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哲宗の家系図で知る【驚き!お飾りの国王はお百姓だった】

第25代国王・哲宗は字もろくに書けない無学の王様でした。

ドラマ「風と雲と雨」や「哲仁王后」に登場しています。

哲宗とはどんな王だったのか、家系図から詳しくご紹介します。

 

哲宗の家系図

哲宗(チョルジョン)は家系図から見ても分かるように、本来、王位からは程遠い位置にいました。

<哲宗の家系図>

哲宗の祖父は第22代国王・正祖の異母弟にあたる恩彦君です。

恩彦君は英祖により米びつに閉じ込められて餓死した思悼世子の息子です。

 

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お百姓が国王に、棚ぼたの王様

流刑地で畑を耕していた哲宗が朝鮮王朝の国王に大抜擢されました。

その背景には、当時、朝廷を牛耳っていた安東金氏一族の存在がありました。

安東金氏一族は、第23代国王・純祖(正祖の息子)の王妃に一族の権力者・金祖淳の娘が選ばれると、メキメキと朝廷での勢力を拡大していきました。

 

純祖が亡くなると、純祖の孫の憲宗が即位しました。

純祖の息子の孝明世子は既に22歳で亡くなっていたからです。

 

憲宗が8歳と幼いため純元王后が7年間、垂簾聴政を行いましたが、その間に、安東金氏の勢力は拡大して、王権は飾り物化していきました。

外戚(王妃の親戚)が政治を独占することを勢道政治(せいどうせいじ)と呼んでいますが、安東金氏一族は約60年間にわたり、朝廷を思うがままに動かしていきました。

 

憲宗が亡くなると、跡継ぎがいないことから、純元王后は次期王となり得る王族を探します。

そして、江華島で百姓をしていた哲宗に目をつけました。

 

純元王后は安東金氏の権力を維持するため、豊壌趙氏一派が王位を立てる前に、王を決める必要があったのです。

早速、純元王后は王族の戸籍を剥奪されていた哲宗を純祖と自分の養子とした上で、王として即位させました。

<哲宗の王位の系図>

王としての教育を受けていない無学の哲宗は安東金氏一族にとっては好都合の人材だったのでしょう。

 

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哲宗を迎えに大行列

史実によると、宮廷から江華島に哲宗を迎える大行列が来ました。

王になるとは想像もしなかった哲宗は、自分を殺すために迎えがきたと思い逃げ出そうとしたそうです。

迎えに来た大行列の様子が屏風に残されています。

<哲宗を迎えに来た江華行列図>

 

更に、哲宗が江華島で住んでいた貧しい家は立派に改築されて龍興宮と名付けられました。

王様になる人が住んでた家が藁葺では様になりませんから。

龍興宮とは「龍(王)が興る」という意味で王が誕生した場所という意味です。

<現在の龍興宮の母屋>

 

哲宗はどんな王様?

哲宗(チョルジョン)は流刑地の江華島で畑を耕していた農民でしたが、安東金氏一族の企てで王になりました。

そのため、政治経験もない無学だった哲宗は安東金氏一族の言いなりでした。

哲宗のプロフィール

第25代国王
生年:1831年6月17日
没年:1864年12月8日
在位:1849年7月28日-1864年1月16日
姓・諱:李昪(イ・ビョン)
廟号:哲宗(チョルジョン)
父:全渓大院君
母:龍城府大夫人廉氏
后妃:哲仁王后(永恩府院君 金文根の娘)
陵墓:睿陵

哲宗は在位14年間(在位1849-1863)、ほとんど何もできないまま操り人形となり、33歳でこの世を去りました。

晩年は、酒に溺れ、流刑地で畑を耕していたころを懐かしんでいたと言われています。

 

哲宗の知識レベル

ドラマ「風と雲と雨」にも、まともに漢字も書けない哲宗が登場しています。

これは、まともに王子としての教育を受けること無く、お百姓として育ったからです。

 

哲宗は漢字が書けませんでしたので、命令書にはハングルを使用していたといいます。

もともと、漢字の書けない庶民のために作られたハングルなんので、ハングルを使う人は学識のない人と思われていました。

王様がハングルを使うなど論外でした。

 

また、哲宗の読書レベルは「小学」を読んだ程度でした。

当時、「小学」は子供が儒教の修身や作法を勉強する教科書だったのです。

 

このように、純元王后は憲宗が亡くなり、慌てて後継者を探しましたが、無学の哲宗を選ばざるを得ないほど、当時の王家には男子が少なかったのです。

操り人形の王様としては、あまり賢くないほうが適任でした。

しかし、哲宗の無学さには重臣のみならず、純元王后自身も驚いたといいます。

 

哲宗が百姓になった一族の悲劇

王族の哲宗が江華島で百姓をしていたことには理由があったのです。

 

一族の悲劇の始まり

悲劇の始まりは、洪国栄が哲宗の祖父・恩彦君の息子を妹元嬪の養子にして、世子にしようとしたことでした。

洪国栄は強引に王族の親族になろうとしたのです。

 

しかし、完豊君を跡継ぎにする洪国栄の計画は重臣の反対で失敗します。

洪国栄は失脚、完豊君は爵位を剥奪され死罪、恩彦君の一家は島流しとなります。

恩彦君は哲宗の祖父にあたります。

 

更に、恩彦君の妻と嫁がキリスト教の信者であることが密告され、妻と嫁は毒殺刑に、恩彦君も連座で死罪となりました。

哲宗の父親の全渓大院君は王族の戸籍は剥奪され、流刑地へ送られてしまいます。

 

王になるまでの悲劇的な出来事

哲宗が王になるまでに起こった一族の出来事を一覧でご紹介します。

出来事
1786年 11月20日、洪国栄の世子擁立は失敗
完豊君は死罪、恩彦君は流刑となる
1801年 3月にキリスト教弾圧により完豊君の実母の常山郡夫人と妻の平山郡夫人は毒殺刑
6月30日、恩彦君も連座により毒殺刑
全渓大院君は李成得とともに江華島に流刑
1817年 11月26日、叔父の李成得が江華府庁で拷問され死亡
1827年 全渓大院君に李明(懐平君)が生まれる
1828年 李景応(永平君)が生まれる
1830年 全渓大院君一家が一時釈放されて漢城へ行く
1831年 6月17日、李昪(哲宗)が生まれる
1841年 11月2日、全渓大院君が逝去
1844年 10月17日、懐平君(異母兄)が謀反の罪で毒殺刑(閔晋鏞の陰謀)
李昪(哲宗)は永平君(異母兄)と共に再び、江華島へ流刑
1849年 6月9日、李昪は宮廷に呼ばれ純元王后の養子となり、哲宗として即位する

意外にも一家は一時釈放されて、哲宗は漢城で生まれています。

しかし、1844年に懐平君が謀反の罪で死罪になると、哲宗は再び、異母兄の永平君とともに江華島に流刑になりました。

 

悲惨な最後を遂げた哲宗の一族

哲宗との関係 名前 最後
祖父 恩彦君 妻と嫁の罪の連座で賜死
祖母 常山郡夫人 キリスト教弾圧で賜死
叔父 完豊君 謀反の罪を負わされて死罪
叔父 李成得 理由なく拷問死
叔母 平山郡夫人 キリスト教弾圧で賜死
全渓大院君 王族を追い出され流刑され逝去
異母兄 懐平君 謀反の罪を負わされて賜死

哲宗即位後、王室の命令で恩彦君と完豊君の一家に関連する資料はすべて焼却、隠滅されたと言われています。

<悲劇の一族の系図>

 

哲宗の正室と側室

哲宗には1人の正室と7人の側室の間に5男6女の子供がいました。

しかし、側室の娘・永恵翁主の一人を除いて、全ての王子と王女が幼くして亡くなっています。

<哲宗の家族>

第25代国王・哲宗
正室 哲仁王后 1男 隆俊 早世(2歳)
側室 貴人朴氏 1男 王子 早世
貴人趙氏 2男 王子 早世
王子 早世
淑儀方氏 2女 翁主 早世
翁主 早世
淑儀范氏 1女 永恵翁主 14歳で死去
淑儀金氏 1女 翁主 早世
宮人李氏 1男1女 王子 早世
翁主 早世
宮人朴氏 1女 翁主 早世

正室は安東金氏一族である金汶根の娘・哲仁王后です。

1851年、哲仁王后は純元王后(哲宗の義理の母)により、哲宗の王妃に選ばれました。

安東金氏の勢力を維持拡大するためです。

哲仁王后について詳しくは>>哲仁王后の家系図【お飾りの王様に嫁いだ安東金氏の王妃とは】を御覧ください。

 

1858年11月22日、哲仁王后は王子を生みます。

生まれてすぐに元子として冊封されましたが、半年後の1859年5月25日に突然亡くなってしまいます。

死因は明らかにされていません。

 

死後、隆俊(ヨンジュン)と名付けられました。

その後、哲仁王后は子供には恵まれませんでした。

 

哲宗の側室が王子を生みますが、王女も含めてほとんどが幼くして亡くなっています。

単なる偶然でしょうか。

そこに、安東金氏一族の企みを感じざるを得ません。

 

哲宗の兄弟

哲宗には腹違いの二人の兄がいましたが、父親の全渓大院君とともに江華島に流刑となりました。

江華島では、兄弟は農業に従事し、貧困な生活を送っていたといいます。

関係 称号(名前) 生年-没年 備考
全渓大院君 1785-1841
正室 完陽府大夫人崔氏 1804-1840
 長男 懐平君(李明) 1827-1844 賜死、享年17歳
側室 李氏 不明
 庶子 永平君(李景応) 1828-1902
側室 龍城府大夫人廉氏 1793-1834
 庶子 徳完君(李昪) 1831-1864 第25代国王哲宗

正室の子供であった懐平君(フェピョングン)は1844年、閔晋鏞の謀反に巻き込まれ死罪になっています。

享年17歳でした。

懐平君は賢くて人徳があり、兄弟の面倒見も良かったと言われています。

 

もう一人の異母兄の永平君は、哲宗が国王として都に呼ばれると、一緒に宮廷に入り朝廷の要職に就いたと言われています。

ドラマ「哲仁王后~俺がクイーン!?~」には、哲宗を守る禁衛大将(クムテジャン)として登場しています。

 

まとめ

哲宗は家系図から見ても、王位とは程遠い位置の人物でした。

実際、哲宗は教育も受けて無く、無学で政治とも無縁の王子でした。

流刑地で畑を耕すお百姓だったのです。

そんな哲宗が、当時の朝廷を牛耳っていた安東金氏一族により王に祭り上げられました。

哲宗にとっては、その後の操り人形の人生よりも、江華島で畑を耕していた頃の方が幸せだったのかもしれません。

 

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