慶嬪金氏は憲宗から大変寵愛を受けた側室です。
ドラマ「カンテク」のカン・ウンボのモデルと考えられます。
慶嬪金氏はどんな女性だったのか?
家系図から詳しく調べてみました。
慶嬪金氏の家系図
慶嬪金氏は金興光を始祖とする朝鮮でも名門の光山金氏の出身です。
有名な儒学者である金長生の子孫にあたります。
<慶嬪金氏の家系図>
粛宗の最初の正室であった仁敬王后も光山金氏の出身でした。
<慶嬪金氏と仁敬王后の関係>
【PR】スポンサーリンク
慶嬪金氏はどんな人物だったのか?
慶嬪金氏は揀択で選ばれた側室でしたが、憲宗から大変寵愛を受けた側室でした。
その寵愛ぶりは昌徳宮内に慶嬪金氏のための住居・錫福軒(ソッポゴン)を建てたほどでした。
慶嬪金氏は憲宗が亡くなってからも純元王后や神貞王后を懸命に支え、正室の孝定王后にも礼を尽くしたと言われています。
こうした慶嬪金氏の徳の高さに憲宗は心を奪われたものと思われます。
慶嬪金氏プロフィール
生年:1832年
没年:1907年
氏族:光山金氏
父:金在淸
母:平山申氏(申命河の娘)
墓所:西三陵内貴人墓地
【PR】スポンサーリンク
慶嬪金氏の家族
慶嬪金氏の父親は黄海道觀察使吏曹參議を務めた金在淸です。
3男1女の長女として生まれました。
父:金在淸
母:平山申氏(申命河の娘)
長男:金膺鉉(養子、金在敬の3男)
次男:金文鉉(養子、金在弘の2男)
三男:金正鉉
長女:慶嬪金氏
金膺鉉と金文鉉は養子で、金膺鉉は金在敬の三男、金文鉉は金在弘の次男でした。
慶嬪金氏の生涯
慶嬪金氏は、朝鮮王朝で公式に選ばれた最後の側室でした。
憲宗の最初の王妃である孝顯王后が16歳で亡くなると、翌年の1844年に孝定王后が継室として選ばれました。
しかし、3年経っても憲宗との間に子供ができませんでした。
世継ぎができないことを心配した大王大妃(純元王后)は側室を揀択で迎えることを決めます。
そこで選ばれたのが慶嬪金氏でした。
憲宗は慶嬪金氏を大変気に入り、昌徳宮内に慶嬪金氏のための住居・錫福軒(ソッポゴン)を建てます。
側室の住居を宮廷内に建てることは異例中の異例でした。
それほど、憲宗は慶嬪金氏を寵愛していたといえます。
しかし、憲宗は1849年6月に病のため、23歳の若さで亡くなってしまいました。
慶嬪金氏は憲宗が亡くなると宮廷を離れて暮らし、1907年に76歳で亡くなっています。
在命中は義理の祖母や義理の母、そして正室とも良好な関係を続け、宮廷内の行事には主要な人として招かれたそうです。
もっと詳しくは>>カンテクの実話【驚き!史実を巧みに取り込み創作された物語】を御覧ください。
慶嬪金氏の経歴と出来事
慶嬪金氏の経歴を関連する出来事と合わせてまとめました。
1832年:金在淸の長女として生まれる。
1843年:憲宗の正室孝顯王后が亡くなる
1844年:継室として孝定王后が選ばれる
1847年:揀択で16歳の慶嬪金氏が側室に選ばれる
1848年:慶嬪金氏の住居・錫福軒を建てる
1849年:憲宗が病気で亡くなる
1907年:慶嬪金氏が享年76歳で亡くなる
まとめ
慶嬪金氏はドラマ「カンテク」のカン・ウンボのモデルになった女性でした。
揀択で選ばれた朝鮮王朝最後の側室でしたが、憲宗から大変寵愛を受けました。
しかし、不幸にも若くして夫の憲宗を亡くしてしまいます。
憲宗が亡くなってからは宮廷を離れますが、76歳で生涯を閉じるままで王室とは良好な関係を続けました。