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憲宗の家系図【正祖の血を引く最後の王の生涯】

憲宗は正祖の血を引く最後の王です。

憲宗はどんな王だったのか?

家系図から詳しくご紹介します。

 

憲宗の家系図

父の孝明世子は22歳で亡くなっているため、純祖の孫の憲宗が8歳で王位を継承しました。

孝顕王后、孝定王后と二人の王妃を迎えますが、子供は生まれませんでした。

そのため、憲宗は正祖の血を引く王としては最後の王になりました

<憲宗の家系図>

 

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憲宗はどんな王だったのか?

憲宗は幼くして王になったため、祖母の純元王后が垂簾聴政を行いました。

そのため、7年後の15歳のときにやっと親政を始めることができました。

しかし、安東金氏と豊壤趙氏の政争に巻き込まれ、思うような政治が行えませんでした。

 

憲宗のプロフィール

第24代国王
生年:1827年7月18日
没年:1849年6月6日
在位:1834年12月13日-1849年7月25日
諱:烉(ファン)
字:文応(ムヌン)
号:元軒(ウォンホン)
廟号:憲宗
父:孝明世子
母:神貞王后趙氏(趙万永の娘)
陵墓:景陵

 

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憲宗の家族

憲宗の最初の王妃・孝顕王后は若くして亡くなったため、継室として孝定王后を迎えました。

孝顕王后との間に子供はできず、孝定王后との間には女の子が生まれましたが、幼くして亡くなっています。

<憲宗の家族>

関係 名前 生年-没年 子供 備考
正室 孝顕王后 1828-1843 なし 金祖根の娘
継室 孝定王后 1831-1904 なし 洪在龍の娘
側室 慶嬪金氏 1832-1907 なし
側室 淑儀金氏 1813-1895 1女 早世

そこで、側室に選ばれたのが慶嬪金氏でした。

慶嬪金氏は正式な揀択で選ばれた最後の側室で、ドラマ「カンテク」のカン・ウンボのモデルです。

憲宗は慶嬪金氏を大変寵愛し、宮廷内に住居・錫福軒を建てるほどでした。

慶嬪金氏については>>慶嬪金氏の家系図【憲宗から異例の寵愛を受けた側室】

 

憲宗の母・神貞王后

神貞王后は名門の氏族・豊壤趙氏の出身です。

 

豊壤趙氏を安東金氏の対抗勢力に

安東金氏の専横に悩まされた純祖が、対抗できる氏族として選んだのが名門・豊壤趙氏でした。

豊壤趙氏の趙萬永(チョ・マンヨン)の娘を息子(孝明世子)の嫁にすることで、対抗勢力を作ろうとしたのです。

 

孝明世子の死による豊壤趙氏の凋落

純祖は病弱な上に政治の力量がなく、飢饉や伝染病の蔓延で政治を続ける自信を失っていきました。

そこで、1827年、純祖は38歳になると19歳の孝明世子に代理聴政を任せます。

 

若く勢いのある孝明世子は代理聴政を始めると、安東金氏に代えて豊壌趙氏の一族や少論・南人・北人を採用していきました。

その結果、一時的に豊壤趙氏の勢力が強くなりました。

しかし、孝明世子が亡くなると、改革は頓挫、再び、安東金氏の勢力が盛り返していき、豊壤趙氏は凋落していきます。

 

神貞王后の恨み

神貞王后は一族を凋落させた安東金氏に深い恨みをもっていました。

後に興宣大院君と手を組み、高宗を王位に就け、安東金氏没落の一因に関わっています。

 

憲宗の生涯

1827年、純祖の息子孝明世子と神貞王后の長男として生まれました。

 

父・孝明世子の安東金氏との争い

純祖は孝明世子に代理聴政を行わせ、安東金氏に対抗しようとしました。

孝明世子の妻・神貞王后は名門一族豊壤趙氏の出身だったのです。

豊壤趙氏が後ろ盾となり、孝明世子は安東金氏一族を排除していきました。

 

孝明世子の逝去と王世孫の冊封

1830年、父親の孝明世子が22歳で突然、亡くなりました。

憲宗が急遽、王世孫に冊封されます。

安東金氏一族を排除してきた孝明世子が亡くなったことで、安東金氏の報復を恐れた純祖は趙萬永・趙寅永兄弟に世孫を守るように指示を出しました。

 

憲宗の即位と純元王后の垂簾聴政

1834年、純祖が逝去して、8歳で憲宗が即位しました。

母の神貞王后は王大妃になり、「孝裕王大妃」の称号が与えらました。

憲宗が幼いことから大王大妃の純元王后が垂簾聴政を行いました。

 

純元王后の策略による憲宗の結婚

趙萬永の弟・趙寅永が領議政になりましたが、安東金氏の勢力が徐々に拡大していきます。

1837年、憲宗は安東金氏の金祖根の娘(孝顕王后)と結婚することになります。

憲宗11歳、孝顕王后10歳

安東金氏の勢力を拡大したい純元王后の策略によるものでした。

 

憲宗の親政と朝鮮崩壊の兆し

1841年、憲宗は15歳で親政を始めました。

憲宗が親政を始めたころの1836年に「南膺中の謀反」、1844年に「関晋鏞の獄」と2つの謀反の動きがありました。

2件とも失敗に終わりますが、朝廷に不満を抱くものが多いことを示しています。

 

また、当時、身分制度を揺るがすカトリックへの大規模な弾圧が盛んに行われています。

朝鮮社会を支えてきた身分秩序と封建制度の崩壊の兆候が現われ始めていたのです。

 

西欧諸国の開国の要求

国内の秩序の乱れに四苦八苦するなか、海外からは頻繁に通商と門戸開放を要求して、西欧列強が朝鮮近海に現れるようになりました。

しかし、憲宗は安東金氏と豊壤趙氏の政争に巻き込まれ、国内はもちろん、海外の急激な変化に気づくことができませんでした。

 

憲宗の死

1849年6月、憲宗は何も対応できず23歳の若さで亡くなってしまいます。

憲宗に跡継ぎはいませんでした。

 

そこで、大王大妃の純元王后は安東金氏が権力を維持するため江華島にいた王族の元範を宮廷に招き、王位に就けました。

第25代国王の哲宗です。

哲宗について詳しくは>>哲宗の家系図で知る【驚き!お飾りの国王はお百姓だった】

 

まとめ

若くして王位に就いた憲宗は、安東金氏と豊壤趙氏の政争に巻き込まれ、思うような政治を取れずに亡くなってしまいます。

国内の政争に明け暮れている間に、国内の秩序は乱れ、海外は急激に変化していました。

そして、王権の無力化が朝鮮の崩壊に向かっていることに誰も気づきませんでした。

 

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