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昭顕世子(ソヒョンセジャ)の家系図【不可解な死因の悲劇の世子】

父親の仁祖から嫌われ、悲劇的な最後を迎えた昭顕世子とはどんな人物だったのか。

昭顕世子の家系図から不可解な死因まで詳しく調べてみました。

 

昭顕世子の家系図

昭顕世子(ソヒョンセジャ)は1623年に仁祖反正で王位についた仁祖の長男で世子でした。

<昭顕世子の家系図>

本来であれば、昭顕世子が王位を継ぐはずでした。

しかし、清からの帰国後に亡くなり、弟の孝宗(鳳林大君)が王位を継いでいます。

 

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昭顕世子の不可解な死因

昭顕世子は帰国後、たったの2月後に急死しています。

しかも、仁祖実録に記録されている昭顕世子の死後の姿はまさに毒殺を物語っていました。

世子東還未幾, 得疾數日而薨, 擧體盡黑, 七竅皆出鮮血, 以玄幎覆其半面, 傍人不能辨, 其色有類中毒之人<引用元:仁祖実録:1645年6月27日より抜粋>

世子が本国に帰ってまもなく、急な病を発症して数日で亡くなった。全身が黒ずみ、体にある七つの穴から全て血がでていた。暗いところで、顔の半分を布で覆われていたので、そばにいても確証することは不可能であったが、その色は毒殺された人の色であった。

更に、昭顕世子が亡くなる3日前に診察した李馨益(イ・ヒョンイク)が貴人趙氏の実家に出入りしたとの記録もあったようです。

しかし、死因の究明を仁祖が許可しなかったため、真実は永久の謎となりました。

 

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昭顕世子はどんな人物だったのか?

昭顕世子は人質になっても落ち込んだり、人を恨むことなく、状況に対応して生きていくことができる人でした。

しかし、その活動的で人から好かれる性格が、国王にとっては自分の座を危うくするものに感じたのです。

昭顕世子プロフィール

生年:1612年1月4日
没年:1645年4月26日
享年:34歳
本名:李(イ・ワン) 李汪(イ・ワン)
称号:昭顕世子(ソヒョンセジャ)
父:仁祖
母:仁烈王后
弟:鳳林大君(第17代王・孝宗)
  麟坪大君(李㴭)
  龍城大君(李滾)
正室:嬪宮姜氏(愍懐嬪姜氏)

 

素直で柔軟な性格

清に人質になってからも、昭顕世子は清と朝鮮の仲介役となり、清が朝鮮に侵攻しないよう務めました。

清の文化や制度を学び、西洋の文明さえも積極的に取り込もうとする柔軟性があったといいます。

最後まで清に対して反感を持っていた弟の鳳林大君とは対照的でした。

 

昭顕世子の家族

昭顕世子は嬪宮姜氏との間に3男5女の子供をもうけました。

清に人質になってからも5人の子供を生んでいます。

<昭顕世子の家族>

関係 名前 生年-没年 備考
正室 嬪宮姜氏 1611-1646 毒薬で死罪
長女 郡主 1629-1631 3歳で早世
次女 郡主 1631-1640 10歳で早世
長男 慶善君(石鉄) 1636-1648 流刑地で逝去
三女 慶淑郡主 1637-1655 具鳳章の嫁
次男 慶完君 (石磷) 1640-1648 流刑地で逝去
四女 慶寧郡主 1642-1682 朴泰定の嫁
五女 慶順郡主 1643-1697 辺光輔の嫁
三男 慶安君(石堅) 1644-1665

 

哀れな家族の結末

昭顕世子の死後、昭顕世子の家族は悲惨な最後を迎えることになります。

仁祖毒殺の濡れ衣を着せられた嬪宮姜氏は平民に降格の上、毒薬による死罪となりました。

 

また、3人の息子は済州島に流刑となり、長男と次男は流刑地で亡くなりました。

殺害されたとも言われています。

 

三男の慶安君(石堅)のみが生き残り、結婚して2人の息子を残しています。

慶安君(石堅)は22歳の若さで亡くなりましたが、長男・臨昌君(李焜)の子孫が、1910年の大韓帝国滅亡まで生存していたことが記録されています。

 

無念の死を遂げた正室・嬪宮姜氏

嬪宮姜氏は右議政の姜碩期(カン・ソッキ)の娘として生まれました。

1627年に16歳で昭顕世子と結婚しています。

 

清から帰国して夫の昭顕世子が亡くなると、嬪宮姜氏の待遇は悲劇的でした。

仁祖が食べるアワビに毒を入れたと濡れ衣を着せられたのです。

昭容趙氏と金自點(キム・ジャジョム)による策略でした。

 

嬪宮姜氏は平民に降格、毒薬による死罪とされてしまいます。

母親と4人の兄弟も全員処刑されました。

 

無念の死を遂げた嬪宮姜氏でしたが、1718年にやっと、粛宗が嬪宮姜氏の無罪を認めて名誉を回復します。

72年後のことでした。

このときに、愍懐の称号を与え愍懐嬪姜氏と称されています。

 

清での昭顕世子の生活

昭顕世子は清での人質生活中に西洋の思想や優れた文化を学び、西洋人とも積極的に交わっていきました。

特に、ドイツ人の神父アダム・シャールからは、カトリック教や西洋の文化、優れた科学を学びました。

先進国と朝鮮の差は歴然としていました。

 

また、清の高官とも親密な友好関係を築きました。

清の将軍ヨンゴルテ(イングルダイ)とは深い交流を結び、昭顕世子が亡くなった知らせに、ヨンゴルテは昭顕世子の息子を養子にしたいと考えたほどでした。

「ヨンゴルテ」はイングルダイの韓国語読みです。

このエピソードはドラマ「推奴(チュノ)」で使われています。

 

昭顕世子は貿易活動で資金を集め、清に捕らえられた奴婢を解放しました。

そして、奴婢を使って農耕を行い、得た利益で人々を救っていくことを考えました。

こうした朝鮮本国のため思った活動も、「私兵を集め、謀反を企んでいる」と歪められて報告されました。

 

世子に対する仁祖の怒りと恐れ

帰国して清や西洋の文明の素晴らしさについて語る昭顕世子に対して仁祖は激怒したといいます。

仁祖にとって清は屈辱的な恥をかかされた敵国でした。

 

また、昭顕世子は人質になってから朝鮮と清の仲介役を務めたり、朝鮮の奴婢を使った農耕を行うなど朝鮮、清の両国に友好な経済活動を推進していました。

 

しかし、このことが仁祖の側近・金自點(キム・ジャジョム)や側室の貴人趙氏(ペクインチョシ)によって歪めて報告されていました。

清に優遇され、王様のように振る舞っている
朝鮮の奴婢を使った商売で財産を蓄えている
清の高官と友好関係を構築している

などなどです。

 

こうした事前の報告に怒りと王座を狙われる恐れを感じたていた仁祖は、昭顕世子が清や西洋の文明の素晴らしさを語ることに怒りを隠せなかったのです。

 

昭顕世子の生涯

昭顕世子の生涯は父親の仁祖が王になったことで激変してしまいました。

人質にされた挙げ句、帰国後には毒殺の疑いがある死因で亡くなったのです。

 

昭顕世子の生涯と出来事

昭顕世子の周辺で起こった出来事を一覧に整理しました。

年齢 出来事
1623 12 父親の仁祖が王になる
1625 14 世子に冊封される
1627 16 丁卯胡乱が勃発、後金が朝鮮に侵攻する
江華島で合意、一旦戦いは収束する
1627 16 姜氏と結婚
1636 25 清の臣従要求を無視、丙子胡乱が起こる
1636 25 清のホンタイジが10万の兵で侵攻
1637 26 1月30日に朝鮮は降伏(三跪九叩頭の礼)
昭顕世子は嬪宮姜氏とともに清の人質となる
朝鮮と清の仲介役を務める(清国内の情報収集、清の侵攻を抑える)
1643 32 清国内の朝鮮の奴婢を使って清国内での経済活動を始める
朝鮮国内に発覚すると、仁祖との関係が急速に悪化
1644 33 明が滅びる
1644 33 清軍と共に明の都・北京に入り、イエズス会宣教師と交流
1645 34 2月、人質を解かれて帰国する
4月、謎の死因で急死
6月、弟の鳳林大君が世子に任命される
1646 妻の嬪宮姜氏が死罪、3人の息子は流刑になる

人質として清に送られたのは、昭顕世子と嬪宮姜氏以外に、次男の鳳林大君と鳳林大君の妻、三男の麟坪大君がいました。

麟坪大君は1年後に解放されましたが、昭顕世子と鳳林大君は8年間、清の人質となりました。

二人が解放されたのは、明が滅亡して、朝鮮が明に味方する可能性がなくなったからです。

 

昭顕世子が登場するドラマ

昭顕世子は悲劇の世子として多くのドラマで扱われています。

<登場するドラマ>
イルジメ 一枝梅(2008年、キム・ジワン)
必殺! 最強チル(2008年、イム・ホ)
推奴(2010年、カン・ソンミン)
馬医(2012年、チョン・ギョウン)
花たちの戦い -宮廷残酷史-(2013年、チョン・ソンウン)
三銃士(2014年、イ・ジヌク)
華政(2015年、ペク・ソンヒョン)
( )内の名前は昭顕世子を演じた俳優

 

まとめ

昭顕世子は清に人質になってからも、本国朝鮮のことを考え、必死に努力したにも関わらず、父・仁祖には歪んで報告されてしまいます。

清を天敵と考える仁祖にとって、昭顕世子の行動は理解し難いものだったのは事実です。

 

帰国後の早すぎる死と帰国時の仁祖の対応が、昭顕世子の毒殺説を生んだと言えますが、今となっては、真相は闇の中です。

もし、昭顕世子が仁祖の王位を継いでいたら、将来の朝鮮は大きく変わっていたかもしれません。

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