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神懿王后の家系図【二人の国王を生んだ陰の建国の母】

朝鮮の初代国王の第一夫人

定宗、太宗の二人の王の母親

神懿王后はどんな女性だったのか?

家系図から詳しく調べてみました。

 

神懿王后の家系図

神懿王后は韓卿の娘で安辺韓氏一族の出身でした。

韓氏は131の本貫を持つ大氏族ですが、安辺韓氏はその中の代表的な氏族である清州韓氏から生まれた氏族です。

清州韓氏の始祖は高麗の大功臣である韓蘭(ハン・ラン)です。

<神懿王后の家系図>

 

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神懿王后はどんな王妃だったのか?

神懿王后(韓氏)は朝鮮の初代国王となる李成桂と建国前に結婚しています。

高麗は一夫多妻制であったことから、後に李成桂は第二夫人として康氏(後の神徳王后)と結婚しています。

そのため、第一夫人だった神懿王后を「郷妻」、開京に住んでいた第二夫人を「京妻」と呼ばれていました。

 

神懿王后のプロフィール

当時、都では名門の康氏一族に比較して、田舎の韓氏一族の身分は低いものでした。

また、神懿王后についての詳しい記録は残っていません。

しかし、陰で朝鮮の初代王となる夫を支え、2人の王を育てたことは間違いありません。

<プロフィール>
初代国王李成桂の第一夫人
生年:1337年9月4日
没年:1391年9月23日
尊号:神懿王后(シヌィワンフ)
父:安川府院君 景敏公 韓卿
母:三韓国大夫人 朔寧申氏
夫:李成桂(太祖)
陸墓:齊陵

 

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神懿王后の家族

神懿王后の父親は高麗の密直副使でした。

李成桂との間に6男2女の子供をもうけています。

関係 名前 称号 生年-没年 備考
韓卿 安川府院君 不詳
不詳 三韓国大夫人 不詳 朔寧申氏
李成桂 1335-1408 初代王・太祖
長男 李芳雨 鎮安大君 1354-1394
次男 李芳果 永安君 1357-1419 第2代王・定宗
三男 李芳毅 益安大君 1360-1404
四男 李芳幹 懐安大君 1364-1421
五男 李芳遠 靖安君 1367-1422 第3代王・太宗
六男 李芳衍 徳安大君 不詳-1385
長女 不詳 慶慎公主 不詳-1426 李薆の妻
次女 不詳 慶善公主 不詳 沈淙の妻

 

神懿王后の生涯

高麗の後期の1337年、神懿王后は韓卿と朔寧申氏の間に咸鏡南道(ハムギョンナムド)の永興(ヨンフン)で生まれました。

 

李成桂との結婚

1351年に、当時、まだ元朝に仕えていた父親・李子春の元で武士として仕えていた李成桂と結婚しています。

李成桂が17歳、神懿王后が15歳の頃でした。

 

家を守り、子育ての毎日

神懿王后は1354年に長男の李芳雨を生むと、六男の李芳衍まで6人の男の子を生んでいます。

夫は戦で家を空けることが多く、神懿王后は家を守り、子供の育児に忙しい毎日だったと思われます。

 

夫の雄姿を見る前に病死

1388年に李成桂が謀反を起こし、威化島回軍すると、五男の李芳遠とともに東北面に避難しています。

神懿王后は、夫の国王としての雄姿を見ること無く、1391年、55歳で病死してしまいました。

1396年に定宗が即位すると、神懿王后と追尊されました。

 

開京の齊陵に埋葬される

神懿王后は現在、北朝鮮の開城特別市の齊陵に埋葬されています。

近くには、息子で第2代王の定宗と定安王后の陸墓である厚陵が存在します。

 

建国前に亡くなった神懿王后は高麗の首都であった開京(現在の開城)に埋葬されました。

墓は建国後に、齊陵と追尊されています。

現在の立派なお墓にしたのは、息子で第3代王の太宗です。

 

まとめ

朝鮮建国前に亡くなった神懿王后に関する詳しい記録は残っていません。

しかし、影で夫を支え、国王への基盤を作ったこと、二人の国王を生んだことは間違いありません。

 

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