金庾信は金春秋とともに三国統一の貢献者として評価されています。
英雄・金庾信はどんな人物だったのか。
家系図から調べてみました。
金庾信の家系図
金庾信(キム・ユシン)は金官伽耶国を開国した首露王を始祖とする金海金氏の出身です。
祖先は曽祖父の仇衡王が新羅に降伏するまで、代々、金官伽耶国の王位を受け継いできました。
<金庾信の家系図>
曽祖父の第10代王・仇衡王は新羅の激しい攻撃に耐えかねて、遂に、新羅に投降しています。
そのときに、王妃及び3人の王子(奴宗、武徳、武力)を連れ、国の財物・宝物を持参しました。
降伏してきた仇衡王に対して、新羅の法興王は貴族である「真骨の身分」と「金の姓」を与えて、新羅の王族に準ずる破格の待遇をしています。
新羅の貴族となった祖父の金武力は新羅で新州道行軍総管となり、百済との戦で聖王を戦死させるなど数々の功績をあげて新羅に貢献しています。
また、父・金舒玄(キム・ソヒョン)は新羅の地方官を務めて新羅に貢献していますが、万弩郡の太守だった時に息子の金庾信が生まれています。
金舒玄は最終的に蘇判大梁州都督安撫大梁州諸軍事の官職まで務めました。
両親の結婚を許さなかった母方の祖父・金粛訖宗には、立宗と只召太后の間に生まれた真興王の実の弟という説と母親は金珍娘主という異母弟説があります。
【PR】スポンサーリンク
金庾信はどんな人物だったのか?
金庾信(キム・ユシン)は「三国史記」の列傳巻41~43の3巻に記録されるなど、三国統一の功績を高く評価されている人物です。
登場するドラマでも、常に主役級の存在感を見せる武将として描かれたいます。
実際に史実でも、新羅の総司令官として百済、高句麗を滅ぼし、武烈王とともに三国統一の立役者でした。
金庾信のプロフィール
生年:595年
没年:673年
享年:79歳
父:金舒玄
母:萬明夫人(金粛訖宗の娘)
正室:英毛夫人(美室の孫娘)
瑜毛夫人
智炤夫人(武烈王の娘)
【PR】スポンサーリンク
金庾信の家族
金庾信(キム・ユシン)の父親は金官伽耶国の王の子孫であり、母親もまた新羅の王の子孫でした。
三国史記によると、萬明夫人の父・粛訖宗に結婚を反対された二人は駆け落ちをして一緒になっています。
二人がその後、許された記録はありませんが、金庾信の父・金舒玄は新羅の将軍として百済との戦いで数々の戦功を上げて活躍しています。
金庾信の親兄弟
金庾信は2男3女の長男として生まれました。
次女は金春秋(武烈王)の正室に、長女は側室になっています。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 金舒玄 | 564-不詳 | |
母 | 萬明夫人 | 不詳 | 金粛訖宗の娘 |
長男 | 金庾信 | 595-673 | |
次男 | 金欽純 | 599-不詳 | 第19代風月主 |
長女 | 金宝姫 | 不詳 | 武烈王の側室 |
次女 | 文明王后 | 不詳 | 武烈王の王妃 |
三女 | 金政姬 | 不詳 |
金庾信の家族
金庾信の最初の正室・英毛夫人は美室と世宗の間に生まれた長男・夏宗の娘でした。
つまり、美室の孫娘にあたります。
また、3番目の継室・智炤夫人は武烈王と文明王后(金庾信の妹)の娘であり、実の姪にあたります。
関係 | 名前 | 備考 | |
正室 | ー | 英毛夫人 | 最初の夫人、夏宗の娘 |
長男 | 金三光 | ||
長女 | 金晋光 | ||
次女 | 金信光 | 文武王の側室 | |
三女 | 金酌光 | 宝路殿君夫人 | |
四女 | 金令光 | ||
継室 | ー | 瑜毛夫人 | |
継室 | ー | 智炤夫人 | 武烈王と文明王后の娘 |
次男 | 金元述 | ||
三男 | 金元貞 | ||
四男 | 金長耳 | ||
五男 | 金元望 | ||
夫人 | ー | 天官女 | |
六男 | 金郡承 | ||
夫人 | ー | 不詳 | |
七男 | 金施得 | ||
養子 | 金官昌 |
金庾信の生涯
金庾信(キム・ユシン)は幼少の頃から萬明夫人に厳しい教育を受けたと言います。
聡明で知略に富んだ金庾信は花郎に入ると、メキメキと頭角を表していきました。
善徳女王が即位すると、金庾信は金春秋とともに百済軍を次々と破り、最後は百済を滅亡に追い込んでいます。
そして、遂に最大の敵、高句麗を倒して三国統一を成し遂げます。
三国統一の英雄・金庾信の生涯をご紹介していきます。
花郎の国仙になる
595年、金庾信は伽耶で金舒玄と萬明夫人の間に長男として生まれました。
幼少の頃の記録はありません。
1610年、金庾信は16歳で花郎になると、メキメキと頭角を表して行きました。
翌年の611年には花郎の幹部「国仙」となっています。
その名を轟かせた娘臂城の戦い
629年、副将となった初陣で金庾信は高句麗の娘臂城(ナンビソン)に攻め込みました。
娘臂城は陥落、この娘臂城の戦いは金庾信の名を一躍有名にしました。
善徳女王の即位と新羅の危機
632年、真平王が亡くなると、善徳女王が第27代王として即位しました。
金庾信は金春秋と共に、朝鮮半島初の女王・善徳女王を補佐していきます。
641年、百済で義慈王が即位すると、打倒新羅に燃える義慈王は新羅への侵攻を開始しました。
新羅は百済に次々と城を陥落させられ、新羅は国家存亡の危機に立たされます。
この窮地を打開するために、金春秋が高句麗に援軍を求めに行きました。
しかし、交渉は決裂、金春秋は高句麗の捕虜になってしまいました。
金庾信は生涯の友・金春秋を救うために、1万の兵を率いて高句麗に向かいました。
すると、これを聞いた高句麗は慌てて、金春秋を釈放したといいます。
将軍・金庾信の活躍
643年、新羅は唐に使者を派遣して、援軍の要請をしましたが、交渉は決裂、新羅は単独で百済、高句麗と戦う道を選びました。
644年、上将軍となった金庾信は、百済の7つの城を陥落させる大活躍をみせます。
その後、644年から649年まで、新羅と百済は激しい戦闘を繰り返しました。
毗曇の乱と真徳女王の擁立
647年、上大等に就任した毗曇(ピダム)が女性の君主に不満を抱き、反乱を起こしました。
毗曇(ピダム)の乱です。
毗曇の乱は金庾信により鎮圧されますが、反乱の最中に善徳女王が亡くなってしまいました。
そこで、金庾信は金春秋と共に真徳女王の擁立に動きました。
真徳女王が王位に就き、金庾信と金春秋は政治的実権を完全に掌握することに成功します。
唐と新羅の同盟成立
644年から続く、百済との戦闘は648年現在も収まる気配がありませんでした。
そこで、金春秋は新羅が高句麗と百済の麗済同盟に対抗するために唐に救援を求めに行きました。
今度は、金春秋の巧みな交渉術が成功します。
武烈王を擁立
649年、金庾信は金春秋の娘(智炤夫人)と結婚して、金春秋との絆をより深いものにしています。
先妻を亡くした金春秋は王妃として金庾信の妹(文明王后)を迎えていました。
この頃、金庾信は新羅最上級の官位である大角干(テガッカン)を贈られています。
654年、真徳女王が亡くなる、金庾信は金春秋を王に推戴しました。
この時、多くの臣下が閼川(アルチョン)を推薦しましたが、閼川は老いと実力不足を理由に断っています。
遂に、三国統一を目指す金庾信の盟友・金春秋が第29代武烈王として即位したのです。
金春秋の娘と結婚
655年10月、金庾信は金春秋(武烈王)の娘の智炤王女(チソ王女)を嫁にもらい、金春秋との絆をより深めています。
このとき、金庾信は既に61歳でした。
還暦を迎える年寄りに自分の娘を嫁がせるなど、金春秋にとっては金庾信の信頼と忠信を得るための政略結婚の意味合いが大きかったと思われます。
しかし、金庾信は智炤王女を妻として寵愛し、二人の間には4人の息子が誕生しています。
百済を滅ぼす
660年、唐と新羅の連合軍が百済へ侵攻、黄山伐の戦いで勝利しました。
この戦いは百済の将軍階伯が戦死した戦いとして有名です。
そして、遂に、百済が滅亡、300年以上続いた百済の歴史が幕を閉じました。
三国統一を成し遂げる
百済を滅ぼした最大の功労者・金庾信は上大等に任ぜられて宰相の地位に就きました。
しかし、661年、長年共に戦った盟友の武烈王が亡くなります。
享年59歳でした。
武烈王逝去の後は、息子が王位を継承して第30代王・文武王として即位しました。
そして、668年、金庾信と武烈王の長年の夢がかないます。
新羅と唐の連合軍が高句麗も滅ぼし、遂に三国統一を成し遂げたのです。
この功績を称え、文武王が金庾信に太大角干の官位を贈っています。
太大角干は、それまでの新羅の最上位の官位・大角干を上回る官位として新設された官位でした。
それほど、金庾信の功績は大きかったのです。
金庾信の最後
673年7月1日、金庾信が亡くなりました。
享年79歳でした。
金庾信は慶尚北道慶州市仙桃洞にある金庾信墓に埋葬されています。
<金庾信の墓>
金庾信墓の周囲には石に刻まれた十二支神像が配置されています。
そして、何より王陸に相当する大きな墓は、金庾信が三国統一を成し遂げた英雄であることを物語っています。
また、亡くなってから162年経った835年、興徳王は金庾信を興武大王に追尊しています。
金庾信は王と同列に祭り上げられたのです。
金庾信が登場するドラマ
日本では善徳女王に登場するオム・テウン演じる金庾信がよく知られています。
三国記
(1992年、ソ・インソク)
淵蓋蘇文
(2007年、イ・ジョンス/ユン・スンウォン)
善徳女王
(2009年、イ・ヒョヌ/オム・テウン)
階伯
(2011年、パク・ソンウン)
大王の夢
(2012年、ノ・ヨンハク/キム・ユソク)
( )内は演じた俳優です。
まとめ
三国統一を成し遂げた金庾信(キム・ユシン)は、まさに韓国一有名な武将でした。
日本ではドラマの影響で善徳女王の方が有名ですが、韓国では金庾信と金春秋の方がはるかに国民的な英雄です。
特に、金庾信は今でも三国統一の最大級の貢献者として評価されています。