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イ・サンの家系図で知る【トンイ、英祖、思悼世子との関係】

この記事ではイ・サンの家系図をもとに、トンイ、英祖、思悼世子、イ・サンの関係を詳しく解説します。

また、イ・サンが寵愛した側室、悲劇の父、処刑された兄弟など、イ・サンの生涯を振り返ります。

イ・サン(正祖)の家系図

イ・サンは第22代王・正祖の本名(諱)であり、第21代王・英祖の孫にあたります。つまり、あの有名な「トンイ」のひ孫の血筋になります。

イ・サンの家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<イ・サンの家系図>

実は、家系図を見れば分かるように、イ・サンは王族として傍系にあたります。

これは、仁祖が長男の昭顕世子が亡くなったときに、直系である昭顕世子の息子を世子とせずに、次男(後の孝宗)を世子にしたことによります。

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父・思悼世子の悲劇

イ・サンの祖父(英祖)と父(思悼世子)の親子関係は悲劇的でした。

思悼世子の奇行に対して、最終的に英祖は彼を米びつに閉じ込めて死亡させています。

イ・サンは幼少の時に父親の悲劇を目撃するという衝撃的な経験をしました。この事件は今も多くのドラマで描かれる衝撃的な史実です。

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イ・サン(正祖)の家族|正室と4人の側室

イ・サンには1人の正室と4人の側室がいました。
詳しくはこちら>>イ・サン(正祖)の4人の側室【最も寵愛を受けた側室は?】

正室には子供はできませんでしたが、側室とは2男2女の子供をもうけています。

関係 名前 子ども 備考
正室 孝懿王后 子女なし
側室 宜嬪成氏 1男1女 最愛の側室
側室 綏嬪朴氏 1男1女 第23代王・純祖の母
側室 元嬪洪氏 子女なし 洪国栄の妹。入宮後、逝去
側室 和嬪尹氏 子女なし

宜嬪成氏はイ・サンが最も寵愛した側室と言われ、ドラマ「イ・サン」のソンヨンのモデルになった女性です。

イ・サン(正祖)の子供|綏嬪朴氏の子が王位を継承

イ・サン(正祖)は2人の男の子を授かりました。宜嬪成氏の子供の文孝世子と綏嬪朴氏の子供の李玜です。

文孝世子は幼くして亡くなりますが、李玜は第23代国王・純祖として即位します。

正室との間に子供はできませんでしたが、李玜の即位によって正祖の血筋は王位を継承することになります。

イ・サン(正祖)の兄弟たち|異母兄弟の数奇な運命

イ・サンは5男3女の次男として生まれました。彼の兄弟たちは若くして亡くなるか、非業の死を遂げています。

<男性>

称号 名前 生母 享年 備考
懿昭世子 李琔 献敬王后 3 実の兄、早世
正祖 李祘 献敬王后 49 第22代王
恩彦君 李䄄 粛嬪林氏 48 洪国栄の後継に利用され処刑
恩信君 李禛 粛嬪林氏 17 宮廷追放・流刑死
恩全君 李禶 景嬪朴氏 20 謀反に巻き込まれ処刑

<女性>

称号 生母 享年 備考
清衍郡主 献敬王后 68 正祖の妹
清璿郡主 献敬王后 47 正祖の妹
清瑾翁主 景嬪朴氏 不明 記録が少ない

イ・サン(正祖)の人物像

丁若鏞(チョン・ヤギョン)は彼の著書の中でイ・サンの素顔について触れています。

「イ・サンは女性を近くに置くこともなく、狩りも楽しまず、贅沢も好みませんでした。学問に励む臣下を大切に扱い、性格は穏やかで、癇癪を起こしたり大声を出すことはありませんでした。」

また、イ・サンは猛烈に勉学に励み、夜を徹して書物を読みあさりました。

そのことは、イ・サンの詩文や訓諭,敎旨などを集めた「弘斎全書」の日得録(臣下たちが正祖の言葉を集めた語録)に記録されています。

<プロフィール>
在位:1776年4月17日-1800年8月18日
諱:李祘(イ・サン)
廟号:正祖(チョンジョ)
生年:1752年10月28日
没年:1800年6月28日
享年:49歳

まとめ

トンイから英祖、思悼世子、イ・サンまでの家系図をたどると、王族のたどった数々の苦悩と悲劇が見えてきます。

英祖に冷遇された父・思悼世子の悲劇、王位を継げなかった兄弟たちの運命、そして最愛の側室との絆など、イ・サンの人生も波乱に満ちていました。

彼がなぜ改革に燃える名君となったのか、その人間像と生き様が家系図をたどることで、より鮮明に浮かび上がってきます。

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