憲宗は正祖の血を引く最後の王です。正祖の血統はなぜ途絶えたのか。
この記事では憲宗の家系図をもとに、血統断絶の理由をその生涯とともに分かりやすく解説します。
憲宗の家系図
父・孝明世子が22歳で亡くなったため、純祖の孫である憲宗が8歳で即位しました。
憲宗は孝顕王后と孝定王后の二人の王妃を迎えますが、男子には恵まれませんでした。そのため、正祖の嫡流は憲宗の代で断絶することになります。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<憲宗の家系図>
憲宗の次の王は、正祖の嫡流が断絶したため、傍系から迎えられた哲宗が即位しました。哲宗は正祖の異母弟・恩彦君の孫にあたります。
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王統の維持のため、正室に子がない場合は側室を迎えることが一般的でした。憲宗も側室を迎え、後継者の確保を図っています。しかし、淑儀金氏に女子が生まれたのみで、男子には恵まれませんでした。
<憲宗の正室と側室>
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 子供 | 備考 |
| 正室 | 孝顕王后 | 1828-1843 | なし | 金祖根の娘 |
| 継室 | 孝定王后 | 1831-1904 | なし | 洪在龍の娘 |
| 側室 | 慶嬪金氏 | 1832-1907 | なし | |
| 側室 | 淑儀金氏 | 1813-1895 | 1女 | 早世 |
憲宗が寵愛した慶嬪金氏
慶嬪金氏は正式な揀択で選ばれた最後の側室で、ドラマ「カンテク」のカン・ウンボのモデルです。憲宗は慶嬪金氏を大変寵愛し、宮廷内に住居を与えるほどでしたが、それでも後継者には恵まれませんでした。
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憲宗は幼少で即位したため、祖母の純元王后が垂簾聴政を行いました。その後、15歳で親政を開始しますが、外戚である安東金氏と豊壤趙氏の対立に翻弄され、生涯、政務の主導権を握ることはできませんでした。
憲宗は若くして即位し、若くして亡くなった短命の王であり、外戚勢力が政治の実権を握る勢道政治の中で翻弄された人物といえます。
憲宗のプロフィール
没年:1849年6月6日(享年23歳)
在位:1834年11月18日-1849年6月6日
諱:烉(ファン)
字:文応(ムヌン)
号:元軒(ウォンホン)
廟号:憲宗
父:孝明世子
母:神貞王后趙氏
陵墓:景陵
憲宗の生涯
1827年、憲宗は孝明世子と神貞王后の長男として生まれました。
父の死と王世孫への冊封
1830年、世子であった父・孝明世子が22歳で亡くなり、憲宗は王世孫に冊封されました。安東金氏の勢力を牽制していた孝明世子が死去すると、純祖は政局の均衡を保つため、豊壤趙氏の趙万永・趙寅永兄弟に世孫の後見を命じました。
憲宗の即位と垂簾聴政
1834年、純祖が亡くなり、憲宗が8歳で即位しましたが、幼少であったため王大妃の純元王后が垂簾聴政を行いました。『憲宗実録』には、次のように記されています。
上卽位于崇政門。 奉王大妃, 行垂簾聽政禮于興政堂, 受朝賀頒敎, 大赦。
<憲宗実録:憲宗即位年11月18日条>
これにより、安東金氏は引き続き政治の主導権を握ることになります。
1837年、憲宗は安東金氏の金祖根の娘(孝顕王后)を王妃に迎え、安東金氏の政治基盤がさらに強化されました。
憲宗の親政と社会不安
1841年、憲宗は15歳で親政を始めましたが、外戚同士の対立により思うような政治は行えませんでした。
また、国内では「南膺中の謀反」や「関晋鏞の獄」などが起こり、反乱の動きや弾圧が相次ぐなど、政治的緊張が高まり社会不安が深刻化していきました。
憲宗の死と傍系の王位継承
1849年6月、憲宗は23歳で亡くなります。憲宗に跡継ぎはなく、正祖の直系はここで途絶えました。
純元王后は安東金氏の政権基盤を維持するため、江華島に流配されていた王族の元範(哲宗)を宮廷に招き、王位に就けました。
こうして王位は傍系へと移り、以後は安東金氏が政権の中心となり、勢道政治を主導していくことになります。
安東金氏の勢道政治についてはこちら>>安東金氏の家系図【3人の王妃が築いた外戚支配と勢道政治】
まとめ
憲宗は正祖の血を引く最後の王でした。しかし男子に恵まれなかったことで、正祖の直系はここで途絶え、王位は傍系へと移ります。
また、若くして王位に就いた憲宗は、安東金氏と豊壤趙氏の政争に巻き込まれ、思うような政治を行うことができませんでした。その結果、国内では王権基盤を十分に強化できず、国外情勢への対応も遅れることとなりました。
家系図から辿ることで、単なる人物像だけでなく、憲宗の時代が王朝の大きな転換点であったことが分かります。