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美室(ミシル)の家系図【絶世の美貌で王の上に君臨した女傑】

美室(ミシル)は絶世の美貌で王の上に君臨した女傑でした。

国を操った美室とはどんな女性だったのか。

家系図から調べてみました。

美室(ミシル)の家系図

美室の父親は第2代風月主の未珍夫、母親は思道王后の姉の妙道夫人です。

美室には多くの情夫がいましたが、正式な夫・世宗との間には二人の息子が生まれています。

<美室の家系図>

美室の父方の祖母・三葉宮主は第23代王・法興王と碧花夫人の娘でした。

また、母方の祖母・玉珍宮主は朴英失と結婚しましたが、すぐに法興王の寵愛を受けて側室となっています。

 

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美室(ミシル)はどんな女性だったのか?

美室(ミシル)はどんな男も惑わす絶世の美女だったといいます。

また、容姿だけでなく、聡明で頭が良く、知略に長けた女性でした。

 

美室(ミシル)のプロフィール

美室は「花郎世紀」にのみ登場する女性で、プライベートな情報はほとんどありません。

生年が547年と推定すると、享年66歳、当時としては長寿だったと思われます。

<プロフィール>
生年:547年
没年:612年
享年:66歳
父:未珍夫(第2代風月主)
母:妙道夫人
夫:世宗(第6代風月主)
弟:美生(第10代風月主)

 

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美室(ミシル)の家族

美室(ミシル)は正式な夫の世宗との間に二人の息子をもうけています。

<美室の家族>
夫:世宗(弩里夫。第6代風月主)
長男:夏宗(第11代風月主)
次男:玉宗

美室の驚くべきことは、絶世の美女と言われた美貌で多くの男達を誘惑したことです。

その相手は第24代国王・真興王からその息子の銅輪太子と第25代王・真智王、そして、なんと孫の第26代国王・真平王に及びました。

 

また、夫は第6代風月主でしたが、花郎の歴代風月主とも関係を持ちました。

第5代風月主・斯多含、第7代風月主・薛原と夫の前後の首領と関係をもつなど、美室の情事の相手は想像を絶するものがありました。

詳しくは>>善徳女王の実在したミシルは想像を絶する男性関係だった! をご覧ください。

 

美室(ミシル)の生涯

美室(ミシル)は「花郎世紀」にのみ登場する女性で、存在の真偽についていは未だ確かなことは分かっていません。

從って、ここでは「花郎世紀」の記述をもとに美室の生涯をご紹介します。

 

美室と斯多含の切ない恋

547年、美室は第2代風月主の父・未珍夫と母・妙道の間に生まれました。

美室は歴代王妃を排出した新羅の貴族出身でした。

 

当初、美室は只召太后の息子の世宗(真興王とは同母弟)と結婚しましたが、姑の只召太后に追い出されています。

宮廷を追い出された美室は第5代風月主の斯多含(サダハム)と出会い恋に落ちました。

562年、斯多含に出兵の命が下され、斯多含は美室を残し、戦場へと向かいます。

 

斯多含が戦場で戦っているときに、美室は宮廷に戻され、世宗の妃として仕えることを強制させられます。

戦場から戻った斯多含は現実を知り、あまりの残酷さに息絶えたと言われています。

 

権力者との情事で権力基盤を拡大

斯多含を失った美室は宮廷の権力者と次々と関係をもちました。

その関係は、第24代王の真興王からその息子の銅輪太子と第25代王の真智王、更に孫の第26代王の真平王にまで及びました。

 

また、夫は第6代風月主でしたが、花郎の歴代風月主とも情事を繰り返しました。

更に、美室は権力者との間に子供をもうけ、その子供が王族になったり、花郎の首領になることで、美室の権力基盤は強固になっていきました。

 

王の上に存在する女傑

真興王の妾だった美室は、真興王が病床に伏すと思道王后とともに国を意のままに動かしました。

例えば、真興王が亡くなると、思道王后と美室は真興王の息子の真智王を王位に就けました。

美室は真智王との間で、即位後に王妃に迎えるとの約束を取り付けていたのです。

しかし、真智王はこれを無視します。

 

約束を反古され美室は怒って、真智王を廃位にしてしまいました。

こうして、美室は王の上の王として君臨していたのです。

 

美室の最後

しかし、美室の天下も長くは続きませんでした。

自身の美貌で権力者を操り、意のままにしてきた美室にとって最大の敵は自身の老ではないでしょうか。

金庾信が花郎として頭角を表して始めた頃から、美室の勢力は衰えていきました。

そして、612年、美室は亡くなっています。

 

まとめ

善徳女王が即位した632年には、美室(ミシル)は既に亡くなっていました。

從って、ドラマ「善徳女王」のような善徳女王と美室が直接対決したことはありませんでした。

史実の美室はその美貌に物を言わせ驚くほど多くの権力者と情事を重ね、勢力基盤を拡大していきました。

 

しかし、最大の武器であった美貌の衰えと同時に、美室の勢力も衰退したと思われます。

美室の行跡が史料に残らなかったのは、色仕掛けで国政を動かした美室の行いを良しとしない意が強かったのかもしえません。

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