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神貞王后の家系図【安東金氏対抗で選ばれた世子嬪の生涯】

安東金氏に対抗するために選ばれた世子嬪の神貞王后です。

どんな生涯を送ったのか。

神貞王后の家系図から詳しくご紹介します。

 

神貞王后の家系図

神貞王后は高麗の建国の功臣・趙孟を始祖とする名門・豊壌趙氏一族の出身です。

<神貞王后の家系図>

趙萬永の祖母は豊山洪氏一族の出身で、正祖(イ・サン)の母・恵慶宮の叔母にあたります。

 

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神貞王后はどんな王妃だったのか?

神貞王后は、李昰応(興宣大院君)と結託して、李昰応の次男を高宗として即位させ、安東金氏の勢道政治を終わらせました。

晩年の神貞王后は興宣大院君とやり合うなど謀略に長けた人物だったと思われます。

 

神貞王后のプロフィール

神貞王后
生年:1808年12月6日
没年:1890年4月17日
父親:趙萬永
母親:恩津宋氏
氏族:豊壌趙氏
夫:孝明世子
子女:憲宗

 

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神貞王后の家族

夫の孝明世子が22歳の若さで亡くなったため、子供は男の子一人(後の憲宗)でした。

関係 名前 生年-没年 備考
趙萬永 1776-1846 豊恩府院君 忠敬公
徳安府夫人 1776-1834 恩津宋氏
孝明世子 1809-1830 22歳で逝去
本人 神貞王后 1808-1890 享年83歳
長男 憲宗 1827-1849 第24代国王

 

神貞王后の兄弟姉妹

関係 名前 生年-没年 備考
長男 趙秉龜 1801-1845
次男 趙秉夔 1821-1858
長女 神貞王后 1808-1890
次女 貞夫人趙氏 1812-1871 李寅卨の妻
三女 貞夫人趙氏 不詳 俞致善の妻
四女 趙氏 不詳 金奭鉉の妻

 

夫の孝明世子

孝明世子は19歳の時に、純宗から代理聴政により政治を任されました。

正義感に燃える孝明世子は純宗の期待に応え、安東金氏を排除していきました。

 

しかし、孝明世子は22歳の若さで亡くなってしまいます。

孝明世子の死で、改革は頓挫、再び、安東金氏の勢力が盛り返すことになります。

 

神貞王后の父・趙萬永

豊壌趙氏の中心人物だった趙萬永は、娘が世子嬪になると豊壌趙氏の勢力拡大に貢献します。

趙萬永は孝明世子と協力して一族を朝廷の要職に採用、安東金氏を排除していきました。

 

しかし、1830年に孝明世子が亡くなり、1846年に趙萬永が亡くなると、権力は再び、安東金氏の手に渡りました。

以降、安東金氏による勢道政治が高宗が即位するまで続きます。

 

神貞王后の生涯

神貞王后は純宗が安東金氏の勢力を抑えるために、豊壌趙氏から選ばれた世子嬪でした。

 

結婚、そして子供が生まれる

神貞王后は1808年に趙万永の娘として生まれました。

1819年10月、12歳で11歳の孝明世子と結婚、世子嬪となりました。

1827年7月に、烉(ファン)後の憲宗が生まれます。

 

夫・孝明世子の逝去

純祖は38歳になると、19歳の孝明世子に代理聴政を任せました。

孝明世子は期待通り、義父の趙萬永と協力して安東金氏を排除していきました。

 

しかし、1830年、夫の孝明世子が突然亡くなります。

孝明世子の死によって改革は頓挫、再び、安東金氏が勢力を盛り返していきました。

 

息子・憲宗の即位

1834年、純祖が亡くなり、息子が憲宗として即位しました。

憲宗はまだ、8歳と幼く、祖母の純元王后が垂簾聴政を行います。

 

趙寅永(趙萬永の弟)が領議政になりますが、安東金氏の勢いを止めることはできませんでした。

1837年、憲宗は安東金氏の金祖根の娘(孝顕王后)と結婚させられました。

 

憲宗が亡くなる

1841年、憲宗が親政を始めましたが、政権は安東金氏の手中にありました。

1846年、神貞王后の父・趙萬永が亡くなると、安東金氏の勢力が完全に盛り返します。

1849年6月6日、憲宗が22歳で突然亡くなります。

 

哲宗の即位

憲宗が亡くなると、純元王后は豊壌趙氏が跡継ぎを立てる前に動きました。

6月9日、純元王后は配流中の元範を養子とし、第25代王・哲宗として即位させたのです。

 

純元王后は大王大妃となり、再び、垂簾聴政を始めました。

1852年、哲宗が親政を開始しますが、安東金氏が政権を完全に掌握しました。

 

神貞王后が大王大妃

1857年、純元王后が亡くなると、神貞王后が代わって大王大妃となりました。

1863年、哲宗が亡くなると神貞王后は李昰応(興宣大院君)と結託して、李昰応の次男である李命福を高宗として即位させました。

 

高宗の即位により、安東金氏の勢道政治は終局を迎えることになります。

神貞王后は大王大妃として影響力を残しましたが、高宗の妃を豊壌趙氏から出そうとして失敗、今度は興宣大院君と驪興閔氏一族の争いに巻き込まれました。

1890年4月17日、神貞王后は景福宮興福殿で亡くなっています。

享年83歳でした。

 

まとめ

純宗により、安東金氏の勢力に対抗するために豊壌趙氏から世子嬪に選ばれた神貞王后でした。

一時は、豊壌趙氏の勢力が優勢になりますが、夫の孝明世子が若くして亡くなり、安東金氏の勢道政治が続くことになりました。

最後は大王大妃として興宣大院君と結託して高宗を即位させ、安東金氏の勢道政治を終局に向かわせました。

しかし、豊壌趙氏一族の勢力を回復することはできず、今度は興宣大院君と驪興閔氏一族の争いに巻き込まれることになります。

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