Googleのアドセンス広告を表示しています

カン氏の家系図【昭顕世子嬪・愍懐嬪姜氏の生涯と姜嬪の獄】

カン氏(愍懐嬪姜氏)は名門の出自を持ちながら、朝鮮王朝史を代表する悲劇に巻き込まれた世子嬪です。

本記事ではカン氏 家系図から彼女の人物像、家族関係、そして悲劇的事件「姜嬪の獄」を史実をもとに詳しく解説します。

姜氏(カン氏)の家系図|名門の出自

カン氏は高官を務めた姜碩期の次女として生まれました。

父方は、名将・姜邯賛(カン・ガムチャン)を中始祖とする衿川姜氏で、文武両面に人材を輩出してきた名門です。母方の高霊申氏も、申叔舟を祖とする由緒ある一族で、多くの歴史的人物を輩出しています。

姜氏(カン氏)の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<姜氏(カン氏)の家系図>

このような家柄から、カン氏は政治的にも家柄的にも申し分ない良縁として昭顕世子の正室に選ばれました。

【PR】スポンサーリンク

カン氏はどんな女性だったのか?

実録によると、カン氏は性格が剛直で激しく、ついには不順(不敬)とされ、たびたび王の意に背いたことが積み重なって、ついに死に至ったと記されています。

姜氏性剛戾、卒以不順、積忤上意、遂及於死
<仁祖実録24年3月15日(1647年)>

こうした気質が、仁祖の逆鱗に触れ、一族を破滅させる悲劇を生んだ一因となりました。

<プロフィール>
称号:愍懐嬪姜氏(ミンフェビン カンシ)
生年:1611年3月6日
没年:1646年3月15日(享年36歳)
本貫:衿川姜氏
父:姜碩期(1580-1643)
母:申禮玉(不詳-1646)
兄弟姉妹:5男3女(次女)
夫:昭顕世子
墓:永懐園(西五陵内)
【PR】スポンサーリンク

夫・昭顕世子と子供たち

カン氏と昭顕世子は3男5女の子供をもうけていまうす。史料からも、夫婦関係は良好であったことがうかがえます。

<夫と子供たち>

関係 名前 生年-没年 備考
昭顕世子 1621-1645
長女 不詳 1629-1631 夭逝
次女 不詳 1631-1640 夭逝
長男 慶善君 1636-1648 石鉄(ソクチョㇽ)
三女 慶淑郡主 1637-1655 具鳳章の嫁、1男
次男 慶完君 1640-1648 石磷(ソンニン)
四女 慶寧郡主 1642-1682 朴泰定の嫁、5男4女
五女 慶順郡主 1643-1697 辺光輔の嫁
三男 慶安君 1644-1665 石堅(ソッキョン)

姜嬪の獄により、3人の息子は流刑となり、そのうち2人は流刑地で亡くなりました。三男の慶安君(石堅)が唯一生き残り、密豊君は彼の孫にあたります。

詳しくはこちら>>推奴(チュノ)の可愛い石堅は実在した密豊君の祖父

朝鮮王朝史を代表する悲劇「姜嬪の獄」とは?

姜嬪の獄は、仁祖の食事に毒を盛ったという嫌疑により、カン氏が賜死させられた事件です。

この事件では、カン氏本人だけでなく、年老いた母親と5人の男兄弟は全て処刑、すでに亡くなっていた父親は墓を暴かれ斬首されるという容赦のない過酷な処分を受けました。

側室・チョ氏(趙氏)の陰謀説

仁祖実録には、毒を盛ることが困難な状況であったにもかかわらず、王の疑念が強まったことが記されています。この記述から、側室・チョ氏や金自点の讒言による陰謀説が広く語られてきました。

由是, 兩宮隔絶, 御膳置毒, 勢所不能, 而上意如此, 人皆疑其由於趙氏之搆成也
<引用元:仁祖実録1646年1月3日抜粋>

<訳>姜嬪と他の宮女たちは隔絶され、毒を盛ることなど不可能な状況であったにもかかわらず、仁祖の疑念は深まり、人々は趙氏の讒言によってこのような事態(姜嬪への嫌疑)が引き起こされたのではないかと疑った。​

側室チョ氏について詳しくはこちら>>仁祖の側室チョ氏(貴人趙氏)は悪女?【史実が語る実像とは】

陰謀説だけでは説明できない点

昭顕世子の急死、鳳林大君の世子冊封、カン氏の処刑という一連の出来事を、側室の讒言だけで説明するのは困難です。これらの重大決定には、仁祖自身の強い意思があったと見るのが妥当と考えます。
※讒言(ざんげん):他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げる中傷や陰口のこと。

姜嬪の獄の史実に基づく考察

仁祖は清への降伏により、言葉に尽くせないほどの屈辱を経験しました。そのため、清で新しい文物を称賛する世子夫妻の言動は、王の不安や猜疑心を強め、結果として強い反感を招いた可能性があります。

側室チェ氏の讒言が仁祖の行動を後押ししたことは確かですが、根本的な背景には、清への降伏によって生じた仁祖自身の強い不安や猜疑心があったと考えられます。

カン氏の最後

仁祖は世子嬪を廃位して、実家で賜死することを命じました。
史実によると、義禁府の都事・呉以奎が準備した黒いカゴに載せられたカン氏が宣仁門から出発すると、道の両側には多くの人が立ち並び、嘆き悲しんだとされます。<仁祖実録24年3月15日の条(1647年)>

カン氏の名誉回復

粛宗は「私は姜嬪の獄について長いあいだ胸中に秘めた痛みを抱いてきた。」として、冤罪で廃位されたカン氏の名誉を回復しています。

命復昭顯世子嬪 姜氏位號。 上旣以姜嬪事, 議于大臣二品以上, 皆言其冤。<粛宗実録:粛宗44年4月8日 1718年>

<訳>昭顕世子嬪・姜氏の位号を回復するよう命じた。王はすでに姜嬪の事件について、二品以上の大臣たちと協議しており、皆これを冤罪であると述べた。

現在、名誉回復されたカン氏は西五陵内にある永懐園で静かに眠っています。

カン氏の生涯年表

名門に生まれ、世子嬪になったカン氏でしたが、その35年の生涯は波乱に満ちたものでした。

出来事
1611 姜碩期の次女として生まれる
1627 1月、後金の朝鮮侵攻(丁卯の乱)
9月29日、世子嬪に選ばれる
1636 3月、長男を出産
12月、後金(清)の朝鮮侵攻(丙子の乱)
1637 1月、後金(清)に降伏
世子とともに清の人質とされる
2男3女を出産する
1645 清から帰国
世子が亡くなる
1646 1月頃、仁祖に幽閉される
3月、処刑(賜死)される
1718 名誉が回復、愍懷嬪の称号を追贈される

まとめ

カン氏(愍懐嬪姜氏)は名門に生まれ、昭顕世子の正室として入宮し、多くの子をもうけましたが、世子の急死後、「姜嬪の獄」により毒殺の嫌疑をかけられ賜死されました。

この事件は讒言だけでなく、清への降伏で不安を深めた仁祖の心理が影響した可能性があります。後に粛宗の代で冤罪が認められ復位され、その生涯は王権と政局に翻弄された悲劇として今なお語り継がれています。

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました