李芳遠の恐怖に怯える夫に譲位を勧めたのは定安王后でした。
定安王后とはどんな王妃だったのか?
家系図から詳しくご紹介します。
定安王后の家系図
定安王后は金閼智を始祖とする慶州金氏一族の出身です。
金閼智の子孫からは、新羅の第17代国王となった味鄒尼師今(味鄒王)が生まれています。
<定安王后の家系図>
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定安王后はどんな王妃だったのか?
在位期間も短かった定安王后に関する記録はほとんどありません。
唯一、李芳遠を恐れていた夫(定宗)に強く譲位を勧めたエピソードは有名です。
定安王后のプロフィール
性格は穏やかでやさしく、目上の人をよく慕ったと言われています。
生年:1355年1月9日
没年:1412年6月25日
在位:1398年9月5日-1400年11月13日
別称号:徳妃
諡号:温明荘懿定安王后
氏族:慶州金氏
父親:金天瑞
母親:潭陽李氏
埋葬:厚陵
夫:定宗
子女:なし
子供が出来なかった寂しい生涯
定宗と定安王后との間には子供はできませんでした。
しかし、定宗は多くの側室との間に多くの庶子をもけています。
なんと9人の側室との間に17男8女の子供を作っていたのです。
定安王后は在位期間も短く、譲位後は遊びに拭ける夫を横に、寂しい生涯を送ったと思われます。
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定安王后の家族
定安王后は3男4女の次女でした。
父親:金天瑞
母親:潭陽李氏
長男:金釋俊
次男:金需
三男:金三原
長女:金氏
次女:定安王后
三女:金氏 盧永國の妻
四女:金氏 尹有麟の妻
定安王后の生涯
定安王后は1355年に金天瑞(キム・チョンソ)の娘として生まれました。
後に、李成桂の次男である李芳果と結婚します。
1398年、第一次王子の乱が勃発して、李芳遠により王世子の李芳碩が殺害されます。
夫には野望はありませんでしたが、強制的に王世子となり定安王后は世子嬪となります。
1400年1月、第二次王子の乱が起き、夫の芳果が王位に就きました。
芳果は王位には興味はありませんでしたが、李芳遠の強要で第2代国王・定宗に即位しています。
定安王后も王妃に冊封されました。
しかし、二人にとって李芳遠はいつ殺されるか分からない恐怖の人でした。
定安王后は李芳遠の顔をまともに見られなかった夫の定宗に強く譲位を勧めました。
1400年11月に定宗が譲位、李芳遠が第3代王・太宗となります。
定安王后は朝鮮王朝初の王大妃となり、順徳王大妃と尊号が贈られています。
1412年、定安王后は57歳で生涯を閉じました。
まとめ
目立った記録がなく、夫の定宗に譲位を勧めたエピソードだけが有名な定安王后でした。
定安王后はビクビクと恐れるだけの定宗に、決断を促した意志の強い王妃だったと思われます。
その御蔭で定宗は晩年、狩り、宴会などで悠々自適の生活を送ったといいます。