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孝定王后の家系図【政争の渦中に飛び込んだ王妃】

安東金氏と豊壤趙氏の政争の中に嫁いだ孝定王后

孝定王后はどんな王妃だったのか?

家系図から詳しく調べました。

 

孝定王后の家系図

孝定王后は高麗の功臣であった洪殷悦を始祖とする南陽洪氏の出身です。

洪殷悦は中国から帰化した洪天河の子孫でした。

洪天河は唐の学者として高句麗に派遣されましたが、唐に動乱が起こり新羅に亡命しています。

<孝定王后の家系図>

 

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孝定王后はどんな王妃だったのか?

孝定王后が入宮したときには、義祖母・純元王后と義母・神貞王后が健在で激しく火花をちらしていました。

そのため、孝定王后は目立ったことはせず、控えめに暮らしていたと思われます。

孝定王后に関するエピソードはほとんどありません。

 

孝定王后のプロフィール

孝定王后(ヒョジョンワンフ)
生年:1831年1月22日
没年:1903年11月15日
享年:73歳
夫:憲宗
子女:なし
氏族:南陽洪氏
父親:洪在龍(益豊府院君)
母親:延昌府夫人(竹山安氏)

 

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孝定王后の家族

憲宗との間に女の子が生まれていますが、幼い頃に亡くなっています。

関係 名前 生年-没年 備考
韓浚謙 1794-1863 益豊府院君
延昌府夫人 不詳-1883
洪鍾奭 1834-1870 礼曹伴書を歴任
洪鍾譱 生没年不詳
憲宗 1827-1849 第24代王
子女 不詳 不詳 早世

 

孝定王后の生涯

1831年、孝定王后は洪在龍と延昌府夫人のあいだに生まれました。

 

憲宗の最初の妃・孝顕王后の死

1834年、憲宗がわずか8歳で第24代王として即位しました。

その3年後の1837年、最初の王妃の孝顕王后が11歳で憲宗に嫁いでいます。

しかし、孝顕王后は1843年、昌徳宮大造殿にて17歳の若さで亡くなります。

 

孝定王后が王妃になる

1844年に孝定王后が憲宗の王妃に冊封されました。

しかし、1849年、夫の憲宗が亡くなり、孝定王后は19歳で大妃となっています。

王は第25代王・哲宗に代わっています。

1857年、第23代国王純祖の正室・純元王后(大王大妃)が亡くなり、義母・神貞王后が大王大妃、孝定王后は王大妃に昇格しました。

 

孝定王后の最後

1903年、孝定王后は享年73歳で慶運宮寿仁堂にて逝去しています。

この間、1863年に哲宗が亡くなり、高宗が第26代王に即位

1890年、憲宗の母・神貞王后(大王大妃)の逝去

1894年、朝鮮が大韓帝国に改名

など、様々な出来事がありましたが、孝定王后は特に目立った行動はなく、静かに最後を迎えたようです。

現在、景陵に憲宗と第一王妃であった孝顯皇后とともに眠っています。

 

まとめ

孝定王后は義祖母・純元王后と義母・神貞王后のもとで、ほとんど目立つことがありませんでした。

子供にも恵まれず、19歳で夫にも先立たれました。

しかし、73歳の天寿を全うして静かに亡くなり、夫と先妻の側に埋葬されています。

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