太宗、世宗と2代に渡って仕えた忠臣の尹淮(ユン・フェ)です。
しかし、一方では大酒飲みで多くの失態を演じています。
尹淮とはどんな人物だったのか?
家系図から詳しく調べました。
尹淮の家系図
尹淮(ユン・フェ)は尹良庇を始祖とする茂松尹氏一族の出身です。
尹良庇は、後唐の戦乱を避けるために中国から全羅北道高敞郡に亡命した尹鏡の子孫です。
<尹淮の家系図>
曽祖父は高麗末期に贊成事を務めた尹澤です。
祖父の尹龜生は判典農寺事を務め、父の尹紹宗は同知春秋館事を務めています。
尹淮は役人の一家で生まれ育ったのです。
特に、父親の尹紹宗は趙浚や鄭道傳と同様に李成桂の側近中の側近で、朝鮮王朝建国に貢献した功臣でした。
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尹淮はどんな人物だったのか?
尹淮は父の友人であった鄭道傳や河崙の門下生として学問を学びました。
朝廷では太宗や世宗に仕え、重臣の一人として仏教を排斥し、性理学を国教にすることに貢献しています。
特に、世宗の後世に残る功績の多くを支援しました。
申叔舟は尹淮の門人の一人であり、後に尹淮の孫娘と結婚させています。
尹淮のプロフィール
尹淮(ユン・フェ)は幼少の頃から記憶力がよく、一度見たものは忘れなかったといいます。
その凄さは、10歳の若さですでに「通鑑綱目」を丸暗記するほどでした。
まさに、天才と称賛される神童でした。
しかし、大の酒好きで大酒飲みのため、前日飲みすぎて公務に遅れたり、公務中に飲んで弾劾されるなど、酒のトラブルは絶えませんでした。
尹淮(ユン・フェ)
字:清卿
号:清香堂/鶴川
諡号:文度
生年:1380年
没年:1436年
享年:57歳
氏族:茂松尹氏
父:尹紹宗
母:咸陽朴氏(朴瓊の娘)
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尹淮の家族
尹淮(ユン・フェ)には長男の尹景淵(ユン・ギョンヨン)と次男の尹景源(ユン・ギョンウォン)の二人の息子がいました。
尹淮は彼の門下生として出入りしていた申叔舟(シン・スクチュ)の才能の高さに惚れ込み、長男・尹景淵の娘を申叔舟に嫁がせました。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 尹紹宗 | 1345-1393 | |
母 | 咸陽朴氏 | 不詳 | 朴瓊の娘 |
妻 | 不詳 | 不詳 | |
長男 | 尹景淵 | 不詳 | ユン・ギョンヨン |
次男 | 尹景源 | 不詳 | ユン・ギョンウォン |
尹淮の生涯
1380年、尹淮(ユン・フェ)は尹紹宗の息子としてに生まれました。
幼い頃から、父親尹紹宗の教育を受け、父親の友人でもあった鄭道傳と河輪の門下で学問を学んでいます。
鄭道傳は早くから尹淮の優れた才能を感じていたといいます。
太宗に評価された官僚時代
1393年、父親の尹紹宗が亡くなると、尹淮は辛巳科進士となり僉知承文院事(外交文書を担当する官庁)に就任しています。
1401年4月9日、増広文科に乙科で合格した尹淮は、最初の官職として司宰直長に任命されました。
科拳の試験官を担当した河崙は尹淮の才能を高く評価したといいます。
尹淮(ユン・フェ)は官僚として順調に出世していきました。
1406年、兵曹佐郞(正六品)、1407年に礼曹正郞(正五品)、1409年に吏曹正郞(正五品)を務めています。
文章を作成することに長けた尹淮は数々の史料の編纂にもその才能を発揮しました。
1410年、記注官となった尹淮は趙末生、申檣などともに太祖実録の編纂に参加しています。
1415年8月29日、知承文院事であった尹淮は奴婢辨正都監の第十房を担当し、奴隷解放に死力を尽くし、実務でも力を発揮しました。
太宗は尹淮の資質と学問を高く評価、代言に抜擢して近くに仕えさせたほどでした。
その後、尹淮は兵曹参議に昇進、忠寧大君(後の世宗)の側近として活動を始めました。
特に、太宗と世宗の両方から信頼を得ていた尹淮は、太宗と世宗の間の伝達で重要な役割を果たといいます。
世宗の片腕として活躍
1418年6月、尹淮(ユン・フェ)は判典醫監事に任命されました。
この年の8月11日、太宗が譲位して忠寧大君は第4代王として即位しています。
このとき、尹淮は判承文院事經筵侍講官に任命されると、その後、同副代言、右副代言を歴任、1419年12月7日には兵曹参議に任命されています。
1420年、集賢殿が設置されると、尹淮は集賢殿不要論を唱える勢力に立ち向かい、鄭麟趾(チョン・インジ)と共に集賢殿を守り抜きました。
その結果、集賢殿は次第に学問や科学の研究機関として、また王の知恵袋として定着していきます。
世宗が朝鮮独自の言語を創製したときには、多くの者が反対する中、尹淮は積極的な支持派として世宗を支えています。
1422年、太宗が亡くなり、世宗の親政が始まると、同年12月、尹淮は実質的な集賢殿の長である副提学となりました。
こうして、尹淮は世宗の政策実現には欠かせない重要な臣下となっていきます。
実録や高麗史の編纂に参加
文章を作成することに長けた尹淮は数々の史料の編纂にもその才能を発揮しました。
1410年、記注官となった尹淮は趙末生、申檣などともに太祖実録の編纂に参加しています。
また、1424年には、集賢殿副提学として柳觀などと共に鄭道伝の「高麗史」を校正を担当しました。
1430年には河崙の推薦を受けて、金瞻、朴儕とともに太宗実録を編纂に参加しています。
1432年には、孟思誠(メン・サソン)らと共に「八道地理志」を編纂、1434年には「自治通鑑訓議」を編纂しました。
1434年6月には、權蹈や偰循らと資治通鑑の編纂を命じら、完成した資治通鑑は通鑑訓義と名付けられています。
数多くの史料の編纂に貢献した尹淮は、1434年6月28日に藝文館の大提學に就任しています。
尹淮の最後
1431年頃から尹淮(ユン・フェ)は風疾を患い始めます。
うろくに治療もせずに仕事を続ける尹淮の病状は次第に悪化していきました。
1433年、尹淮の病状を心配した世宗は医者を派遣して診察させ、内需所の良い薬を送って診療させたといいます。
しかし、尹淮は休むこと無く、職務を遂行、資治通鑑訓義、資治通鑑訓義、歷代世年歌などの編纂に参加しています。
1436年3月12日、病床に伏した尹淮が静かに亡くなります。
享年56歳でした。
大酒飲みで大失態
尹淮が大酒飲みだったことは有名な話ですが、就任そうそう酒で大失態を演じてしまいます。
1401年11月13日、明の使臣が来るというので、尹淮は使臣館に抜擢され、貿易で交換する馬の数を記録を任されました。
ところが、前日に飲んだ酒のために、遅刻して巡軍獄に投獄されてしまったのです。
大酒飲みの尹淮は、その後も酒で、度々失態を演じることになります。
1420年9月13日、尹淮は冊寶使が百官を従えて宗廟祭礼をする際に、酒に酔って列に入り失儀不敬を犯したと弾劾されています。
流石にこのときは、翌日、世宗は直接尹淮を呼んで厳しく叱責、酒の飲み過ぎを禁止させるほどでした。
しかし、尹淮の大酒飲みは直りませんでした。
1430年12月22日には、当時、世子賓客であった尹淮が酒によって世子の講義を欠席して、司憲府から処罰を求められました。
このとき、世宗は金宗瑞に「私が注意したのは一度や二度ではない、王命はどんなに難しくても従うべきなのに、酒を控えることがそんなに難しいことなのか」と愚痴をこぼしています。
まとめ
尹淮(ユン・フェ)は太宗と世宗に仕えた忠臣でした。
特に、世宗が即位してからは世宗の側近として、集賢殿の定着化、ハングル創製などで大きく世宗を支えました。
一方、酒が大好きで、飲みすぎての失敗談は数多く残っています。
大失態を演じても、世宗は彼の体を心配し、厳しい処罰を与えることはありませんでした。
尹淮は世宗が偉大な功績を残すために必要不可欠な存在だったのです。