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昭顕世子(ソヒョンセジャ)の家系図【謎の不可解な死因】

王位継承が確実視されていた昭顕世子はなぜ、不可解な死を遂げたのか?

本記事では、昭顕世子の家系図とともに、彼と家族に起きた数奇な運命をわかりやすく解説します。

昭顕世子の家系図

昭顕世子の家系図

本図は当サイトが独自に作成した家系図です

<昭顕世子の家系図>

昭顕世子は、第16代王・仁祖の長男として生まれました。当然、彼は父の跡を継ぐと思われましたが、清からの帰国後わずか2か月で急死します。

王位は弟の鳳林大君(のちの孝宗)が継ぎましたが、昭顕世子の死には不自然な点が多く、毒殺説が今も語られています。

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不可解な死因|仁祖実録が示す毒殺の痕跡

1645年、昭顕世子は帰国後、たったの2月後に急死、仁祖実録には、死の直後の異常な様子が記録されています。

世子東還未幾, 得疾數日而薨, 擧體盡黑, 七竅皆出鮮血, 以玄幎覆其半面, 傍人不能辨, 其色有類中毒之人<引用元:仁祖実録:1645年6月27日より抜粋>

世子が本国に帰ってまもなく、急な病を発症して数日で亡くなった。全身が黒ずみ、体にある七つの穴から全て血がでていた。暗いところで、顔の半分を布で覆われていたので、そばにいても確証することは不可能であったが、その色は毒殺された人の色であった。

また、世子の最期を診察した医師・李馨益(イ・ヒョンイク)は、昭顕世子の死の直前、昭容趙氏の実家に出入りしていたという不審な記録も残っています。

誰が見ても不審な死にも関わらず、死因の究明を仁祖が許可しなかったため、真相は闇に葬られました。

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昭顕世子はどんな人物だったのか?

清に人質として送られた昭顕世子は、状況に適応し、清の文化や西洋文明を柔軟に受け入れる柔軟性のある人物でした。

最後まで清に対して反感を持っていた弟の鳳林大君とは対照的でした。

また、清と朝鮮の和平にも尽力し、周囲からも高く評価されていたと言われています。

しかし、そんな有能で人から好かれる性格が、父・仁祖にとってはおもしろくなく、脅威だったのかもしれません。

昭顕世子プロフィール

生年:1612年1月4日
没年:1645年4月26日
享年:34歳
本名:李(イ・ワン) 李汪(イ・ワン)
称号:昭顕世子(ソヒョンセジャ)
父:仁祖
母:仁烈王后
弟:鳳林大君(第17代王・孝宗)
  麟坪大君(李㴭)
  龍城大君(李滾)
正室:嬪宮姜氏(愍懐嬪姜氏)

昭顕世子の家族と悲劇

昭顕世子は正室・嬪宮姜氏との間に3男5女の子供をもうけました。清に人質になってからも5人の子供を得ています。

その家族も昭顕世子の死後、悲惨な最後を迎えることになります。以下はその家族構成と悲劇的な運命です。

<昭顕世子の家族>

関係 名前 生年-没年 運命
正室 嬪宮姜氏 1611-1646 平民に降格後に賜死
長女 郡主 1629-1631 3歳で早世
次女 郡主 1631-1640 10歳で早世
長男 慶善君(石鉄) 1636-1648 済州島に流刑後死去
三女 慶淑郡主 1637-1655 具鳳章の妻
次男 慶完君(石磷) 1640-1648 済州島に流刑後死去
四女 慶寧郡主 1642-1682 朴泰定の妻
五女 慶順郡主 1643-1697 辺光輔の妻
三男 慶安君(石堅) 1644-1665 唯一生き残る

無念の死を遂げた正室・嬪宮姜氏

清から帰国して夫の昭顕世子が亡くなると、嬪宮姜氏は仁祖暗殺未遂(アワビに毒を入れた)の濡れ衣を着せられます。

昭容趙氏と金自點(キム・ジャジョム)による策略でした。嬪宮姜氏は平民に降格、その後、毒薬による死罪を命じられます。母親と4人の兄弟も全員処刑され、一族は壊滅状態に追い込まれました。

無念の死を遂げた嬪宮姜氏でしたが、1718年、粛宗が嬪宮姜氏の無罪を認めて名誉を回復、「愍懐嬪」の称号が追贈しています。

嬪宮姜氏の悲劇についてはこちら>>カン氏の家系図【昭顕世子嬪・愍懐嬪姜氏の波乱の生涯とは】

唯一生き残った慶安君とその子孫

男子の内、三男の慶安君(石堅)のみが生き残り、結婚して2人の息子を残しています。

慶安君(石堅)は22歳の若さで亡くなりましたが、長男・臨昌君(李焜)の子孫が、1910年の大韓帝国滅亡まで生存していたことが記録されています。

石堅について詳しくはこちら>>推奴(チュノ)の可愛い石堅は実在した密豊君の祖父

清での人質生活|功績と歪められた報告

昭顕世子は、清での人質生活中に西洋の文化やカトリック、先進的な科学を学び、同時に清の高官たちとも親しく交わりました。

特に、ドイツ人神父アダム・シャールや将軍ヨンゴルテとは深い交流を持ち、朝鮮の発展を願って積極的に活動しています。

ところが、こうした功績にもかかわらず、本国での彼の評価は芳しくありませんでした。

昭顕世子は貿易によって資金を集め、奴婢を解放して農業を興し、民を救おうと尽力しました。しかし、その行動は「私兵を集め、謀反を企んでいる」として歪められて報告されていたのです。

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昭顕世子の生涯

昭顕世子の生涯は父親の仁祖が王になったことで激変してしまいました。昭顕世子の周辺で起こった出来事は次のとおりです。

年齢 出来事
1623 12 父親の仁祖が王になる
1625 14 世子に冊封される
1627 16 丁卯胡乱が勃発、後金が朝鮮に侵攻する
江華島で合意、一旦戦いは収束する
1627 16 姜氏と結婚
1636 25 清の臣従要求を無視、丙子胡乱が起こる
1636 25 清のホンタイジが10万の兵で侵攻
1637 26 1月30日に朝鮮は降伏(三跪九叩頭の礼)
昭顕世子は嬪宮姜氏とともに清の人質となる
朝鮮と清の仲介役を務める(清国内の情報収集、清の侵攻を抑える)
1643 32 清国内の朝鮮の奴婢を使って清国内での経済活動を始める
朝鮮国内に発覚すると、仁祖との関係が急速に悪化
1644 33 明が滅びる
1644 33 清軍と共に明の都・北京に入り、イエズス会宣教師と交流
1645 34 2月、人質を解かれて帰国する
4月、謎の死因で急死
6月、弟の鳳林大君が世子に任命される
1646 妻の嬪宮姜氏が死罪、3人の息子は流刑になる

人質として清に送られたのは、昭顕世子と嬪宮姜氏以外に、次男の鳳林大君と彼の妻、三男の麟坪大君がいました。

麟坪大君は1年後に解放されましたが、昭顕世子と鳳林大君は8年間、清の人質となりました。

二人が解放されたのは、明が滅亡して、朝鮮が明に味方する可能性がなくなったからです。

昭顕世子が登場するドラマ

昭顕世子は悲劇の世子として多くのドラマで扱われています。

<登場する代表的なドラマ>
イルジメ (2008年、キム・ジワン)
推奴(2010年、カン・ソンミン)
馬医(2012年、チョン・ギョウン)
華政(2015年、ペク・ソンヒョン)
恋人(2023年、キム・ムジュン)
( )内の名前は昭顕世子を演じた俳優

まとめ

昭顕世子の家系図をたどると、彼の死が王朝内の権力争いや陰謀と無関係ではなかったことが見えてきます。

彼は、西洋の知識を取り入れ、清との友好関係を築くなど、王位継承者として将来を期待されていましたが、不自然な死を遂げ、妻や子どもまでもが悲劇的な最期を迎えています。

このような経緯から、昭顕世子は朝鮮王朝の闇を象徴する存在として、現代においても多くの関心を集める人物です。

もし彼が父・仁祖の後を継いで王となっていたなら、朝鮮の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

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