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イ・サンの家系図で知る【トンイ、英祖、思悼世子との関係】

イ・サンの家系図でトンイ、英祖、思悼世子、正祖の関係を詳しくご紹介しています。

正室、側室、子供などの家族情報も満載です。

 

実は、イ・サンは正祖の諱(いみな)、つまり本名なんです。

本来、親近者(王と王妃)しかその名を呼ぶことはできませんでした。

 

イ・サン(正祖)の家系図

トンイからイ・サン(正祖)までの家系図を図で示すと次の通りです。

<トンイからイ・サンまでの家系図>

正祖はトンイのひ孫にあたります。

正祖の父・思悼世子は祖父の英祖(延礽君)に米びつに閉じ込められて亡くなったことはよく知られた話です。

家系図を見ると、粛宗の子どもである英祖(延礽君)から父・思悼世子、そして、正祖まで全て側室の子どもであることが分かります。

 

イ・サン(正祖)の家族

イ・サンには正室と4人の側室がいました。

正室には子供はできませんでしたが、側室とは2男2女の子供をもうけています。

関係 名前 子供 備考
正室 孝懿王后 子女なし
側室 宜嬪成氏 1男1女 文孝世子 早世 5歳
翁主 早世 2ヶ月
綏嬪朴氏 1男1女 李玜 第23代 純祖
淑善翁主
元嬪洪氏 子女なし
和嬪尹氏 子女なし

宜嬪成氏はイ・サンが最も寵愛した側室と言われ、ドラマ「イ・サン」のソンヨンのモデルになった女性です。

綏嬪朴氏は正祖の後継ぎである第23代国王の純祖を生んだ側室です。

元嬪洪氏は洪国栄の妹で政略結婚でしたが、側室になった翌年に亡くなってしまいました。

 

イ・サンの側室についての詳しいことは>>イ・サン(正祖)の4人の側室【最も寵愛を受けた側室は?】を御覧ください。

 

イ・サン(正祖)の子供

イ・サン(正祖)は2人の男の子を授かりました。

宜嬪成氏の子供の文孝世子と綏嬪朴氏の子供の李玜です。

 

文孝世子は幼くして亡くなりますが、李玜は第23代国王・純祖として即位します。

正祖は何とか自分の血を引き継がせることができたことになります。

 

イ・サン(正祖)の兄弟

イ・サンの兄弟は男が5人、女が3人の兄弟でした。

<男性>

称号 名前 生母 生年-没年 享年
懿昭世子 李琔 献敬王后 1750-1752 3
正祖 李祘 献敬王后 1752-1800 49
恩彦君 李䄄 粛嬪林氏 1754-1801 48
恩信君 李禛 粛嬪林氏 1755-1771 17
恩全君 李禶 景嬪朴氏 1759-1778 20

<女性>

称号 生母 生年-没年 享年
清衍郡主 献敬王后 1754-1821 68
清璿郡主 献敬王后 1756-1802 47
清瑾翁主 景嬪朴氏 1758-不詳 不明

正祖は次男で、上の実の兄は正祖が生まれる半年前に3歳で亡くなっています。

従って、正祖は生まれたときから、将来の世子の地位にいました。

 

正祖の3人の弟は全員、腹違いの弟です。

・恩彦君(ウノングン)
・恩信君
・恩全君(ウンジョングン)

いずれも、悲しい運命を辿っています。

洪国栄は妹の元嬪洪氏が亡くなると、王の近親者として残るために恩彦君の息子・常渓君を妹の養子にしました。

しかし、この企ても洪国栄が流刑となり失敗、常渓君は処刑され、恩彦君は江華島に流刑となりました。

 

恩信君は母親とともに宮廷を追放され、更には、言いがかりのような罪で流刑にされています。

その後、流刑地で16歳の若さで亡くなりました。

 

恩全君は、イ・サンの暗殺事件の謀反の際に次期王として担がれましたが、謀反は失敗、処刑されています。

 

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イ・サン(正祖)の祖父・英祖

イ・サン(正祖)は英祖の孫にあたります。

英祖の母であるトンイからみたら、イ・サンはトンイのひ孫なんです。

 

英祖には2人の男の子がいましたが、1人は小さい頃に亡くなりました。

そして、もう1人は米びつに閉じ込めて殺してしまいました。

有名な荘献世子です。

従って、英祖には王になる子がいませんでした。

<英祖(ヨニングン)の家族>

関係 称号 子供 備考
正室 貞聖王后 子女なし
貞純王后 子女なし
側室 靖嬪李氏 1男2女 和億翁主 早世
孝章世子 早世
和順翁主
暎嬪李氏 1男6女 和平翁主
和協翁主
荘献世子 尊称:思悼世子
和緩翁主
他に3人の翁主 早世
貴人趙氏 2女 和柔翁主
他に1人の翁主 早世
淑儀文氏 2女 和寧翁主
和吉翁主

 

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イ・サン(正祖)の父・思悼世子

思悼世子(荘献世子)には、正室と3人の側室の間に5男3女の子供がいました。

母親の恵慶宮は死後、 献敬王后に追尊されました。

イ・サンは即位直後に父の思悼世子に「荘献」の諡号を追贈しています。

<思悼世子(荘献世子)の家族>

関係 称号 子供 備考
正室 恵慶宮 2男2女 李琔(懿昭世子) 早世
李祘(イ・サン) 第22代正祖
清衍郡主
清璿郡主
側室 粛嬪林氏 2男 李䄄(恩彦君 )
李禛(恩信君 )
景嬪朴氏 1男1女 李禶(恩全君 )
清瑾縣主
守則李氏 子女なし

イ・サンは荘献世子(チャンホンセジャ)と恵慶宮洪氏(ヘキョングン ホンシ)の子供として生まれました。

正室の長男の琔(ジョン)が2歳で亡くなったため、次男であるイ・サンが王位を継ぎます。

 

イ・サンは幼少の時に父親の悲劇を目撃するという衝撃的な経験をしました。

そのため、党派や外戚が支配する朝廷を変えて王権を強化、国王が中心の朝廷にすべきという考えを強く持っていました。

 

イ・サン(正祖)はどんな王様

イ・サン(正祖)は英祖の後を継いで第22代国王・正祖になります。

<プロフィール>
在位:1776年4月17日-1800年8月18日
諱:李祘(イ・サン)
廟号:正祖(チョンジョ)
生年:1752年10月28日
没年:1800年6月28日
享年:49歳

李祘(イ・サン)は諱(いみな)といわれ本名のことですが、諱とは口に出すのもはばかれることを意味しています。

王子を名前で呼べるのは親近者(王様や王妃)のみでした。

詳しくは>>【韓国時代劇の用語解説】朝鮮王朝の歴代国王と王妃の「国王の呼び方」を御覧ください。

 

イ・サンの素顔

丁若鏞(チョン・ヤギョン)は彼の著書の中でイ・サンの素顔について触れています。

「イ・サンは女性を近くに置くこともなく、狩りも楽しまず、贅沢も好みませんでした。学問に励む臣下を大切に扱い、性格は穏やかで、癇癪を起こしたり大声を出すことはありませんでした。」

また、イ・サンは幼い頃から常に暗殺の危機にさらされていました。

そのため、暗殺を恐れて夜更けまで起きていたと言われていますが、実は生来の読書好きだったようです。

 

実際、イ・サンは猛烈に勉学に励み、夜を徹して書物を読みあさりました。

そのことは、イ・サンの詩文や訓諭,敎旨などを集めた「弘斎全書」の日得録(臣下たちが正祖の言葉を集めた語録)に記録されています。

 

イ・サンの業績

イ・サンは数々の改革を断行していきます。

1791年に辛亥通共(シネトンゴン)により、特定の商品を独占販売できる禁乱廛権(クムナンチョンクォン)を廃止して、商売をしたい人が自由に商業活動をできるようにしました。

 

また、司法制度を整備し、奴婢制度を廃止するなど近代国家へ向けて大きく舵を切っていきました。

 

文化の面でも、天文学などの新しい文化を積極的に取り込んでいきました。

こうした改革により、イ・サンは世宗と並び朝鮮王朝の聖君と呼ばれています。

 

記事の要点

ここまで、長文を読んで頂き本当にありがとうございます。

最後に、この記事の要点を整理しておきます。ご確認ください。

  • イ・サン(正祖)は、トンイのひ孫で、父・荘献世子の悲劇を乗り越えて王位に就いた。
  • 彼は4人の側室を持ち、綏嬪朴氏の子供が第23代国王・純祖として王位を継承した。
  • 自由な商業活動の推進や奴婢制度の廃止など、近代的な改革を実施した。
  • イ・サンの勉強家としての姿勢と数々の改革から、世宗と並び称される聖君となった。

 

まとめ

イ・サンの祖父・英祖は粛宗と身分の低い奴婢出身の側室(トンイ)の子でした。

父の思悼世子も英祖と側室の子であり、イ・サンも側室の子でした。

 

つまり、イ・サンまでの3代の家系は正室から生まれた正当な王位継承者の家系ではありませんでした。

しかし、勉強家であったイ・サンは人並み外れた努力で苦難を乗り越え、多くの業績を上げて、現在では聖君の一人と言われています。

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