・シフが「王女の男」以来9年ぶりに時代劇に出演したことで話題になったドラマです。

興宣大院君が屈辱に耐えながら息子の高宗を王にした史実をフィクションを織り交ぜながら描いています

興宣大院君が息子を王にして、当時、政治を握っていた安東金氏を追放した影には、朝鮮最高の観相師(パク・シフ)の存在があったという発想の話です。

 

明成皇后は新人のパク・ジョンヨンが演じていますが、物語の中では脇役的な存在です。

興宣大院君の対決も特になく、明成皇后の活躍を見たいと思う人には少々ガッカリする内容だと思います。

 

まとめ

明成皇后の家系図を調べると、一族は元敬王后と仁顕王后という二人の王妃を出した名門でした。

しかし、明成皇后の一家は父親を早くに亡くし、兄弟もいない権力のない一家でした。

このことが外戚を驚異と考える興宣大院君には息子の王妃の条件としてうってつけの条件でした。

この時、明成皇后自身が興宣大院君の最強の政敵になるとは思ってもいなかったと思います。

 

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