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【図解】高宗の家系図をわかりやすく紹介(朝鮮王朝最後の王)

朝鮮王朝末期の王位継承は王の跡継ぎがなく、外戚や親族により企てられたものです。

そのため分かり難い王位継承となっています。

そこで、第26代国王・高宗の家系図を図解で詳しくご紹介します。

 

高宗の家系図

高宗の子孫をたどっていくと第16代王・仁祖の三男にあたります。

それまでの王の正統な血統は代々、仁祖の次男(第17代王・孝宗)の血統とされてきました。

<高宗の家系図>

しかし、第24代王・憲宗と第25代哲宗には跡継ぎがなく、興宣大院君の次男・李㷩が高宗として王位を継承しました。

興宣大院君の父親の南延君が英祖の孫にあたる思信君の養子になったことから、高宗は英祖の血統を継ぐ正統な王位継承者だと興宣大院君は考えていました。

そして、李㷩(高宗)は王に即位するときに、孝明世子と神貞王后の養子になっています。

 

王位を継承した経緯

1834年に純祖の後を継いで即したのは純祖の息子の長男・憲宗でした。

<憲宗の王位継承>

しかし、憲宗は跡継ぎがないまま、1849年に22歳で亡くなりました。

このときに、朝廷に力を持っていたのが純祖の正室であった大妃の純元王后でした。

 

純元王后は実家の安東金氏の権力を維持するために、なんと江華島に配流され農業をしていた李元範を宮廷に呼びました。

そして、自分の養子として、第25代王・哲宗として即位させました。

李元範は正祖の父・荘献世子のひ孫にあたります。

<哲宗の王位継承>

しかし、1863年に哲宗も跡継ぎがないままに逝去します。

このときには既に純元王后は亡くなっていて(1857年に死去)、神貞王后が大妃として強い権力を握っていました。

 

こんどは、神貞王后が興宣大院君が共謀して、興宣大院君の次男の李㷩を自分の養子として国王に即位させました。

高宗の兄の完興君は王に選ばれませんでした。

これは、幼い李㷩(高宗)の方が神貞王后と興宣大院君にとって自由に操れるとの思惑が一致したからです。

こうして、第26代王・高宗は王位に就くことになり、興宣大院君が王の父親として権力を拡大していきます。

<高宗の王位継承>

 

高宗のプロフィール

高宗は李昰応(後の興宣大院君)の次男であり、本来は王位とは遠い位置にいました。

実際に高宗には、王位を狙う野望は全くありませんでした。

<高宗のプロフィール>
生年:1852年7月25日
没年:1919年1月21日
在位期間
朝鮮王:1863年12月13日-1897年10月12日
大韓皇帝:1897年10月12日-1907年7月20日
姓・諱:李㷩、李命福(幼名)、李載晃(初名)
廟号:高宗
父:興宣大院君(李昰応)
母:驪興府大夫人閔氏
陵墓:洪陵

高宗は在位中に国名を大韓帝国に変え王から皇帝となりました。

そのため、高宗は朝鮮王朝最後の王様となります。

 

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高宗の家族

高宗には一人の正室・明成皇后の他に多くの側室がいました。

しかし、最も寵愛したのは側室の永保堂 貴人李氏でした。

関係 名前 子供 備考
正室 明成皇后 李坧 第27代王・純宗
側室 純献皇貴妃 嚴氏 李垠 英親王
永保堂 貴人李氏 李墡(和完君) 完親王は死後の称号
貴人張氏 李堈 義親王
内安堂 貴人李氏 子女なし
宝賢堂 貴人鄭氏 李堣 2歳で死去
福寧堂 貴人梁氏 徳恵翁主
光華堂 貴人李氏 李堉 3歳で死去
三祝堂 尚宮金氏 子女なし
貞和堂 尚宮金氏 子女なし
宮人廉氏 子女なし
宮人徐氏 子女なし
宮人金氏 子女なし
宮人張氏 子女なし
宮女廉氏 皇女 李文鎔

注)1年以内に幼くして亡くなった子は記載していません。

 

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高宗の子孫

高宗と明成皇后の間に生まれた純宗には子供ができませんでした。

明成皇后の血縁は純宗で途絶えてしまいます。

一方、高宗と側室の間には成人した子供が3人いました。

 

貴人張氏の子・義親王(李堈)

貴人張氏との間に生まれた義親王(李堈)は乱暴で素行が悪く、王室も手を焼いたと言われています。

しかし、関係した女性も多く、現在生きている高宗の子孫の大半は義親王の子孫と言われるほどです。

1958年に行われた調査では、夫人が18名、子女は28人も確認されましたが、正式に皇族と認められたのは李鍵と李鍝の2名だけでした。

 

純献皇貴妃 の子・英親王(李垠)

純献皇貴妃 嚴氏との間に生まれた英親王(李垠)は品行もよく、王位継承者に任命されました。

英親王は日本の皇室の娘と結婚して二人の息子李晋と李玖をもうけています。

しかし、李晋は生まれてまもなく亡くなり、李玖には子供はできませんでした。

 

福寧堂 貴人梁氏の子・徳恵翁主

高宗と福寧堂 貴人梁氏の間に生まれた徳恵翁主は、日本に留学の名目で連れていかれ、日本人と結婚しています。

幸せな結婚生活とは程遠く、最終的には結婚生活は破綻、唯一の子供も亡くなってしまいました。

そのため、徳恵翁主は重度の精神障害を患い、韓国に帰国後亡くなっています。

 

高宗の父・興宣大院君

高宗の父の興宣大院君は第16代王・仁祖の三男の血統であり、南延君の四男でした。

1843年、23歳のときに興宣君(フンソングン)の称号があたえられました。

 

興宣君は本来であれば王位継承できる地位ではありませんでした。

しかし、南延君が英祖の息子・荘献世子の四男である恩信君の養子になったことで、興宣君に王位継承の道が開けました。

実際に、興宣君は憲宗が逝去したときに、王位継承の候補になりましたが、安東金氏の思惑により排除されています。

<南延君の養子>

このため、興宣君は王位を狙う危険人物として、安東金氏より監視されることになります。

これを知った興宣君は監視から逃れるために、遊び人を装い、乞食のような生活をしていたといいます。

しかし、裏では安東金氏の政敵の豊壌趙氏一族出身の神貞王后に近づき、着々と息子の王位継承の道を作っていました。

 

興宣大院君のプロフィール

<プロフィール>
本名:李昰応(イ・ハウン)
称号:興宣君(フンソングン)
生年:1821年1月24日
没年:1898年2月22日
享年:78歳
父:南延君(李球)
母:郡夫人驪興閔氏

 

興宣大院君の家族

興宣大院君と正室の間には2人の息子がいました。

興宣大院君は哲宗が亡くなったときに、長男の完興君を王に推しませんでした。

これは、哲宗が亡くなったとき完興君が19歳、李㷩(高宗)が12歳と李㷩の方が幼くて、自由に操れると思ったからです。

興宣大院君
正室 驪興府大夫人閔氏 長男 李載冕 完興君
次男 李㷩 第26代王・高宗
長女 趙慶鎬と結婚
次女 趙鼎九と結婚
側室 驪州李氏 長男 李載先 謀反の罪で死罪
長女 李允用と結婚

 

興宣大院君について更に詳しく知りたい方は>>興宣君(フンソングン)の家系図で知る【大院君とはどんな人物?】 を御覧ください。

 

高宗の妻・明成皇后(正妃)

高宗の正室は、生前に閔妃(ミンビまたはミンピ)と呼ばれた明成皇后です。

閔妃は揀択で王妃に選ばれますが、選ばれた大きな理由は既に父親が亡くなっていて外戚を警戒する必要がないこと。

興宣大院君の妻と同じ閔氏出身なので、夫人が気に入っていたことなどがあげられます。

 

特に、興宣大院君が外戚の安東金氏に苦しめられていたため、外戚の驚異がないことは王妃選びの必須でした。

しかし、このとき明成皇后自身が興宣大院君の政敵になるとは思ってもみませんでした。

<明成皇后のプロフィール>
本名:閔玆暎(ミン・チャヨン)
出生:1851年9月25日
死去:1895年8月20日
享年:45歳
埋葬:1919年3月3日
配偶者:高宗(第26代王)
子女:純宗(第27代王)
氏族:驪興閔氏
父親:閔致禄
母親:韓山李氏

もっと詳しい内容は>>明成皇后の家系図 を御覧ください。

 

正妃・明成皇后の子供

明成皇后と高宗の間には4人の男の子と1人の女の子がいましたが、次男以外は、全て1年以内に亡くなっています。

次男が高宗の後を継ぎ、第27代国王・純宗となりました。

高宗 第26代王
明成皇后 1866年王妃になる
長男 大君 早世、1871-1871
長女 公主 早世、1873-1873
次男 李坧 第27代王・純宗
三男 大君 早世、1875-1875
四男 大君 早世、1878-1878

 

高宗の最後

高宗は1919年1月21日に徳寿宮で突然亡くなっています。

享年67歳でした。

高宗の死因

高宗の死因は明らかにされていません。

しかし、早朝は元気だったにも関わらず、愛飲していたお茶を飲んで、しばらくして突然倒れたと言われています。

御医が駆けつけたときには既に亡くなっていました。

そのため、脳溢血と毒殺の2説ありますが、今となっては解明する手段はありません。

 

高宗のお墓

高宗は洪裕陵の洪陵(ホンヌン)に明成皇后と一緒に埋葬されています。

明成皇后のお墓は、ソウルの清涼里にありましたが、高宗の死後、この場所に移され合祀されました。

 

洪裕陵は裕陵(ユヌン)という陸がありますが、裕陵(ユヌン)には息子の純宗と純明孝皇后、純貞孝皇后が埋葬されています。

高宗の時代に国名を大韓帝国に変えていますが、このとき、高宗も王から皇帝へと改称しました。

そのため、洪陵と裕陵は明の太祖の孝陵を模した皇帝陵の様式に従っています。

 

まとめ

高宗の家系図を見ながら、高宗がどのようにして王位を継承したのか説明してきました。

憲宗、哲宗、高宗の時代は王の権力は弱く、外戚や親族が権力を掌握していました。

王は単なる飾り物だったのです。

しかし、王の権力が弱くなり、周囲のものが権力を思うがままに振る舞う暴政は朝鮮王朝の時代を衰退へと導くものでした。

 

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