暎嬪李氏は英祖の側室で、イ・サン(正祖)の祖母です。
彼女は本当に息子の死を願ったのでしょうか?
暎嬪李氏の家系図から詳しく調べてみました。
暎嬪李氏の家系図
暎嬪李氏は高麗建国時の功臣であった李棹を始祖とする全義李氏一族の出身です。
<暎嬪李氏の家系図>
第21代英祖以降、荘献世子、第22代正祖、第23代純宗、第24代憲宗までが、暎嬪李氏の血を次ぐ直系の子孫になります。
<暎嬪李氏直系の子孫>
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暎嬪李氏はどんな側室だったのか?
暎嬪李氏は英祖と年齢も近く、英祖から大変寵愛を受けた側室でした。
暎嬪李氏プロフィール
生年:1696年7月18日
没年:1764年7月26日
享年:69歳
氏族:全義李氏
父:李楡蕃
母:漢陽金氏
夫:英祖
埋葬地:京畿道坡州市綏慶園
暎嬪李氏の家族
暎嬪李氏は英祖との間に1男6女の子供をもうけていますが、3人の女の子は生後2、3年で亡くなっています。
唯一の長男は米びつの中で餓死させられた荘献世子(思悼世子)です。
<暎嬪李氏の家族>
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 李楡蕃 | 不詳 | 贈議政府贊成 |
母 | 漢陽金氏 | 不詳 | |
夫 | 英祖 | 1694-1776 | 第21代王 |
本人 | 暎嬪李氏 | 1696-1764 | |
長女 | 和平翁主 | 1727-1748 | 朴明源の正室 |
次女 | 翁主 | 1728-1731 | 早世 |
三女 | 翁主 | 1729-1731 | 早世 |
四女 | 翁主 | 1732-1736 | 早世 |
五女 | 和協翁主 | 1733-1752 | 申光綏の正室 |
長男 | 荘献世子/思悼世子 | 1735- 1762 | 正祖の実父 |
六女 | 和緩翁主 | 1738-1808 | 鄭致達の正室 |
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本当に息子の死を願ったのか?
暎嬪李氏が息子・荘献世子の死を願ったのは史実にも記録された事実です。
暎嬪李氏の苦悩の始まり
最初、英祖の叱責は荘献世子への期待からくる叱責でした。
荘献世子は大変できた子供だったので怒られないよう努力しましたが、繰り返される叱責が、徐々に行動を萎縮する恐怖となりました。
英祖への緊張から何事も思うように行かない荘献世子に対して、英祖の叱責が怒りへと変わっていきました。
荘献世子の異常行動
この繰り返しが荘献世子の精神を悪化させ、10歳の頃から精神に異常をきたし、奇行や残虐な行為を始めます。
奇行や残虐な行為は徐々にエスカレートしていきました。
そして、ちょっと気に障るだけで、多くの官史や女人が殺害されるようになります。
しかし、誰もそれを止めることができませんでした。
この地獄図に母親の暎嬪李氏は酷く心を痛め、遂に英祖に息子の処分をお願いする決断をします。
暎嬪李氏の苦渋の英断
このときの状況は、荘献世子の妻である恵慶宮洪氏が書いた自叙伝の「閑中録」に記載されています。
英祖が政治を行う場所に行く時に、暎嬪李氏が出向き、そこで、暎嬪李氏は泣きながら訴えました。
「小朝(荘献世子)の病が次第に重くなって、望みもなくなってしまいました。私としては、とても情理にかなわないことではあっても、王様のお身体を保全し、世孫を救い、そうして宗社を平安に保つことが正しいと思います。いたしかたございません。大処分をなさってください。」
「父子の情として、このようなことにおなりでも、原因は病にあって、病をどうして責めることができましょう。たとえ処分はなさっても、どうか恩恵を及ぼしくださって、世孫母子は平安にお助けください。」
<引用元:「閑中録」恵慶宮著、横山秀幸訳>
また、実録の中にも暎嬪李氏が英祖に密告したことが記録されています。
世子哭而復入, 伏地哀乞, 請改過爲善。 上敎愈嚴, 微陳暎嬪之所告, 暎嬪卽世子誕生母李氏, 而有所密告於上者也。 都承旨李彛章曰: “殿下以深宮一女子之言, 動搖國本乎?” 上震怒, 命亟正邦刑, 旋寢其命。遂命世子幽囚, 世孫倉皇入來。
<引用元:英祖実録1762年5月13日より抜粋>
世子は泣きながら再び、土下座してお願いした。これからは悪いことを改め善いことをします。しかし、王の言葉はいよいよ厳しくなり、暎嬪が告発したことを大まかに述べた。暎嬪は世子の生みの親であるが、それでも、(意を決して)王に密告したのであった。都承旨の李彛章が言った「殿下は、深い宮殿(政治とは無関係)の一人の女性の言葉で、国家の根幹を揺るがすのですか?」王は激怒して、ただちに刑を実施するように命じたが、すぐにその命令を撤回した。そしてついに、世子を閉じ込めるように命じた。すると、世孫があわてふためいてやってきた。
以上のように、やむにやまれぬ気も持ちから、暎嬪李氏が英祖に息子の処分をお願いしたことは事実のようです。
しかし、この告発は幼い正祖にとって許すことができないことでした。
暎嬪李氏の生涯
1696年、暎嬪李氏は李楡蕃の娘として生まれました。
幼少の頃に関して詳しいことは分かっていません。
1701年、6歳で女官として入宮しました。
暎嬪李氏は31歳の時に33歳の英祖から寵愛を受けています。
寵愛を受けた年齢は遅かったといえますが、英祖から気に入られたのでしょう。
その後、1男6女の子供を生み、順調に昇進していきます。
1735年には待望の男の子の李愃(イ・ソン)を生んでいます。
長子を亡くして、跡取りがいなかった英祖の喜びようは尋常ではありませんでした。
その証拠に、なんと2歳のときに李愃を王世子に冊立しています。
しかし、暎嬪李氏は次女、三女、四女を幼くして亡くし、長女の和協翁主も20歳で亡くすなど不幸の多い人生でした。
そんな暎嬪李氏にとって最大の悲劇は息子・荘献世子が米びつで餓死させられたことです。
精神的に衝撃の大きかった暎嬪李氏は、息子が亡くなった2年後に病死しています。
暎嬪李氏の生涯一覧
暎嬪李氏の生涯を関連事項を入れて整理しました。
年 | 年齢 | 出来事 |
1696 | 1 | 李楡蕃の娘として生まれる |
1701 | 6 | 6歳のときに女官として入宮 |
1726 | 31 | 英祖の寵愛を受け淑儀(従二品)になる |
1727 | 32 | 長女の和平翁主が生まれる |
1728 | 33 | 次女が生まれ、貴人(従一品)になる |
33 | 英祖の長子・孝章世子が12歳で亡くなる | |
1729 | 34 | 三女が生まれる |
1730 | 35 | 暎嬪(正一品)になる |
1731 | 36 | 次女が亡くなる(早世4歳) |
36 | 三女が亡くなる(早世3歳) | |
1732 | 37 | 四女が生まれる |
1733 | 38 | 五女の和協翁主が生まれる |
1735 | 40 | 長男の李愃(荘献世子)が生まれる |
1736 | 41 | 四女が亡くなる(早世5歳) |
41 | 李愃(荘献世子)が王世子に冊立される | |
1738 | 43 | 六女の和緩翁主が生まれる |
1744 | 49 | 荘献世子が恵慶宮と結婚する |
1748 | 53 | 長女の和平翁主が22歳で亡くなる |
1749 | 54 | 荘献世子が15歳で代理聴政を任される |
1752 | 57 | 五女の和協翁主が20歳で亡くなる |
57 | 荘献世子に李祘(正祖)が生まれる | |
1762 | 67 | 李祘が金時黙の娘(孝懿王后)と結婚する |
荘献世子が米櫃に閉じ込められて餓死する | ||
1764 | 69 | 69歳で病死 |
「長男、長女」などは暎嬪李氏の子供としての関係です。荘献世子は英祖にとっては次男ですが、暎嬪李氏にとっては長男になります。
まとめ
暎嬪李氏が精神に異常をきたし平気で人を殺すようになった息子の処分を英祖にお願いしました。
誰も進言出来なかったことを、英断した暎嬪李氏を英祖は高く評価したといいます。
しかし、幼い正祖にとっては許しがたいことでした。
暎嬪李氏はあまり目立つことのない女性ですが、実際には激動の人生を歩んだ側室の一人と言えます。