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金亀柱の家系図【貞純王后の兄・キム・ギジュの系譜と生涯】

金亀柱(キム・ギジュ)は、英祖の継室・貞純王后の兄として知られる実在の人物です。

この記事では、金亀柱の家系図を手がかりに、その祖先から人物像、そして官僚としての出世から失脚まで波乱の生涯を史実に基づき詳しく解説します。

金亀柱の家系図

金亀柱(キム・ギジュ)は金閼智を始祖とする名門・慶州金氏の出自です。慶州金氏は『三国史記』によると新羅王室の系統に連なる氏族とされています。

金亀柱の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<金亀柱の家系図>

金亀柱の祖先

金亀柱(キム・ギジュ)は新羅最後の王・敬順王の第四子・大安君の流れをくむ一族で、金仁琯を派祖とする太師公派に属しています。金仁琯は高麗の睿宗期に検校太子太師を務めた人物でした。

また、金亀柱の5世代前の先祖・金弘郁(キム・ホンウク)は、仁祖~孝宗期に活躍した重臣でした。愍懐嬪姜氏(ミンフェビン カンシ)の名誉回復とその子供の慶安君の釈放を上疏したことで知られていますが、この主張により拷問を受け、最終的に処刑されています。

<金亀柱の先祖の系譜>
金閼智(新羅金氏始祖)→(新羅王統)→敬順王(新羅第56代王)→大安君(第四子)→・・・→金仁琯(太師公派の派祖)→・・・→金弘郁(5世代前の先祖)
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金亀柱の家族

金亀柱(キム・ギジュ)の家族について詳しい記録は残されていませんが、以下の人物が確認されています。妹(後の貞純王后)は揀択により、1759年に英祖の継室に選ばれています。

関係 名前 生年-没年 備考
金漢耈 1723-1769 鰲興府院君
原豊府夫人 1722-1769 元氏
本人 金亀柱 1740-1786
正室 德水李氏 不詳 李春彬の娘
金魯忠 不詳
継室 潘南朴氏 不詳 朴師經の娘
金魯恕 不詳
貞純王后 1745-1805 英祖の継室
金麟柱 不詳
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 史実の金亀柱

幼少期から聡明であった金亀柱(キム・ギジュ)は1763年に科挙に合格。弘文館副校理に任命され、その後、要職を歴任していきます。

 金亀柱の主な経歴

貞純王后が王妃になったことで、金亀柱は外戚として急速に昇進していきました。

1763年:弘文館副校理(従五品)
1765年:弘文館の応教(正四品)
1766年:承政院の左副承旨(正三品堂上)
1769年:礼曹参議(正三品堂上)
1769年:備辺司の副提調(正三品堂上)
1772年:漢城府の右尹(従二品)
1772年:工曹參判(従二品)

金亀柱の最後

正祖が即位すると、政治情勢は大きく変化しました。荘献世子事件に関係したと見なされた鄭厚謙・洪麟漢・鄭履煥らは粛清の対象となりました。金亀柱も黒山島へ流刑となります。

正祖実録には次のように記されています。

慈宮患候知若不知, 已極無狀。 況於渠地處, 尤何敢乃爾?” 仍有金龜柱絶島定配之命
<正祖実録:正祖即位年9月9日条>

<訳>慈宮(恵慶宮)の病状を知りながら知らぬふりをしたことは、すでに甚だ無礼である。ましてや、あの者の立場にあって、どうしてこのような振る舞いができようか。そこで金亀柱を絶島へ流刑にする命令が下された。

表向きの理由は病中の恵慶宮を見舞わなかった不敬でした。しかし、この処分を通じて、正祖は外戚に対する対応を次のように明確に示しています。

無論此戚里彼戚里、毫無愛惡而扶抑於其間
<正祖実録:正祖即位年9月9日条>

<訳>この外戚であろうと、あの外戚であろうと区別せず、私情ではなく功績と罪によって判断する

洪麟漢・鄭厚謙・金亀柱を連続して処分した背景には、正祖が外戚勢力の影響力を抑えようとした意図があったと考えられます。

金亀柱は、その後1784年に内地へ移されますが、1786年7月22日に病死しました。

 まとめ

金亀柱の家系図を辿ると、愍懐嬪姜氏の名誉回復を訴えた忠臣・金弘郁に行き着きます。祖先が信念によって行動した人物であったのに対し、金亀柱は外戚の力を盾に洪鳳漢と権力闘争を繰り広げました。

名門・慶州金氏の系譜は、朝鮮王朝における外戚政治の興隆と没落を象徴する一例ともいえます。

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