ドラマ「イ・サン」で描かれたヒョイ王妃の暗殺計画は本当だったのか?
この記事では、閑中録の記述を手がかりに、暗殺説の真相を検証。ヒョイ王妃の実際の最期についてもわかりやすく解説します。
ヒョイ王妃の暗殺疑惑は本当なのか?
ヒョイ王妃に暗殺計画が実行されたという史実は確認されていません。
ドラマ「イ・サン」では、ホン・グギョン(洪国栄)が妹・元嬪の死をめぐり、ヒョイ王妃に強い疑念を抱き、暗殺を企てる場面が登場します。しかし、これはあくまでもドラマの創作です。
暗殺疑惑が語られる理由
ヒョイ王妃の暗殺疑惑が語られる背景には、正祖の母・恵慶宮洪氏が著した回想録「閑中録」の記述があります。
同書(第5巻)には、ホン・グギョンが妹・元嬪の死をヒョイ王妃の関与によるものと疑い、王妃付き女官を捕らえて尋問し処罰した経緯が記されています。
しかし、ホン・グギョンがヒョイ王妃の暗殺を計画したことを示す記述はありません。「閑中録」の記述が断片的に解釈され、後年のドラマや小説などの創作表現によって脚色された結果、暗殺説が広まったと考えられます。
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ヒョイ王妃は1800年に正祖が亡くなってから、21年生きた1821年に享年69歳で亡くなりました。
1821年3月に入り、病状が悪化したヒョイ王妃(当時は王大妃)は薬の効果もなく、9日に逝去したことが実録に記されています。
午時王大妃殿, 昇遐于慈慶殿。
<純宗実録:1821年3月9日条>
正祖の死後、王位は養子に迎えられた純祖が継いでおり、ヒョイ王妃は王大妃として静かな晩年を送ったとされています。実録などの史料には、彼女が政治的対立や事件に関与した記録はほとんど見られず、王室の年長者として穏やかに生涯を終えたと考えられます。
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ヒョイ王妃は京畿道華城市にある健陵(コンヌン)に正祖とともに眠っています。健陵は正祖の願いにより、父・思悼世子(サドセジャ)の隆陵(ユンヌン)から近い場所に建造されました。
実録には、ヒョイ王妃が1821年9月に健陵に合葬され、同じ封丘を共有する形式にしたことが記されています。
九月十三日, 祔葬于健陵, 而同封, 壽六十九
<純宗実録:1821年8月7日条>
ヒョイ王妃(孝懿王妃)の史実的評価
ヒョイ王妃は温和で謙虚、親孝行な王妃として朝鮮王朝でも最高の徳妃と評価されています。史料を通じて見ても、彼女を非難する記述は存在しません。
ヒョイ王妃は3大徳妃の一人
徳妃とは王妃としてのすぐれた品性と人格をもっていることを示します。朝鮮王朝の王妃は今の大学院以上の教育を受け、高い教養を持ち、花嫁修業を積む必要がありました。徳妃は更に、持って生まれた品性や人格が備わった、誰からも尊敬された王妃のことです。
・昭憲王后:世宗の王妃
・仁顕王后:粛宗の王妃
・孝懿王妃:正祖の王妃
諡号を「孝懿」と定める
実録には、ヒョイ王妃に贈られた諡号「孝懿」の意味が明確に記されています。
賓庁において大行王大妃の諡号を「孝懿」と定めることが奏上された。「孝」は、慈しみと恵みをもって親に仕える徳を指し、「懿」は、温和で柔らかく、聖く善良な人格を備えていることを意味する。<純宗実録:1821年3月17日条>
この諡号は、ヒョイ王妃が生涯にわたり示した孝行心と穏やかな品性を、朝廷が公式に評価したことがうかがえます。
ヒョイ王妃のプロフィール
没年:1821年3月9日(享年69歳)
父親:金時黙
母親:唐城府夫人洪氏
配偶者:正祖(第22代国王)
子女:なし
養子:純祖(第23代国王)
ヒョイ王妃の波乱の宮廷生活
ヒョイ王妃は、英祖の意向によって10歳で正祖の世孫嬪となりました。しかし結婚後まもなく、義父である荘献世子が殺害されるという大きな悲劇に直面します。
その後も、実権を握る義祖母・貞純王后や厳格な姑・恵慶宮、さらに義父の姉妹である和緩翁主など、宮中で強い影響力を持つ人物に囲まれながら生活することになりました。そうした困難な環境の中でも、ヒョイ王妃は王妃としての立場をわきまえ、誠実にその務めを果たしていたと伝えられています。
詳しくはこちら>>孝懿王后の家系図【徳妃の温厚で優しい性格の裏の辛い生涯】
まとめ
ヒョイ王妃(孝懿王妃)は、朝鮮王朝でも屈指の徳妃として知られる王妃でした。
ドラマで描かれた暗殺疑惑は史実では確認されず、その背景には「閑中録」の記述をもとにした後世の創作がありました。
ヒョイ王妃は、正祖の没後、静かに余生を過ごし、政治的争いから距離を保ったまま生涯を閉じました。亡くなった後は、正祖とともに京畿道華城市の健陵(コンヌン)に埋葬されています。