イ・サンのソンヨンは息子を亡くしてから、数カ月後に突然亡くなってしまいました。
ソンヨンは何故、突然亡くなったのか?
イ・サンが寵愛したソンヨンの死因を徹底的に調べてみました。
イ・サンのソンヨンはなぜ死んだのか?
ソンヨンのモデルとなった宜嬪成氏(ウィビンソンシ)は病気で亡くなっています。
但し、病名に関しての記録はありません。
従って、ドラマ「イ・サン」でのソンヨンの死因は臓結病(現在の肝臓癌や肝硬変)でしたが、宜嬪成氏の病気が臓結病であったかは定かではありません。
肝硬変とはどんな病気?
ちなみに、肝硬変とは肝臓内にかさぶたのような組織(線維組織)ができて、肝臓が固くなる病気です。
ソンヨンもドラマではお腹にしこりを感じていましたね。
肝硬変は一部が線維化しても、残りの臓器が働いて症状が出にくい病気です。
従って、病状が現れるころには、かなり症状が進行している状態です。
第二子を亡くした精神的負担
宜嬪成氏(以下、ソンヨン)は、1784年3月に第二子となる長女を出産しましたが、2ヶ月で亡くなっています。
32歳という、昔としてはかなり高齢の出産でした。
もともと、病弱であった言われるソンヨンにとって32歳での出産は大変な負担でした。
また、精神的なショックも相当大きかったと想像できます。
出産を控えての突然の死
ソンヨンは1786年9月14日に出産を控えて突然、亡くなってしまいました。
宜嬪成氏卒。 敎曰: “嬪喪, 依甲申年例, 以後庭一等例行之。
<引用元:正祖実録1786年9月14日>
「甲申年の例」とは1764年に実施されたイ・サンの祖母・暎嬪李氏の葬儀のことです。
病気の進み具合が早く、何かあったのではないかと疑いが持たれたという記録が残っています。
そのため、毒殺の噂も流れました。
蓋嬪病症非常, 時疑其有祟云。
<引用元:正祖実録1786年9月14日>
実は、ソンヨンは4ヶ月前の1786年5月11日に息子の文孝世子を麻疹で亡くしていたのです。
一人息子を亡くしたソンヨンの悲しみは想像を絶するものがありました。
世子を亡くした悲しみとお腹の中にいる子供へのプレッシャーは計り知れないものがあったと思われます。
今となっては、死因を知るすべはありませんが、毒殺ではなく、病気で急死したことは確かです。
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ソンヨンは悲劇の側室
実在したソンヨンのモデル宜嬪成氏は、女官として入宮しています。
その後の経歴は次のとおりです。
年 | 年齢 | 出来事 |
1762 | 10 | 女官になる |
1780 | 27 | イ・サンの寵愛を受けて、懐妊するが死産 |
1782 | 29 | 9月7日、女官の身分で王子を出産する |
昭容に昇格する | ||
1783 | 30 | 2月、李㬀(イ・スン)が元子になる |
側室の最高位の嬪に昇格する | ||
1784 | 31 | 3月20日、長女を出産 |
5月12日、長女が亡くなる | ||
7月2日、王子が世子(文孝世子)に冊封される | ||
1786 | 32 | 5月11日、文孝世子が亡くなる |
9月14日、宜嬪成氏が出産を控えて死去 |
ソンヨンとイ・サンは1762年~1780年の間に知り合ったと思われます。
1766年頃にイ・サンが寵愛を受けるように言ったような記事も見られますが、1766年頃はソンヨンがまだ13歳でした。
イ・サンが自ら寵愛を持ちかけたとは考え難いですね。
1780年に寵愛を受けて身ごもってから、1786年にお腹に赤ちゃんを抱えたまま亡くなるまで、たった6年間の間に4人もの子供を授かりながら、全員を失ってしまいました。
ソンヨンはまさに、悲劇の側室でした。
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ソンヨンの死を悲しんだイ・サン
イ・サンはソンヨンの死を深く悲しみました。
正祖実録にその状況が記録されています。
上企待方切, 不勝悼惜。 朝野莫不以國本爲憂。~(略)~上曰: “病情奇怪, 竟至於此。 從今國事尤靡托矣。”
<引用元:正祖実録1786年9月14日>
イ・サンの落胆ぶりは酷かったのでしょう。
朝廷と民衆が心配するほどでした。
イ・サン自身、もう王子を期待する、つまり、誰かを愛することはないとまで言っています。
また、イ・サンの思いの深さは、ソンヨンが側室であるにもかかわらず、イ・サンが自ら碑文を作ったことからも分かります
そして、イ・サンはソンヨンを息子の文孝世子の隣に埋葬しました。
ソンヨンと文孝世子が眠るお墓は文孝世子の「孝」と世子が生まれた場所の昌慶宮(チャンギョングン)の「昌」から孝昌園(ヒョチャンウォン)と名付けられました。
しかし、1944年にソンヨンと文孝世子の墓地は別の場所に移設されてしまいました。
現在、孝昌園は孝昌公園という名前に改称されて、公園として使用されています。
ソンヨンの現在のお墓
現在、ソンヨンと文孝世子のお墓は西三陵の中にあります。
西三陵は孝陵、禧陵、睿陵の3つの陵(王と王妃の墓)で構成された広大なお墓です。
残念ながら、ソンヨンと文孝世子の二人は別々の場所に埋葬されています。
<西三陵の中のソンヨンと文孝世子のお墓>
ソンヨンは王室の共同墓地の側室墓の中に眠っています。
<ソンヨンが眠る共同墓地>
ソンヨンは側室のお墓なので盛り土もちょっと小さく、周囲に石像もありません。
やはり、少し寂しいですね。現在は非公開のようです。
<ソンヨンのお墓>
一方、文孝世子は同じ西三陵の中の孝昌園と名付けられた場所に眠っています。
こちらは、世子の単独墓で盛り土も大きく、周囲に石像もあり、かなり立派なお墓です。
<文孝世子のお墓>
イ・サンがせっかく、愛するソンヨンと息子の文孝世子を隣に埋葬したにも関わらず、今では、二人は離れた場所に埋葬されています。
イ・サンの気持ちを考えると、本当に悲しくなりますね。
宜嬪成氏が亡くなったときの実録の記録
宜嬪成氏が亡くなったときの正祖実録の記録を全文ご紹介します。
宜嬪成氏卒。 敎曰: “嬪喪, 依甲申年例, 以後庭一等例行之。” 初宜嬪有身, 藥房都提調洪樂性, 請設護産廳。 命待當朔, 至是遘疾而卒。 上企待方切, 不勝悼惜。 朝野莫不以國本爲憂。 樂性奏曰: “五月以後, 一國係望, 惟在於此, 而又遭此變, 誠罔措矣。” 上曰: “病情奇怪, 竟至於此。 從今國事尤靡托矣。” 蓋嬪病症非常, 時疑其有祟云。
<引用元:正祖実録1786年9月14日>
嬪の葬儀は、甲申年の例に準じて、後宮一等の例で執り行うよう命じました。宜嬪の妊娠を確認したときに、藥房の都提調・洪樂性は護産廳の設置を求めました。
しかし、出産の月まで待てと命じられ、この月に突然の病で亡くなりました。王は非常に期待していたので、大変嘆き悲しみました。朝廷と民衆はそんな王のことを大変心配しました。洪樂性が言いました。「5月以来、国の希望はここにあったのに、またこのような災難に見舞われ、本当にどうしたらいいのか分かりません」すると、王が言いました。
「病状が奇怪(常識では考えられないような急変)で、このような事態になってしまった。もう、国事(王子の出産)を依頼するをことはないだろう」嬪の病状が通常ではなかったので、当時、病気は祟りではないかと疑われました。
宜嬪成氏の葬儀は、側室としては最も高い格式で行われています。
甲申年の例とは、1764年に実施されたイ・サンの祖母・暎嬪李氏の葬儀のことを示しています。
護産廳とは、後宮の出産のときに設置された臨時官署のことですが、設置される前に亡くなってしまったようです。
洪樂性が国の希望はここにあったと、出産が国事(国の大事)であったかのように述べています。
従って、王が言った「もう国事を依頼することはない」の国事は王子の出産のことと考えられます。
つまり、王は悲しみのあまり、ソンヨン以外の人を愛することはないと言いたかったのではないでしょうか。
また、宜嬪成氏の病状の進行があまりにも早く、何か原因があるのではないかと疑われたようです。
まとめ
イ・サンが寵愛した側室・ソンヨンの死因は病気ですが、その病名の記録はありません。
病気の進行が早かったことから、何かあったのでは?と疑いが持たれたという記録が残っています。
しかし、病気であったことは間違いないと思います。
もし、そうでなければあれほど寵愛したイ・サンが黙っていないでしょう。
当時の医学の技術では正確に病名を把握することは困難であったと推定されます。