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金亀柱(キム・ギジュ)の家系図【名門・慶州金氏の家系とは】

金亀柱(キム・ギジュ)は実在した英祖の継室・貞純王后の兄です。

慶州金氏の出身ですが、慶州金氏とはどんな家系なのでしょうか?

金亀柱の家系図を詳しく調べてみました。

 

 金亀柱(キム・ギジュ)の家系

慶州金氏(キョンジュギムシ)は、金閼智を始祖とする朝鮮の名門氏族の一つです。

三国史記によれば、新羅王の末裔と言われています。

 

 金亀柱(キム・ギジュ)の家系図

金亀柱(キム・ギジュ)は金弘郁(キム・ホンウク)の5代先の孫に相当します。

<金亀柱の家系図>

<金亀柱の祖先>

続柄 名前 読み方 備考
高祖父の父 金弘郁 キム・ホユン
高祖父 金季珍 キム・ゲジン
曽祖父 金斗光 キム・ドゥグァン
祖父 金選慶 キム・ソンギョン
金韓耉 キム・ハング
本人 金亀柱 キム・ギジュ

 

高祖父の父・金弘郁とは

金亀柱の5世代前の祖父に相当するのが金弘郁(キム・ホンウク)です。

金弘郁は仁祖~孝宗時代の重臣です。

愍懐嬪姜氏(ミンフェビン カンシ)の名誉回復とその子供の慶安君の釈放を訴えましたが、捕まり拷問の上処刑されました。

 

愍懐嬪姜氏は仁祖の息子の昭顕世子の正室で夫とともに清に人質にされていました。

帰国後、数ヶ月で夫の昭顕世子は謎の死を遂げます。

そして、愍懐嬪姜氏は仁祖が食べるアワビに毒を入れたとして、平民に降格の上、実家にて死罪になりました。

金弘郁はこの哀れな愍懐嬪姜氏の復位を上訴したのです。

 

愍懐嬪姜氏の復位は実現しませんでしたが、子供の慶安君は釈放されました。

復位が実現するのは、1718年の粛宗の時代です。

愍懐嬪姜氏が亡くなってから72年後のことでした。

 

金亀柱の家族

金亀柱の家族については、詳しいことは分かっていません。

正室:李春彬の娘(贈貞夫人德水李氏)
息子:金魯忠(キム・ノチョン)
継室:潘南朴氏(朴師經の娘)
息子:金魯恕(キム・ノソ)

 

 金亀柱の兄弟

金亀柱の妹は英祖の継室の貞純王后です。

妹:貞純王后
弟:金麟柱(キム・インジュ)

 

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 史実の金亀柱(キム・ギジュ)

 金亀柱の経歴

貞純王后が英祖の王妃になってから、金亀柱は順調に出世していきました。

1763年:司諫院の正言(正六品)、弘文館の副修撰、校理
1765年:弘文館の応教(正四品)
1766年:承政院の左副承旨(正三品堂上)
1769年:礼曹参議(正三品堂上)
1769年:備辺司の副提調(正三品堂上)
1772年:漢城府の右尹(従二品)
1772年:工曹參判(従二品)

 

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金亀柱の最後

正祖の父・ 荘献世子を陥れた鄭厚謙(チョン・フギョム)、洪麟漢(ホン・イナン)、鄭履煥(チョン・イファン)らは、正祖が即位すると粛清の対象となりました。

1776年に金亀柱は黒山島(全羅南道新安郡黒山面)に流刑となります。

表向きの理由は病気の恵慶宮(正祖の母)を見舞いに行かなかったことですが、実際は洪鳳漢に対する度重なる攻撃だったと言われています。

1784年に内陸に移されますが、2年後の1786年7月22日に病死しています。

 

金亀柱(キム・ギジュ)が登場するドラマ

金亀柱(キム・ギジュ)が登場するドラマはそれほど多くはありません。

誰もが思いつくのが、イ・サンに登場するチョン・ミョンファンが演じた金亀柱かもしれません。

・ホン・グギョン
(2001年、ユ・ジュンソク)
・イ・サン
(2007年、チョン・ミョンファン)
・風の絵師
(2008年、チェ・ジョンウ)

( )内は金亀柱を演じた俳優です。

 

 まとめ

金亀柱(キム・ギジュ)の家系を辿っていくと、仁祖の息子の昭顕世子の正室の名誉回復を上訴した金弘郁に辿り着きました。

一族のために洪鳳漢を執拗に攻撃した金亀柱ですが、祖先は他人を思いやる人物だったのです。

 

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