神貞王后は、安東金氏に対抗するために選ばれた世子嬪でした。豊壌趙氏という有力家門の出身で、のちに大王大妃として政治にも大きな影響を与えます。
この記事では、神貞王后の家系図をもとに、出自や家族構成、そして生涯を分かりやすく解説します。
神貞王后の家系図
神貞王后は、高麗の建国功臣・趙孟を始祖とする名門・豊壌趙氏の出身です。豊壌趙氏は朝鮮後期に勢力を伸ばし、安東金氏と対抗する政治勢力として台頭しました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<神貞王后の家系図>
父・趙萬永の祖母は豊山洪氏の出身で、正祖の母・恵慶宮の叔母にあたるなど、王室とつながりを持つ家系でした。
父母と兄弟姉妹
神貞王后が世子嬪になると、父・趙萬永を中心とした豊壌趙氏は朝廷での勢力を拡大していきました。しかし、1846年に趙萬永が亡くなると、権力は再び安東金氏の手に渡ります。
<父母と兄弟姉妹>
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 趙萬永 | 1776-1846 | 豊恩府院君 忠敬公 |
| 母 | 徳安府夫人 | 1776-1834 | 恩津宋氏 |
| 長男 | 趙秉龜 | 1801-1845 | |
| 次男 | 趙秉夔 | 1821-1858 | |
| 長女 | 神貞王后 | 1808-1890 | |
| 次女 | 貞夫人趙氏 | 1812-1871 | 李寅卨の妻 |
| 三女 | 貞夫人趙氏 | 不詳 | 俞致善の妻 |
| 四女 | 趙氏 | 不詳 | 金奭鉉の妻 |
神貞王后はどんな王妃だったのか?
神貞王后は純祖の時代に孝明世子の世子嬪として迎えられ、後に大王大妃として政治に深く関わった人物です。
1863年、李昰応(興宣大院君)と結び、その次男・李命福を高宗として即位させ、安東金氏の勢道政治を終わらせる契機を作りました。
神貞王后のプロフィール
没年:1890年4月17日(享年83歳)
氏族:豊壌趙氏
夫:孝明世子(1809-1830)
長男:憲宗(1827-1849)第24代国王
陵墓:綏陵(東九陵内)
夫の孝明世子
孝明世子は19歳で純宗の命により代理聴政を担い、政治を主導しました。正義感の強い世子は期待に応えて安東金氏の排除を進めますが、22歳の若さで急逝します。その死により改革は頓挫し、再び安東金氏が勢力を盛り返すことになりました。
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神貞王后は豊壌趙氏の出身で、世子・孝明世子の妃として迎えられ、後に、大王大妃として政局に大きな影響を与えます。
結婚、そして子供の誕生
神貞王后は1808年、趙萬永の娘として生まれました。1819年、12歳で11歳の孝明世子と結婚し世子嬪となります。1827年には後の憲宗(烉)が誕生しました。
夫・孝明世子の逝去
孝明世子は代理聴政を通じて政治改革を進めていましたが、1830年に19歳で急死します。この死により改革は頓挫し、再び安東金氏が政権の中心となっていきます。
息子・憲宗の即位
1834年、純祖の死去により息子が憲宗として即位しました。しかし、憲宗は8歳と幼少であったため、祖母・純元王后が垂簾聴政を行い、政権は安東金氏が掌握しました。1837年、憲宗は安東金氏の金祖根の娘(孝顕王后)と結婚しています。
憲宗の逝去と哲宗の即位
1841年、憲宗は親政を開始しますが、実権は依然として安東金氏にありました。
1846年に父・趙萬永が死去し、1849年には憲宗が22歳で急死します。これを受けて純元王后は、配流されていた哲宗を即位させ、安東金氏の勢道政治をさらに強固なものとしました。
大王大妃として政治に関与
1857年、純元王后の死去により神貞王后が大王大妃となりました。
1863年、哲宗が死去すると、神貞王后は興宣大院君(李昰応)と協力し、その次男・李命福を高宗として即位させました。これにより、長く続いた安東金氏の勢道政治は終焉へと向かいます。
神貞王后の最期
大王大妃として影響力を持った神貞王后でしたが、豊壌趙氏の勢力を完全に回復させるには至りませんでした。
1890年4月17日、景福宮興福殿で死去。享年83歳でした。
未時。 大王大妃昇遐。
<高宗実録:高宗27年4月17日の条>
まとめ
神貞王后は豊壌趙氏の出身で、安東金氏の勢力に対抗するために世子嬪に選ばれました。
夫の死によって一時は勢力を失いますが、最終的には大王大妃として高宗を即位させ、安東金氏の勢道政治を終局に向かわせました。
しかし、豊壌趙氏の勢力を回復させることはできず、興宣大院君と驪興閔氏の争いに巻き込まれることになりました。神貞王后の生涯は、朝鮮後期の勢道政治の変遷と深く結びついています。