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慶嬪金氏の家系図【憲宗から異例の寵愛を受けた側室】

慶嬪金氏は憲宗から特別な寵愛を受けた側室です。ドラマ「カンテク」のカン・ウンボのモデルと考えられています。

この記事では慶嬪金氏の家系図から出自や家族構成、そして生涯について分かりやすく解説します。

慶嬪金氏の家系図

慶嬪金氏は金興光を始祖とする朝鮮でも名門の光山金氏の出身です。有名な儒学者である金長生の子孫にあたります。

慶嬪金氏が揀択で側室に選ばれたとき、父・金在淸は主簿(下級官吏)の地位でした。また、祖父は金箕憲、曽祖父は金相說でともに牧使を務めた地方長官でした。

慶嬪金氏の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<慶嬪金氏の家系図>

また、同じ光山金氏には粛宗の正室・仁敬王后もおり、王妃を輩出する有力な家系であったことが分かります。

慶嬪金氏と仁敬王后の関係

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<慶嬪金氏と仁敬王后の関係>

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慶嬪金氏はどんな人物だったのか?

慶嬪金氏は、憲宗に寵愛された側室として知られています。彼女は憲宗の死後も、純元王后神貞王后に仕え、正室である孝定王后にも礼を尽くしていたことが記録からうかがえます。

孝定王后が入宮した慶嬪金氏を見て、次のように評価したことが、高宗実録に収められた誌文に記されています。

慶嬪姿稟充美, 德容幽閒, 將使國家麟趾、螽斯之慶, 本支百世蕃衍昌熾。
<高宗実録:高宗41年3月15日条>

<訳>慶嬪金氏は生まれつき容姿に恵まれ、徳とたたずまいは奥ゆかしく落ち着いている。やがて国家に麟趾・螽斯のような子孫繁栄の慶びをもたらし、本家・分家ともに百世にわたって繁栄し大いに栄えるであろう。

慶嬪金氏プロフィール

慶嬪金氏(キョンビンキムシ)
生年:1832年
没年:1907年(享年76歳)
氏族:光山金氏
墓所:西三陵内貴人墓地
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慶嬪金氏の家族

慶嬪金氏は父・金在淸と母・平山申氏の間に、3男1女の長女として生まれました。

関係 名前 備考
金在淸
平山申氏 申命河の娘
長男 金膺鉉 養子、金在敬の3男
次男 金文鉉 養子、金在弘の2男
三男 金正鉉
長女 慶嬪金氏

金膺鉉と金文鉉は養子で、金膺鉉は金在敬の三男、金文鉉は金在弘の次男です。同族内で養子を迎えることは、家系継承を重視する朝鮮時代に多く見られました。

慶嬪金氏の生涯

慶嬪金氏は、朝鮮王朝で公式に選ばれた最後の側室でした。憲宗の最初の王妃・孝顕王后が16歳で亡くなり、1844年に孝定王后が継室として迎えられます。

しかし、その後も後継ぎが生まれなかったため、王統維持のために側室の揀択が行われることになりました。このとき選ばれたのが慶嬪金氏です。

憲宗からの異例の寵愛

憲宗は慶嬪金氏を大変気に入り、昌徳宮内に慶嬪金氏のための住居・錫福軒(ソッポゴン)を建てます。側室の住居を宮廷内に建てることは異例の待遇でした。憲宗の慶嬪金氏に対する寵愛の深さが伺えます。

憲宗の死とその後

しかし、憲宗は1849年6月に病のため、23歳の若さで亡くなります。慶嬪金氏は憲宗が亡くなると宮廷を離れて生活しますが、正室とも良好な関係を続け、宮中行事にも参加していました。

1907年、76歳でその生涯を終え、現在は西三陵の後宮墓に眠っています。

慶嬪金氏の生涯について、さらに詳しくは次の記事でご紹介しています。

カンテクの実話を史実で検証【モデルは憲宗と慶嬪金氏】
王妃選びの揀択を題材にしたドラマ「カンテク」は、史実を巧みに取り込んだフィクションでした。イ・ギョン、ウンボのモデルからイ・ジェファの意外なモデルまで、カンテクの隠れた実話要素を史実から詳しく検証します。

慶嬪金氏の経歴と出来事

慶嬪金氏の主な出来事を年表で整理すると、次の通りです。

出来事
1832 金在淸の長女として生まれる
1843 正室・孝顯王后が亡くなる
1844 孝定王后が継室となる
1847 揀択で側室に選ばれる
1848 錫福軒が設けられる
1849 憲宗が病気で亡くなる
1907 76歳で死去

まとめ

慶嬪金氏は光山金氏という名門の出身で、揀択によって憲宗の側室となりました。側室でありながら専用の住居を与えられるなど、異例の寵愛を受けた人物です。しかし、不幸なことに憲宗は若くして亡くなります。

憲宗の死後、慶嬪金氏は宮廷を離れて暮らしますが、王室との関係は保ちながら76年の長い生涯を送りました。

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