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哲宗の家系図で知る【驚き!お飾りの国王はお百姓だった】

哲宗とはどんな王だったのか?

流刑地で畑を耕していたお百姓がなぜ王になったのか?

その背景、家族、そして一族の悲劇を分かりやすく解説します。

哲宗の家系図|王位から遠い家系

哲宗(チョルジョン)は家系図から分かるように、本来、王位から大きく外れた立場にありました。

下図が示すように、彼の祖父は第22代国王・正祖の異母弟にあたる恩彦君です。

哲宗の家系図

<哲宗の家系図>

恩彦君は思悼世子の息子(米びつで餓死させられた世子)の息子で、政治的な陰謀に巻き込まれて流刑になっています。

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なぜ哲宗が王に選ばれたのか?

哲宗が王に大抜擢された背景には、当時、朝廷を牛耳っていた安東金氏の存在がありました。

安東金氏が政権を掌握

第23代王・純祖の死後、幼い憲宗が即位すると、純元王后(純祖の妃)が7年間垂簾聴政を行いました。

その間に彼女の父・金祖淳が権力を拡大、哲宗が王に選ばれたときは、王権は弱体化、安東金氏が政権を掌握しているときでした。

詳しくは>>安東金氏の家系図から分かる【3人の王妃による黄金時代の構築】

王位をめぐる駆け引き

憲宗が跡継ぎなく若くして亡くなると、純元王后は慌てて次の王となる王族を探しました。

そして、目をつけたのが、江華島で百姓をしていた李昪(イ・ビョン)=哲宗でした。

早速、純元王后は王族の戸籍を剥奪されていた哲宗を養子として、強引に王として即位させます。

彼女は安東金氏の権力を維持するため、豊壌趙氏一族が王位を立てる前に、王を決める必要があったのです。

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江華島から宮廷へ|哲宗迎え入れの逸話

史実によると、哲宗を迎えるため、宮廷からは大規模な行列が江華島に派遣されました。

王になるとは想像もしなかった哲宗は、自分を殺すために迎えがきたと思い逃げ出そうとしたそうです。

迎えに来た大行列の様子が屏風に残されています。

哲宗を迎えに来た江華行列図

<哲宗を迎えに来た江華行列図>

更に、哲宗が江華島で住んでいた貧しい家は王の名にふさわしく立派に改築されて龍興宮と名付けられました。

龍興宮とは「龍(王)が興る」という意味で王が誕生した場所という意味です。

現在の龍興宮の母屋

<現在の龍興宮の母屋>

王としての実像とプロフィール

哲宗は在位14年間、ほとんど政治実績もなく、安東金氏の操り人形として扱われました。

晩年は、酒に溺れ、流刑地で畑を耕していたころを懐かしんでいたと言われています。

哲宗のプロフィール

第25代国王
生年:1831年6月17日
没年:1864年12月8日
在位:1849年7月28日-1864年1月16日
姓・諱:李昪(イ・ビョン)
廟号:哲宗(チョルジョン)
父:全渓大院君
母:龍城府大夫人廉氏
后妃:哲仁王后(永恩府院君 金文根の娘)
陵墓:睿陵

哲宗の教養レベル|命令書もハングルで記述

ドラマ「風と雲と雨」にも、まともに漢字も書けない哲宗が登場しています。これは、まともに王子としての教育を受けること無く、お百姓として育ったからです。

哲宗は漢字が書けませんでしたので、命令書にはハングルを使用していました。しかし、当時、ハングルは庶民向けの文字と見なされ、通常、王が使うことはありませんでした。

また、即位当時の哲宗の読書レベルは「小学」を読んだ程度であることが、実録に記録されています。哲宗の無学さには重臣のみならず、純元王后自身も驚いたと思われます。

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悲惨な最後を遂げた哲宗の一族

哲宗が流刑地にいたのには、家族に降りかかった数々の悲劇が関係しています。

次の人たちは、悲惨な最後を遂げた哲宗の親族たちです。

哲宗との関係 名前 最後
祖父 恩彦君 妻と嫁の罪の連座で賜死
祖母 常山郡夫人 キリスト教弾圧で賜死
叔父 完豊君 謀反の罪を負わされて死罪
叔父 李成得 理由なく拷問死
叔母 平山郡夫人 キリスト教弾圧で賜死
全渓大院君 王族を追い出され流刑され逝去
異母兄 懐平君(李元慶) 謀反の罪を負わされて賜死

哲宗即位後、王室の命令で恩彦君と完豊君の一家に関連する資料はすべて焼却、隠滅されたと言われています。

更に、次の家系図で見ると、哲宗が多くの親族が処刑または流刑される中を耐え抜いて生きてきたことが改めて実感できます。

悲劇の一族の系図

<哲宗と処刑された親族の家系図>

王になるまでの悲劇的な出来事

哲宗が王になるまでに起こった一族の出来事を一覧でご紹介します。

出来事
1786年 11月20日、洪国栄の世子擁立は失敗
完豊君は死罪、父の恩彦君は流刑となる
1801年 3月にキリスト教弾圧により完豊君の実母の常山郡夫人と妻の平山郡夫人は毒殺刑
6月30日、恩彦君も連座により毒殺刑
全渓大院君は李成得とともに江華島に流刑
1817年 11月26日、叔父の李成得が江華府庁で拷問され死亡
1827年 全渓大院君に李明(懐平君)が生まれる
1828年 李景応(永平君)が生まれる
1830年 全渓大院君一家が一時釈放されて漢城へ行く
1831年 6月17日、李昪(哲宗)が生まれる
1841年 11月2日、全渓大院君が逝去
1844年 10月17日、懐平君(異母兄)が謀反の罪で毒殺刑(閔晋鏞の陰謀)
李昪(哲宗)は永平君(異母兄)と共に再び、江華島へ流刑
1849年 6月9日、李昪は宮廷に呼ばれ純元王后の養子となり、哲宗として即位する

意外にも一家は一時釈放されて、哲宗は漢城で生まれています。

しかし、1844年に懐平君が謀反の罪で死罪になると、哲宗は再び、異母兄の永平君とともに江華島に流刑になりました。

全ての悲劇の発端となったのは洪国栄による完豊君の世子擁立でした。詳しくは>>完豊君(ワンプングン)の家系図【為政者が生んだ悲劇の子】

哲宗の兄弟

哲宗には腹違いの二人の兄がいましたが、父親の全渓大院君とともに江華島に流刑となりました。

江華島では、兄弟は農業に従事し、貧困な生活を送っていたといいます。

関係 称号(名前) 生年-没年 備考
全渓大院君 1785-1841
正室 完陽府大夫人崔氏 1804-1840
 長男 懐平君(李元慶) 1827-1844 処刑、享年17歳
側室 李氏 不明
 庶子 永平君(李景応) 1828-1902 宮廷で要職に就く
側室 龍城府大夫人廉氏 1793-1834
 庶子 徳完君(李昪) 1831-1864 第25代王・哲宗

正室の子供であった懐平君(フェピョングン)は1844年、閔晋鏞の謀反に巻き込まれ死罪になっています。

もう一人の異母兄の永平君は、哲宗が国王として都に呼ばれると、一緒に宮廷に入り朝廷の要職に就いたと言われています。

ドラマ「哲仁王后~俺がクイーン!?~」には、哲宗を守る禁衛大将(クムテジャン)として登場しています。

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哲宗の正室、側室と子供たち

哲宗には1人の正室と7人の側室の間に5男6女の子供がいました。

しかし、側室の娘・永恵翁主の一人を除いて、全ての王子と王女が幼くして亡くなっています。

<哲宗の家族>

第25代国王・哲宗
正室 哲仁王后 1男 隆俊 早世(2歳)
側室 貴人朴氏 1男 王子 早世
貴人趙氏 2男 王子 早世
王子 早世
淑儀方氏 2女 翁主 早世
翁主 早世
淑儀范氏 1女 永恵翁主 14歳で死去
淑儀金氏 1女 翁主 早世
宮人李氏 1男1女 王子 早世
翁主 早世
宮人朴氏 1女 翁主 早世

哲宗の妻

正室は安東金氏一族である金汶根の娘・哲仁王后です。

1851年、哲仁王后は純元王后(哲宗の義理の母)により、哲宗の王妃に選ばれました。安東金氏の勢力を維持拡大するためです。

哲仁王后について詳しくは>>哲仁王后の家系図【お飾りの王様に嫁いだ安東金氏の王妃とは】を御覧ください。

哲宗には男子の後継者がいなかった

哲宗と哲仁王后の間には男子の子が生まれず、哲宗には結局、正式な後継者となる息子がいませんでした。側室との間に娘をもうけましたが、王位を継ぐ男子がいなかったため、後継問題が深刻化します。

そのため、次の王位を誰に継がせるかをめぐって、朝廷内では安東金氏と反対派勢力の間で暗闘が繰り広げられることになります。

哲宗の後継|幼い高宗が即位

哲宗の死後、朝廷は再び後継者選びに追われます。

結局、王族の血を引く8歳の少年・高宗(李昰応/イ・ヒョン)が選ばれ、第26代王に即位しました。高宗は、哲宗の父と同じく李昰鎔(全渓大院君)の一族に連なる傍系の子孫です。

哲宗から高宗への王位継承

<哲宗から高宗への王位継承>

高宗の父・興宣大院君は、この即位を機に政治の実権を握り、それまで権勢を誇っていた安東金氏を粛清しました。これにより、安東金氏の勢道政治は終焉を迎え、朝鮮王朝の政治は大きな転換期に入ります。

高宗の即位の経緯について詳しくは>>【図解】高宗の家系図をわかりやすく紹介(朝鮮王朝最後の王)

まとめ

哲宗の家系図を読み解くと、その背景には朝鮮王朝後期における王権の弱体化と、外戚勢力の横暴がありました。

王になるはずがない哲宗が王になれたのは、安東金氏の力によるものだったのです。

哲宗にとっては、その後の操り人形の人生よりも、江華島で畑を耕していた頃の方が幸せだったのかもしれません。

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