カンテクは史実の時代背景や人物、出来事を巧みに取り込みアレンジしたフィクションです。
参考にした史実とは何か?
イ・ギョン、ウンボのモデルとは?
カンテクの実話をご紹介していきます。
カンテクの実話
ドラマ「カンテク」では、キム氏一族とチョ氏一族の激しい派閥争いがありました。
これは、史実における安東金氏一族と豊壌趙氏一族の争いをモチーフにしています。
こうした実話を物語は巧みに取り込み展開しています。
では、カンテクが参考にしたと思われる実話を具体的にご紹介していきます。
安東金氏が朝廷を独占(勢道政治)
1802年、安東金氏の一族は純祖(正祖の息子)に金祖淳の娘を王妃として嫁がせました。
純元王后です。
純祖が実権を握ると、純祖の外戚として安東金氏の一族が朝廷での勢力を拡大していきました。
金氏一族の純元王后も実家の権力拡大に積極的に加担したといいます。
こうして、外戚が朝廷の重要な官職を専有する勢道政治が始まりました。
ドラマで朝廷を牛耳るキム氏一族のモデルはこの安東金氏の一族です。
豊壌趙氏の躍進
安東金氏の勢力に悩まされた純祖は息子の孝明世子の嫁に抵抗できる勢力の女性を選びました。
その勢力とはの豊壌趙氏一族です。
1819年に孝明世子は神貞王后と結婚します。
純祖は豊壌趙氏の一族を朝廷の要職に就けて勢力の拡大を図りました。
この策略により、安東金氏の勢力は一時弱まります。
ドラマでキム氏一族と対抗するチョ氏一族のモデルが豊壌趙氏の一族です。
純祖の逝去と憲宗の即位
一時、勢いを失った安東金氏でしたが、1830年に孝明世子が亡くなると、再び、勢力を盛り返してきました。
王より先に世子が亡くなったのです。
そのため、1834年に純祖が亡くなると、孝明世子の息子の憲宗が即位します。
憲宗はまだ8歳と幼かったため、憲宗の祖母である純元王后が垂簾聴政を行いました。
ドラマの王様・イ・ギョンのモデルが憲宗と考えられます。
1837年、純元王后は一族の基盤を盤石にするため、当時10歳だった憲宗の結婚相手に自分の親族の娘を選びます。
安東金氏一族の孝顕王后です。
しかし、1849年、孝顕王后は16歳の若さで亡くなってしまいます。
憲宗の継室選び
1844年に王妃の孝顕王后が亡くなると、王妃選びの揀択が行われました。
揀択の結果、王妃には純元王后の一存で孝定王后(南陽洪氏一族)が選ばれます。
世継ぎが期待されましたが、3年経っても憲宗と孝定王后の間に子供はできませんでした。
1847年、世継ぎができない危機感から、純元王后は側室を選ぶ揀択を指示します。
そこで選ばれたのが、
金在清の娘・慶嬪金氏でした。
慶嬪金氏は名家である光山金氏の出身ですが、光山金氏は豊壤趙氏と親交がありました。
継室選びでは純元王后(安東金氏)の一存だったことから、側室選びでは豊壤趙氏に一歩譲ったようにみられます。
彼女は朝鮮王朝で公式に選ばれた最後の側室で、側室になるとすぐに側室最上位の「嬪」の品階が与えられました。
ドラマのカン・ウンボのモデルがこの慶嬪金氏と考えられます。
慶嬪金氏について詳しいことは>>慶嬪金氏の家系図【憲宗から異例の寵愛を受けた側室】を御覧ください。
憲宗の異例の寵愛
憲宗は慶嬪金氏を大変寵愛します。
何と翌年には、昌徳宮内に慶嬪金氏のための住居・錫福軒(ソッポゴン)を建てたのです。
しかも、憲宗の書斎兼サランチェ(おもてなしの別宅)である樂善齋(ナクソンジェ)の隣にです。
<錫福軒の外観>
側室の住居を宮廷内に、しかも王様のサランチェ(別宅)の隣に建てることは異例中の異例でした。
このことからも、憲宗が慶嬪金氏をどれほど気に入っていたのかが分かります。
しかし、憲宗は1849年6月に病のため23歳で亡くなってしまいます。
慶嬪金氏が揀択で側室に選ばれてから、僅か2年後のことでした。
憲宗はまともな政治を執ることもなく、安東金氏と豊壌趙氏の権力争いに翻弄された一生でした。
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野史によるエピソード
女官たちの口伝えによると、継室選びの揀択のときに、憲宗も強引に同席したと言われています。
憲宗は最終候補に残った三人のうち慶嬪金氏が大変気に入ります。
しかし、最終的に大王大妃の一存で王妃は孝定王后に決まりました。
新たな王妃を迎えても、憲宗は慶嬪金氏のことが忘れられませんでした。
そこで、3年後に孝定王后には子供ができないと言う理由で、憲宗は慶嬪金氏を側室に迎えます。
ドラマ「カンテク」を思い出させるドラマチックエピソードですが、この話は事実ではありません。
実は、継室選びの過程は全て記録に残されていますが、再揀択に残った7人の中には金在清の娘(慶嬪金氏)はいなかったのです。
しかし、ドラマ「カンテク」は、このエピソードをヒントに創作されたことは間違いないでしょう。
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謀反人のイ・ジェファは哲宗がモデル?
史実では憲宗が亡くなると、祖母の純元王后は安東金氏の権力を維持するため、豊壌趙氏が動く前に手を打ちます。
何と、江華島に配流されていた憲宗の再従叔父の元範を呼び入れて、新王に据えたのです。
第25国王の哲宗です。
哲宗は江華島で農業を営む百姓でしたので、政治のことは一切分かりませんでした。
純元王后はそれを理由に再び安東金氏をバックとした垂簾聴政を始めます。
ドラマでは王が暗殺されたとき、イ・ジェファが次期王の候補として流刑地から呼び戻されます。
しかし、王のイ・ギョンが蘇ったため、王位に就くことはありませんでした。
流刑地暮らし、農業を営む田舎者、反逆者の孫など、イ・ジェファは哲宗をモデルにしたと考えられます。
登場人物のモデル
ドラマ「カンテク」に登場する主要な人物は、実在した人物をモデルにしています。
役名 | 実在のモデル | 史実 |
カン・ウンボ | 慶嬪金氏 | 憲宗が寵愛した側室 |
イ・ギョン | 憲宗 | 第24代国王 |
大王大妃ミン氏 | 純元王后 | 憲宗の祖母、金氏一族 |
大妃キム氏 | 神貞王后 | 憲宗の母、趙氏一族 |
イ・ジェファ | 哲宗 | 第25代国王 |
キム氏一族 | 安東金氏の一族 | |
チョ氏一族 | 豊壤趙氏の一族 |
史実では、憲宗の母親の神貞王后は豊壌趙氏一族の出身、祖母の純元王后は安東金氏の出身です。
ドラマでは、母親と祖母の出身を入れ替えてアレンジされています。
まとめ
カンテクは史実の時代背景や人物、出来事を巧みに取り込み創作されたフィクションでした。
架空の物語としていますが、史実と突き合わせると「なるほど!」と納得する部分も多いドラマです。
史実を知ってから、再度、ドラマを見ると新たな発見ができるドラマです。