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定順王后の逸話を史料で検証【東望峰伝説は本当か?】

定順王后は第6代王・端宗の王妃で、悲劇の王妃として知られています。彼女は毎日、東望峰に登り端宗の冥福を祈ったされています。しかし、この逸話は史実に基づくものなのでしょうか。

この記事では、史料と研究成果をもとに、逸話の真相を詳しく解説します。

逸話が生まれた史料的根拠

「定順王后が東望峰に登って端宗を偲んだ」という逸話の史料的根拠は、英祖実録(英祖47年9月6日条)に記されています。

この日、英祖は王世孫(のちの正祖)を伴って昌徳宮に詣で、そのついでに淨業院跡を訪れました。実録には次の記録があります。

而其時光廟憐定順王后孤孑無依, 欲賜第於京中,后願得東門外望東地居之, 命賜材木造成, 卽淨業院基址。
<英祖実録:英祖47年(1771年)9月6日条>

<現代語訳>孤独で頼る人がいない定順王后を哀れんだ王(おそらく成宗)が都に邸宅を与えようとしたが、王后は「東門の外で東(寧越)を望める場所に住みたい」と願い出た。そこで、材木を賜って建てられたのが淨業院の起こりとなった住まいである。

さらに、英祖は東望峰の三字を書き、浄業院の向かいの岩に刻ませたとされます。

親書東望峰三字, 命鐫於院之對案峰石上,峰卽定順王后登臨望寧越之處也。

<現代語訳>英祖はみずから東望峰』の三字を記し、淨業院の向かいにある峰(東望峰)の岩に刻ませた。この峰こそ、定順王后が登って流刑地・寧越にいる端宗の方向を望んだと伝えられる場所である。

この「英祖実録」の記録により、定順王后が端宗を偲んで東を望む場所を選び、そこに淨業院が築かれたことが確認できます。その後、この史実に後世の伝承や脚色が加わり、感動的な「東望峰伝説」として語り継がれるようになったのです。

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英祖が浄業院の場所を誤認した可能性

朝鮮王朝実録には、浄業院の位置は昌徳宮(チャンドックン)北西付近と記されますが、英祖が建立した浄業院碑は東望峰(トンマンボン)のふもと(現・清龍寺跡/崇仁洞)にあります。

この不一致に対して、順天大学タク・ヒョジョン教授が論文「朝鮮時代の淨業院の位置に関する見直し(2017年)」で、英祖が旧基碑を建立した場所は本来の浄業院ではなく、廃寺後に尼僧たちが避難していた臨時の分院跡だったと指摘しました。

つまり、英祖は浄業院の臨時の分院(避難地)跡を浄業院本院跡と考え、「淨業院基碑」を設置した可能性が高いのです。

浄業院の位置。本院と分院の位置を示す

<浄業院の位置>

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浄業院の歴史

浄業院の建設年代は不明ですが、1164年(毅宗18年)に毅宗が浄業院を行幸したという記録があり、それ以前から存在していたことになります。

浄業院は仏教政策や儒生の反対で廃止と復興を繰り返しました。最終的には1612年(宣祖40年)に廃止され、その後復興されることはありませんでした。

年表で見る浄業院の出来事

年代 出来事
1252年 江華島遷都時に朴暄の家を浄業院として使用
1270年以降 都が開京に戻ると、開京に再設置
1394年以降 漢陽に移設(昌徳宮付近)
1408年 恭愍王の后が逝去。昭悼君の妻・沈氏が新住持(寺の長)
1448年 世宗30年、仏教抑制政策により廃止
1457年 世祖3年、復興が決定
1459年 院舎が再建
1505年 燕山君11年、王の暴政で廃止
1550年 明宗5年、再再建
1612年 宣祖40年、廃止

浄業院の役割

浄業院は王が逝去すると行く宛のない側室が尼となり、王の冥福を祈りながら暮らした尼寺でした。

朝鮮建国後、李齊賢(イ・ジェヒョン)の娘であり恭愍王の妃・恵妃もこの寺に身を置きました。また、第一回王子の乱の後、世子方碩(パンサク)の姉である慶順公主も滞在しました。

まとめ

英祖実録には、定順王后が「東門外で東を望む地に住みたい」と願ったと記され、これが東望峰伝説の根拠とされています。

しかい、王后が暮らした浄業院は昌徳宮北西の都城内にあり、伝説の東望峰とは位置が異なります。

東望峰は英祖が王后に心打たれて碑を建てた地であり、伝説は後世の民間伝承として王后の貞節や悲しみを象徴的に描いたものと考えられます。

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