イ・サンの右腕として、若くして権力を握り、朝廷を動かしてきたホングギョン(洪国栄)でした。
徳老(ドンノ)は洪国栄の字(あざな)です。
ホングギョン(洪国栄)の家系図を調べ、イ・サンとの関係を探りました。
すると驚きの事実が。。。
洪国栄(ホングギョン)の家系図
洪国栄は高麗時代に国子直学の要職にいた洪之慶を始祖とする豊山洪氏一族の出身です。
<洪国栄の家系図>
イ・サンとの関係
ホングギョン(洪国栄)とイ・サンの母親の恵慶宮が親戚であることは有名です。
従って、ホングギョンとイ・サンも遠い親戚なんですね。
ホングギョンの家系図にイ・サンの家系図を重ねるとその関係が明確に分かります。
ホングギョンとイ・サンの関係は第14代国王・宣祖のときから始まります。
<ホングギョンとイ・サンの家系図>
ホングギョンとイ・サンの先祖を逆上ると第14代国王の宣祖に行き当たります。
ホングギョンもイ・サンも宣祖から分岐した家系なんです。
イ・サンの母親の恵慶宮とホングギョンの祖先はドラマ「華政」で知られるようになった貞明公主(チョンミョンコンジュ)です。
そして、ホングギョンの妹がイ・サンの側室になることで一度、分岐した血がイ・サンでまた出会うことになりました。
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ホングギョンの家族
ホングギョン(洪国栄)の家族については、ほとんど詳しいことは分かっていません。
母:牛峰李氏
妹:元嬪洪氏
妻:徳水李氏
子供:不明
妹は12歳のときに正祖の側室になりますが、1年後に病死してしまいます。
父親は妹のお陰で戸曹参判の官職を得たようですが、特に優秀ではなかったようです。
ホングギョンの妻は徳水李氏ですが、全く情報がありません。
子供に関しても同様です。
ホングギョンの家族に関するプライベートな記録はほとんど残っていないのが実情です。
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史実のホングギョンはどうだったのか?
ドラマ「イ・サン」のホングギョン(洪国栄)は野心はあるが、礼儀正しい官僚として描かれています。
しかし、史実のホングギョンは王様の権力を後ろ盾に、目上の人にも敬意を払うこと無く、やりたい放題やっていた人物でした。
イ・サンとホングギョンの出会い
1772年に24歳で科拳に合格すると、ホングギョンは承文院副正字(スンムンノンプヂャンジャ)になります。
このときの品階は最下位の従九品です。
ホングギョンは英祖に気に入られたようで、イ・サン(正祖)の家庭教師のような存在になります。
イ・サンも同年代で、容姿もよく、機知に富んだ洪国栄をひと目見て気に入ったようです。
宮殿の外の世界を面白おかしく語る洪国栄を、イ・サンは片時も離せぬ友と感じたのではないでしょうか。
イ・サンは度重なる暗殺から自分を救い、王にしてくれた洪国栄を絶対的に信頼していました。
英祖が亡くなり、イ・サンが王に即位すると右腕のホングギョンは次第に権力を身に着けていきます。
異例の大出世
1776年には承政院の都承旨(スンジョンウォントスンジ)、正三品堂上の品階に昇進します。
イ・サンの秘書です。
官職に付いてから4年、28歳で赤い官服を着るほどの大出世です。
さらに、1777年には首都の防衛を担当する禁衛営大将に任命されます。
文官としての力だけでなく、武官の軍事力という力も持つことになりました。
様々な官職を兼務して、この時期のホングギョンは飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
凄まじい権力による横暴な振舞は事実
正祖の信頼により、ホングギョンは凄まじい権力を手に入れました。
正祖は「ホングギョンに背を向けるものは逆賊だ」と発言するほど信頼しきっていました。
洪国栄の周囲には媚びへつらうものが集まり、洪国栄はやりたい放題になります。
ドラマ「イ・サン」でも56話で高官のチャン・テウに対して、足を組み、ふんぞり返る傲慢な態度を見せるホングギョンを描いています。
当時、ホングギョンは実際に、このような態度で高官に接していたと言われています。
一方で、洪国栄の暴挙は弾圧された老論派の反感を買い、失脚を願うものも多くなっていました。
妹を側室に送り込む
ホングギョンの野望はこれだけに留まりませんでした。
何と、13歳の妹をイ・サンの側室に送り込みます。
ホングギョンが王室の外戚になるために強引に企てた政略婚です。
妹が側室に決まると、側室の最上位の称号である嬪(正一品)を与え、嘉禮(結婚式)を上げさせます。
もはや、洪国栄の暴挙は正祖ですら止めることはできませんでした。
まさに、ホングギョンのやりたい放題でした。
ホングギョンより位の高い大臣が多くいたはずですが、誰もホングギョンを止めることができませんでした。
しかし、全てが思うようにはいかないものです。
元嬪洪氏の死と洪国栄の嫌疑
破竹の勢いの洪国栄にも、陰りが見えてきます。
1779年5月7日、妹の元嬪洪氏が1年経たぬうちに突然、病死しました。
余りにも突然の出来事に、洪国栄は他意的なものを感じ、正室の孝懿王后を疑ったといわれています。
イ・サンの母の惠慶宮が書いた「閑中録」に次のような記載があります。
己亥の年(1779年)、その妹(元嬪洪氏)が突然死んでしまったが、国栄はその憤りと疑惑を抑えることができず、自分の妹が夭折してしまったことには中宮がかかわっているかのような疑惑を抱いたのであった。そこで、先王をたきつけ、中宮つきの宮女たちを多数つかまえ、刀を抜いて待ち、おびただしく切り殺し、むごいしかたで拷問をして、妹の死をむりやりにでも中宮にかかわることのようにこじつけ、あやうく、中宮に讒誣が及ぶところであった。
<引用元:「閑中録」恵慶宮著、横山秀幸訳>
<注釈>
国栄:洪国栄
中宮:孝懿王后
先王:正祖
夭折(ようせつ):若くしてなくなること
讒誣(ざんぶ):ありもしないことを事実のように言って人を罪に陥れること
結局、洪国栄は孝懿王后の疑惑を証明できませんでした。
恩彦君の長男を亡き妹の養子にする
妹が亡くなり跡継ぎが見込めなくなると、ホングギョンは正祖の異母弟の恩彦君の長男(完豊君)を亡き妹の養子にしてしまいます。
そして、露骨にも完豊君(ワンプングン)に対して世継ぎとして教育を始めたと言われています。
妹の元嬪(ウォンビン)には子供がいなかったので、葬儀のときに完豊君を代理の取りまとめ役に立てたというのが表向きの理由のようです。
しかし、これは実質的に完豊君を元嬪の養子に立てたことを意味します。
そして、実際にホングギョンは堂々と完豊君を「自分の甥」と呼んでいたそうです。
つまり、正祖の息子のように仕立て上げ、外戚としての権威を保持しよう考えたのです。
ホングギョンの最後(死因は何?)
こうした暴挙も遂に最後を迎えます。
洪国栄に対する不満が宮廷の宮女から臣下まで満ち溢れ、イ・サンもかばいきれなくなっていきます。
1779年9月26日に洪国栄は突然、辞任を申し出ました。
イ・サンは辞任を受諾はしますが、処罰はしませんでした。
処遇を保留していたイ・サンも1780年2月26日に出された吏曹判書・金鍾秀の洪国栄弾劾の上訴に、遂に決意します。
同日、洪国栄を故郷(江陸)に送ることを命じました。
命洪國榮, 放還田里
<引用元:正祖実録1779年9月26日より抜粋>
厳密には流刑とは違いますが、洪国栄にとっては流刑に匹敵する刑罰でした。
1781年4月5日、晩年は酒に溺れて暮らした洪国栄は享年34歳で亡くなります。
精神的なストレスからうつ病になっていたとも言われていますが、正確なところは分かっていません。
まとめ
ホングギョン(洪国栄)の家系図を調べると、イ・サン(正祖)とは遠い親戚であることが分かりました。
しかし、ホングギョンの家族については、ほとんど詳しいことは分かりません。
流刑になったことで、家族も悲惨な最後を迎えたと思います。
ホングギョンはまさに、天国と地獄を味わった波乱万丈の人生を歩んだ人でした。