純祖は名君・正祖の功績を更に発展させることが出来ませんでした。
ある意味、悲劇の王であった純祖
その足跡を純祖の家系図からご紹介します。
純祖の家系図
純祖の父は名君の正祖(イ・サン)、祖父は米びつで亡くなった荘献世子(思悼世子)です。
王妃は一大勢力を築いた金祖淳の娘・純元王后です。
<純祖の家系図>
純祖の息子・孝明世子は22歳で亡くなり、孫が第24代王・憲宗になっています。
しかし、憲宗には息子ができず、正祖の血筋は憲宗で途絶えてしまいます。
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純祖はどんな王だったのか?
純祖が即位したときは、まだ11歳と幼く、政治を仕切ることができませんでした。
その後も、義理の父が勢力が強く、生涯、思うように政治ができない王でした。
純祖のプロフィール
生年:1790年6月18日
没年:1834年11月13日
在位期間:1800年8月18日-1834年12月13日
姓・諱:李玜(イ・ゴン)
父:正祖
生母:綏嬪朴氏
王后・王配:純元王后
子女:孝明世子
陵墓:仁陵
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純祖の家族
純元王后は2男3女の子供を生みますが、孝明世子は22歳で亡くなり、その後生まれた息子は早世しています。
正/側 | 称号 | 子供 | 備考 | |
正室 | 純元王后 | 1男4女 | 孝明世子 | |
明温公主 | 金賢根の妻 | |||
福温公主 | 金炳疇の妻 | |||
公主 | 早世 | |||
徳温公主 | 尹宜善の妻 | |||
側室 | 淑儀朴氏 | 1女 | 不詳 | |
永温翁主 | なし |
第25代国王の哲宗は純元王后の死後、王にさせるために養子になりました。
注)純元王后の子供を2男3女と記載している史料もあります。
純祖の生涯
1790年6月18日、純祖は正祖と綏嬪朴氏の間に次男として生まれました。
1800年1月には、11歳で世子に冊封されます。
同年6月に、正祖が亡くなると、第23代国王として即位しました。
しかし、純祖はまだ幼く、英祖の妃である貞純王后が代理で摂政を行うことになりました。
貞純王后による垂簾聴政です。
貞純王后による垂簾聴政
貞純王后は摂政を始めると、直ぐにカトリック教徒の弾圧を始めます。
これは、朝鮮の儒教倫理の上下関係を否定するカトリックを排除すること。
そして、カトリック教徒に多かった政敵の時派と南人派を粛清するためでした。
また、貞純王后は正祖が築いた功績をことごとく壊していきました。
幼かった純祖には、これを止める術はありませんでした。
安東金氏による勢道政治の始まり
1802年10月2日、金祖淳の娘(純元王后)を王妃に迎えます。
金祖淳は正祖の信任を得ていた人物で、純祖の王妃を金祖淳の娘にすることは正祖の生前から決まっていることでした。
1803年12月、貞純王后が政治の舞台から退き、純祖が親政を始めました。
しかし、1805年に貞純王后が亡くなると、義父の金祖淳が表舞台にでてきました。
金祖淳は時派でしたが、貞純王后が摂政の時には、息をひそめていたのです。
邪魔者がいなくなると、金祖淳は一族(安東金氏)を朝廷の要職に就けて、朝廷での勢力を拡大していました。
孝明世子の誕生
1809年8月、純祖に息子(孝明世子)が生まれました。
1812年、純祖はまだ、3歳の息子(孝明世子)を世子に冊封しました。
純祖の正室・純元王后の実家である安東金氏の権力保持のための政略だったと考えられます。
余談ですが、孝明世子はドラマ「雲が描いた月明かり」の世子・イ・ヨンのモデルと言われています。
純祖の抵抗
1819年10月、安東金氏の勢力を抑えようと、純祖は息子・孝明世子の世子嬪に豊壌趙氏の娘を選びました。
1827年、孝明世子が代理摂政を始めると、一時、安東金氏の勢力が抑えられました。
しかし、1830年に孝明世子が22歳で亡くなると、安東金氏は再び勢力を盛り返していきました。
この後、安東金氏の勢道政治は高宗の時代まで約60年間続きます。
1834年11月、純祖が45歳で亡くなりました。
まとめ
純祖は最後まで、自分の政治を行うことなく、亡くなった王でした。
幼いときは、貞純王后による代理摂政、親政後は安東金氏による勢道政治が政治を専横していました。
偉大な父・正祖が築いた功績をことごとく失ってしまいました。
ある意味、悲劇の王と言えるかもしれません。