ドラマ「イ・サン」で正祖と敵対する貞純王后(チョンスンワンフ)ですが、史実では本当に悪女だったのか?
・貞純王后が悪女と呼ばれる理由
・貞純王后の家族
・悪女に変貌していった経緯など
貞純王后について家系図から徹底的に調べてみました。
貞純王后の家系図
貞純王后は朝鮮の氏族の一つであった慶州金氏の出身です。
慶州金氏の始祖は三国史記にも登場する金閼智で、朝鮮の有力氏族の一つでした。
<貞純王后の家系図>
貞純王后の兄・金亀柱
金亀柱(キム・ギジュ)は貞純王后の5歳年上の兄です。
ドラマ「イ・サン」では単細胞の乱暴者として登場していましたが、実際には1763年に24歳で科拳に合格しています。
しかし、20歳のときに妹の貞純王后が王妃になっているので、何かしらの口利きや不正があったとも思えます。
宮中に入った金亀柱は荘献世子の非行を英祖に告げ口するなど積極的に荘献世子の排除を行いました。
当時、王妃(貞純王后)の外戚である金氏一族と世子嬪(恵慶宮)の外戚である洪氏一族は激しく対立していました。
金氏の代表が兄の金亀柱であり、洪氏の代表が恵慶宮の父親である洪鳳漢(ホン・ボンハン)でした。
どちらも、外戚であることを利用して、相手を陥れて政局を掌握したいと考えていたのです。
しかし、金亀柱は1776年9月9日に黒山島(フクサンド)へ流刑になり、1786年に突然、病死してしまいました。
表向きは正祖の母・恵慶宮を侮辱した罪ということですが、実際は正祖の義父・洪鳳漢を陥れたことが原因のようです。
貞純王后の父・金漢耈
貞純王后の父は慶州金氏の出身の金漢耈(キムハング)です。
慶州金氏は名門の一族でしたが、当時の金漢耈は没落した両班で、借金をしてやっと娘を揀択に参加させたといいます。
貞純王后は期待に応えて、揀択の審査で英祖を感心させるほどの聡明さを見せ、見事、王妃に選ばれます。
そして、王妃となった貞純王后は一族が権力を取り戻すことに力を傾けるようになっていきます。
老論派は後に、正祖の父・荘献世子(チャンホンセジャ)の非行を英祖に密告して死に陥れたと言われています。
老論派の有力な一門である金漢耈が息子の金亀柱(キム・ギジュ)と共に関与していたことは間違いありません。
貞純王后も側室の子供である荘献世子が王位を継ぐことが面白くなく、強い嫉妬を感じていたと考えられます。
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貞純王后はどんな王妃だったのか?
貞純王后は、1757年に先の王妃の貞聖王后が亡くなると、2年後の1759年に15歳で王妃となりました。
このとき、英祖66歳で孫のような妻を迎えたことになります。
また、英祖の息子の荘献世子は26歳、恵慶宮26歳、正祖は8歳でした。
荘献世子にとって、義理の母親が10歳近くも若かったのです。
入宮する前の貞純王后については意外と情報がありません。
出生:1745年11月10日
死去:1805年1月12日
享年:61歳(日本では60歳)
父親:金漢耈
母親:原豊府夫人
兄:金亀柱
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貞純王后が悪女と言われる理由
貞純王后(チョンスンワンフ)が歴史上、最大の悪女と言われる理由。
それは、正祖の死後、自らを女君主と呼んで政治に介入し、最終的に朝鮮王朝を衰退へと導いたからです。
貞純王后は正祖が亡くなると、正祖の後を継いだ純祖が幼いことを理由に代理政治を行います。
まずは、正祖が賢明に育てた人材を次々と粛清してしまいました。
殺したいほど憎かった正祖の家臣が目障りだったのでしょう。
そして、正祖が苦労して行った政治改革をことごとく無に帰してしまいました。
正祖が25年かけた政治活動を全て戻してしまったのです。
悪妃は何人かいますが、世の中を衰退させた悪妃は貞純王后以外に見当たりません。
こうした暴政により、500年以上続いた朝鮮王朝は滅亡への縁へと進んでいくことになります。
徐々に悪女に落ちていく英祖時代
貞純王后が英祖に嫁いだときはまだ、15歳(日本では14歳)の少女でした。
おそらく、政治のことも派閥のこともよく分かっていなかったと思われます。
最初は、派閥の象徴的な存在だったのでしょう。
しかし、貞純王后が理解していた、いなかったに関わらず、一族の存亡を背負っていた事は間違いありません。
英祖の後継者・思悼世子は貞純王后の一族が敵対する少論派寄りでした。
本来、世継ぎを生んで一族を繁栄させるのが王妃の役目でしたが、子供ができない貞純王后ができることは思悼世子の排除でした。
側室の子供を何とか蹴落としたかったのでしょう。
父や兄から言われるままに英祖に荘献世子の非行を密告をしていたと思われます。
英祖はまだ、少女だった貞純王后を不憫に思い大変可愛がったと言われています。
そのため、王様の威により周囲の者も貞純王后には一目置いていました。
こうして、荘献世子を死に追いやる手助けをしてから、貞純王后は徐々に知恵と権力をつけて悪女へと落ちていくことになります。
荘献世子が米びつで亡くなったのが、1762年、貞純王后がまだ18歳のときです。
おとなしかった正祖時代
正祖が即位したのは、1776年、正祖25歳、貞純王后が32歳のときでした。
正祖は国王になると、すぐに自分の父親である荘献世子を陥れた老論派の粛清を始めました。
洪麟漢(ホン・イナン)、鄭厚謙(チョン・フギョム)が流刑の上、死罪になりました。
洪麟漢は正祖の母・恵慶宮の父である洪鳳漢(ホン・ボンハン)の弟です。
母・恵慶宮の叔父で、正祖の大叔父にあたります。
一方、鄭厚謙は正祖の父・荘献世子の妹・和緩翁主(ファワンオンジュ)の養子でした。
いずれも、正祖の親族でありながら、対立する老論派の片棒を担いでいたのです。
このように、正祖により一族や関係者が粛清されていく中、貞純王后はさすがにおとなしく生活していました。
自分自身の身の危険を感じていたと思われます。
正祖も貞純王后(大妃)まで、危害を加えることはできなかったようです。
極悪の女君主・貞純王后
貞純王后は正祖の生きている間は、おとなしく生活していました。
しかし、貞純王后は正祖による一族の粛清や兄の金亀柱が流刑された挙げ句に病死したことに大きな恨みを抱いていました。
金亀柱が流刑されたときは、断食してまで許しをお願いしたほどでした。
その恨みは正祖が亡くなってから爆発しました。
正祖の死後に即位した純祖はまだ11歳と幼かったために、貞純王后が垂簾聴政(スリョムチョンジョン)を行いました。
貞純王后が純祖に代わって代理で政治を行ったのです。
まず、正祖の時代に不遇だった自分の一族を重要な官職につけました。
そして、正祖に対して大きな恨みを持っていた貞純王后は正祖の家臣や少論派を次々と粛清していきました。
特に悲劇だったのが、カトリック信者の弾圧でした。
この弾圧は辛酉迫害(シンユバケ)、または辛酉教獄と呼ばれています。
表向きの理由は、カトリックが儒教の教えを否定しているとのことですが、実は南人派と少論派の粛清でした。
貞純王后と敵対する南人派と少論派にカトリック信者が多かったためです。
1801年に行われた弾圧によりカトリック教徒300人以上が殺害されたといいます。
正祖が育てた多くの人材がこの弾圧により失いました。
正祖の側近・丁若鏞(チョン・ヤギョン)や異母兄弟の恩彦君(ウノングン)らが処刑されました。
そして、貞純王后は正祖が進めてきた政治改革をことごとく潰してしまいました。
貞純王后が歴史に残る悪妃と呼ばれるのは、女性でありながら悪政を行い朝鮮王朝の衰退へと導いたからに他ならないと考えます
貞純王后の最後
貞純王后が中心の政治も長くは続きませんでした。
1802年に金祖淳(キム・ジョス)の娘を純祖の王妃に迎えて、金祖淳に官職を与えると徐々に金祖淳が朝廷で力をつけていきます。
金祖淳の娘を純祖の妃にすることは正祖が生きているときに決められたことでした。
このときの王妃が純元王后(スンウォンワンフ)です。
そして、1803年に金祖淳が貞純王后の垂簾聴政を辞めさせることに成功すると、朝廷に対する貞純王后の影響力は急激に弱まっていきました。
貞純王后の死因は?
1805年に貞純王后は昌徳宮景福殿にて亡くなりましたが、死因は不明です。
享年61歳でした。
貞純王后の死後、貞純王后の一族と老論派の勢力は全て粛清されてしまいました。
貞純王后のお墓
貞純王后のお墓は多くの王が眠る東九陵(トングルン)にある元陵(ウォンルン)です。
<東九陵にある元陵>
元陵は一つの丘に王と王妃の陵がある双陵形式で、そこに貞純王后は英祖とともに眠っています。
英祖は最初の王妃であった貞聖王后と一緒の墓に入るつもりでした。
しかし、正祖が貞純王后に気を使って英祖を元陵に埋葬してしまいました。
そして、亡くなった貞純王后を英祖の隣に埋葬したのです。
貞聖王后のお墓である西五陵の弘陵は今も寂しく、隣が空いた状態のままです。
貞純王后が登場するドラマ
貞純王后が生きた時代は取り上げる話題も多いため、貞純王后も多くのドラマに登場しています。
王道(1991年、キム・ジャオク)
大王の道(1998年、イ・イネ)
牧民心書 〜実学者チョン・ヤギョンの生涯〜(2000年、キム・ヨンナン)
洪国栄 ホン・グギョン(2001年、ヨム・ジユン)
漢城別曲(2007年、チョン・エリ)
イ・サン(2007年、キム・ヨジン)
正祖暗殺ミステリー8日(2007年、キム・ヒジョン)
風の絵師(2008年、イム・ジウン)
ペク・ドンス(2011年、クム・ダンビ)
秘密の扉(2014年、ハ・スンリ)
赤い袖先(2021年、チャン・ヒジン)
( )内は演じた俳優です。
日本ではやはり、イ・サンでキム・ヨジンが演じた貞純王后が有名です。
まとめ
貞純王后が英祖の王妃になったのは15歳のときでした。
貞純王后が最初から悪女であった訳ではありませんでした。
一族の繁栄と派閥闘争に勝ち抜くために利用されているうちに、徐々に悪女へと変貌していった思われます。
特に、一族の繁栄後の正祖による粛清を目の辺りにして、その恨みの蓄積が朝鮮王朝随一の悪妃と呼ばれる残酷な行いや政治の衰退を招いたと言えます。
貞純王后も王妃にならなければ、平凡な女性の一生を送ったでしょう。
一族に命運を背負ったことが、貞純王后の悲劇だったのかもしれません。