仁顕王后の出身氏族・驪興閔氏は4人の妃を輩出した由緒ある氏族です。
4人の妃が系図上、どのような関係にあるのか。
仁顕王后の家系図を詳しく調べてみました。
仁顕王后の家系図
仁顕王后の氏族・驪興閔氏(ヨフンミンシ)は高麗時代に中国から帰化した名門の氏族です。
始祖(家系の初代)は閔称道で、孔子の10人弟子の1人であった閔子騫の子孫にあたります。
<仁顕王后の家系図>
第3代太宗(テジョン)の王妃であった元敬王后(ウォンギョンワンフ)も驪興閔氏の一族でした。
しかし、太宗は閔氏一族が朝廷で権力を拡大するのを恐れ、元敬王后の2人の兄と2人の弟を粛清してしまいました。
その結果、元敬王后の家族の血筋は没落してしまします。
4人の妃を出した由緒ある一族
仁顕王后の兄の子孫には、高宗の王妃・明成皇后(ミョンソンファンフ)や高宗の息子の純宗(スンジョン)の妃・純明孝皇后(スンミョンヒョファンフ)もいます。
驪興閔氏は歴代で2人の王后と2人の皇后を輩出している名門氏族と言えます。
<驪興閔氏の系図>
また、仁顕王后の弟・閔鎭永の子孫には高宗の生母である驪興府大夫人がいます。
但し、閔端顯は養子なので直接の血筋ではありません。
朝廷の実力者・宋時烈との関係
粛宗の最初の王妃である仁敬王后が亡くなった時に、次の王妃として仁顕王后を押したのは粛宗の母・明聖王后と宋時烈でした。
宋時烈(ソン・シヨル)は仁顕王后の母方の親戚で当時、西人派の実力者でした。
<宋時烈と仁顕王后の関係>
宋時烈は仁祖の息子の鳳林大君の師傅(守役)でしたが、鳳林大君が孝宗として即位すると頭角を現していきました。
そして、第16代国王の仁祖から第17代国王の孝宗、第18代国王の顕宗、そして、第19代国王・粛宗まで4代の国王に仕えることになります。
朝廷の重鎮であった西人派・宋時烈の推薦が仁顕王后が王妃になれた大きな要因であったと思われます。
しかし、宋時烈は仁顕王后の仇敵であった張禧嬪の子供を世子にすることに反対したため、済州島に流刑の上、死罪にされてしまいました。
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仁顕王后はどんな王妃だったのか?
仁顕王后は歴代王妃の中でも、礼儀正しく、徳があり3大徳妃の一人と称されています。
特に、廃位されてからの暮らしぶりは、一つも恨む気配なく、自ら罪人として慎ましく暮らしました。
そのため、多くの民が家の前にこっそりと穀物や反物を届けたと言われています。
仁顕王后のプロフィール
仁顕王后は屈辱的な境遇になっても王妃としての品格を失いませんでした。
しかし、6年間の廃位生活が寿命を縮めたのか、復位後、35歳の若さで亡くなってしまいました。
もともと病弱な体質だったと言われています。
生涯、子供にも恵まれませんでした。
生年:1667年4月23日
没年:1701年8月14日
在位期間:1681年-1689年
復位後:1694年-1701年
享年:35歳
配偶者:粛宗
子供:実子なし、養子(景宗)
氏族:驪興閔氏
父親:閔維重
陵号:明陵
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仁顕王后の家族
仁顕王后の実家での家族関係です。仁顕王后は5人兄弟姉妹の次女でした。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 子供 | 生年-没年 |
父親 | 閔維重 | 1630-1687 | ||
正室 | 海豊府夫人 | 1628-1652 | 子女なし | |
継室 | 恩城府夫人 | 1637-1672 | 姉:貞夫人閔氏 | 1656-1728 |
兄:閔鎭厚 | 1659-1720 | |||
兄:閔鎭遠 | 1664-1736 | |||
本人:仁顕王后 | 1667-1701 | |||
妹:不詳 | ||||
豊昌府夫人 | 1659-1741 | 弟:閔鎭永 | 1682-1724 | |
妹:不詳 | ||||
妹:不詳 | ||||
側室 | 氏名不詳 | 不詳 | 弟:閔鎭昌 | 不詳 |
弟:閔鎭五 | 不詳 | |||
妹:不詳 | ||||
妹:不詳 |
父親の閔維重(ミン・ユジュン)は兵曹判書を勤めた西人派の重臣でした。
兄の閔鎮厚(ミンジヌ)は父親・閔維重のあとを継ぎ、西人派から分裂した老論派の主導者となりますが、1720年に亡くなっています。
兄の後を継いだ閔鎭遠(ミン・ジノン)はドラマ「ヘチ 王座への道」にも登場する人物で左議政まで務めた老論派の重臣でした。
仁顕王后の生涯
15歳で粛宗の継妃になった仁顕王后ですが、生涯、粛宗から寵愛を受けることはありませんでした。
また、宿敵・張禧嬪との対立、廃位生活など政局に振り回された波乱万丈の一生でした。
仁顕王后の生涯を関連の事件を含めてまとめておきます。
年 | 出来事 |
1667年 | 閔維重と恩城府夫人の次女として誕生 |
1680年 | 張禧嬪が明聖王后により宮廷外に追放される |
1681年 | 粛宗の王妃となる(15歳) |
1684年 | 粛宗の母の明聖王后が亡くなる |
1686年 | 張禧嬪が承恩尚宮として宮廷に戻る |
1688年 | 張禧嬪が10月27日に李昀(景宗)を生む |
1689年 | 1月15日、張禧嬪は嬪に昇進、李昀は世子になる |
1689年 | 5月2日、己巳換局で禧嬪張氏と南人派の策略によって廃位となる(23歳) |
1694年 | 4月12日、甲戌換局で南人が朝廷より追放されて復位となる(28歳) |
1701年 | 8月14日、昌慶宮の景春殿で病死(35歳) |
1701年 | 11月9日、張禧嬪が粛宗からの賜薬により処刑される |
まとめ
仁顕王后の出身氏族である驪興閔氏(ヨフンミンシ)は高麗時代に中国から帰化した名門の氏族でした。
始祖の閔称道は孔子の10人弟子の1人・閔子騫の子孫にあたります。
驪興閔氏からは4人の妃を輩出していますが、仁顕王后をはじめとして、いずれの妃も波乱万丈の生涯を送っていました。