Googleのアドセンス広告を表示しています

安東金氏の家系図から分かる【3人の王妃による黄金時代の構築】

安東金氏の家系図を調べると、巧みに3人の王妃を輩出して黄金時代を築いていった足跡が分かります。

王族をも恐れぬ安東金氏の勢道政治はどのようにして築かれていったのか。

詳しくご紹介します。

 

安東金氏の家系図

安東金氏には、2つの氏族があります。

一つは新羅の王族であった金叔承を始祖とする旧安東金氏と呼ばれる氏族です。

 

もう一つは高麗建国の功臣である金宣平を始祖とする新安東金氏と呼ばれる氏族です。

ここで紹介するのは、朝鮮王朝後期に3人の王妃を輩出して黄金期を築いた新安東金氏の一族です。

<安東金氏の家系図>

家系図から分かるように、一族からバランスよく王妃を輩出していることが分かります。

 

安東金氏出身の3人の王妃

安東金氏は娘を嫁がせて外戚となり、親族を朝廷の要職に就けることで権力を拡大していきました。

そして、王族も恐れぬ安東金氏一族が政治を独占する勢道政治の基盤を確立しました。

 

純元王后

純元王后(スンウォンワンフ)は安東金氏の一族が初めて王に嫁がせた娘です。

安東金氏が朝廷を独占する勢道政治のキッカケとなりました。

純元王后の父親の金祖淳(キム・ジョスン)は正祖から絶対的な信頼を得ていた人物です。

 

正祖は生前、金祖淳に息子(純祖)の面倒を見てくれるように依頼していました。

そして、金祖淳の娘(純元王后)を息子の嫁にするよう準備を進めていましたが、決定する前に正祖は亡くなってしまいました。

 

しかし、事実上、金祖淳の娘(純元王后)が純祖の世子嬪に決まっていたようなもので、純祖が即位すると純元王后が王妃となりました。

純元王后に関する詳しいことは>>純元王后の家系図 を御覧ください。

 

孝顕王后

孝顕王后(ヒョヒョンワンフ)は一時衰えた安東金氏の勢力が、豊壌趙氏に対抗できるように純元王后が孫の第24代王・憲宗に迎えた王妃です。

 

朝廷で発言力が強くなる安東金氏を純宗は快く思っていませんでした。

そこで、息子の孝明世子の嫁に豊壌趙氏一族の神貞王后を迎えて、孝明世子に代理聴政させました。

安東金氏に豊壌趙氏を対抗させようと考えたのです。

 

孝明世子が豊壌趙氏の一族を要職に適用したことで、安東金氏の勢力は一時的に後退しました。

しかし、1830年、孝明世子が突然、亡くなります。

これにより、再び、安東金氏の勢力が盛り返し、豊壌趙氏と勢力が均衡します。

 

1834年に純祖が亡くなり、孫の憲宗が即位します。

このときに、安東金氏の基盤を強化するように憲宗の王妃に選ばれたのが孝顕王后でした。

孝顕王后に関する詳しいことは>>孝顕王后の家系図 を御覧ください。

 

哲仁王后

哲仁王后(チョルインワンフ)は安東金氏の勢力を維持するために送られた王妃です。

哲仁王后は第25代国王・哲宗の王妃となりました。

 

体の弱かった憲宗は安東金氏と豊壌趙氏が政治の舞台で争うなか22歳で亡くなってしまいます。

憲宗に跡継ぎがなかったことから、姑の純元王后は豊壌趙氏一族が王を探す前に新しい王を探しました。

純元王后と金汶根(キム・ムングン)は、江華島に流刑となり、農業を営んでいた哲宗を王に仕立て上げました。

 

そして、金汶根はこの功績により、娘を哲宗の王妃とすることにも成功します。

この時の王妃が哲仁王后です。

哲仁王后に関する詳しいことは>>哲仁王后の家系図 を御覧ください。

 

【PR】スポンサーリンク

勢道政治の基礎を築いた金祖淳

純元王后の金祖淳(キム・ジョスン)は安東金氏の黄金時代の基礎を築いた人物です。

純祖が即位した当初は、大王大妃の貞純王后が垂簾聴政をして正祖が築いた功績を破壊していました。

 

しかし、貞純王后が引退すると大人しかった金祖淳が本性を表し始めます。

国舅の金祖淳は親族を朝廷の要職に次々と採用して、朝廷を独占していきます。

こうして、安東金氏による勢道政治の基礎ができていきました。

 

【PR】スポンサーリンク

勢道政治の基盤を強化した金汶根

哲仁王后の父親の金汶根(キム・ムングン)は、第2次安東金氏の黄金時代を築いた人物です。

哲宗は流刑地で農耕作業をしていたところを金汶根によって王に祭り上げられました。

 

従って、哲宗は義理の父・金汶根には全く反抗できませんでした。

金汶根は王族さえも、反抗しそうと思えば排除して朝廷を独占していきます。

こうして、金汶根は第2次安東金氏黄金時代を築いていきました。

 

安東金氏の主要な人物

安東金氏の主要な人物を何人かご紹介します。

 

家祖の金宣平

安東金氏の家祖は金宣平(キム・ソンピョン)です。

金宣平は、高麗王朝と建国した太祖(王建)に貢献した功臣です。

特に、安東地方での後百済のキョン・フォン王と天下を賭けた決戦で、金宣平は王建を助け功績をあげました。

 

金昌集

金昌集(キム・チャンチブ)は後に英祖となる延礽君を王にしようと推した人物です。

当時、金昌集は老論派の主要人物で、粛宗のときは領議政まで務めました。

 

粛宗が亡くなり、景宗が王位につくと、跡継ぎがいなかったので延礽君を王世弟にするように主張しました。

さらに、延礽君による代理聴政まで要求しましたが、最終的には認められませんでした。

金昌集は景宗を推す少論派から反発をかい、最後は流刑の上に死罪となります。

 

金尚憲

金尚憲(キム・サンホン)は仁祖反正(1623年)後に、吏曹参議となり、西人清西派の領袖となった人物です。

清に対抗して、明に仕えることを主張しました。

 

しかし、1637年に仁祖がホンタイジ(清の第2代皇帝)に降伏すると(三跪九叩頭の礼)、落胆して安東に隠居してしまいました。

1639年に清に人質になりますが、6年後に解放されて1645年には左議政に昇進しました。

そして、1652年、享年83歳で亡くなりました。

 

まとめ

安東金氏は3人の王妃を輩出して、外戚として勢力を拡大していった氏族です。

朝鮮王朝の後期には、王族をも恐れぬ一大勢力として朝廷を思うままに操っていました。

こうした一族による勢道政治は、朝廷を腐敗させ、民を困窮させていきました。

そして、500年に渡る朝鮮王朝の崩壊へとつながっていきました。

 

error: Content is protected !!