イ・サンとソンヨンの子・文孝世子は5歳にして麻疹(はしか)で急死してしまいました。
あまりにも容態が急変したので、毒殺説もあるようです。
本当なのか、詳しく調べてみました。
なお、2021年放映の「赤い袖先」では、ソンヨンはソン・ドギム(成徳任)という本名で登場しています。
ソンヨンの子・文孝世子の急死の原因とは?
1786年5月11日にイ・サンとソンヨンの子である文孝世子は麻疹にかかり急死しました。
実は、1月から麻疹を患っていたとの記録もあるようです。
5月3日に赤い発疹が見られ、急遽、議薬庁(ウィヤクチョン)、いわゆる治療プロジェクトが設置されました。
王世子有疹候、命設議藥廳
<引用元:正祖実録1786年5月3日>
5日には症状が好転してイ・サンも喜んだとの記録がありますが、10日に症状が急変しました。
そして、文孝世子は5月11日に亡くなってしまいます。
癸丑/王世子薨。 世子症候轉劇, 設侍藥廳, 遣大臣, 再禱于社稷、宗廟。 是日未時, 薨逝于昌德宮之別堂。
<引用元:正祖実録1786年5月11日>
病状の悪化があまりにも急でした。
そのため、老論派による毒殺説などが出てきたと思われます。
回復しかけた文孝世子が何故、急に悪化して亡くなったのか、当時の医学では説明できなかったからでしょう。
ちなみに、トンイの長男である永寿(ヨンス)も麻疹で亡くなっています。
イ・サンが自ら文孝世子の薬剤の処方や治療に関して確認していました。
そのことからも、毒殺説の信憑性は極めて低いと思われます。
では、なぜ毒殺説がでてきたのでしょうか、その背景を探りました。
【PR】スポンサーリンク老論派による毒殺説が浮上した背景
イ・サンは父の思悼世子を排除した老論派を嫌い、徹底的に対抗していました。
そのため、老論派の多くは文孝世子がイ・サンの後継者として成長することを望みませんでした。
こうした状況の中、文孝世子が麻疹で急死したことに毒殺の疑念が生まれたことは自然なことでした。
朝鮮王朝の時代は、王族の急死が陰謀や毒殺と結びつけられることが多く、このような毒殺説が噂として広まりやすい傾向があることは歴史が物語っています。
文孝世子の場合、一時的に回復していたにもかかわらず突然悪化して死亡したことが、更に、毒殺説を後押しする要因になったと推測されます。
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ソンヨンの子供は3人
ソンヨンは2人の子供を生み、3人目の子供がお腹にいる時に亡くなっています。
生年:1782年9月7日
没年:1786年5月11日
第二子(長女):(名前不詳)
生年:1784年3月20日
没年:同年5月12日
第三子:(不詳)
1786年9月14日 妊娠中に死去
実は、ソンヨンは長男を生む前の1780年に懐妊していましたが、残念ながら死産でした。
最初の子供を含めれば、ソンヨンはイ・サンの子供を4人身ごもったことになります。
ソンヨンの第二子は女の子
ソンヨンは長男の李㬀(イ・スン)を29歳で生んでから、31歳で第二子の女の子を生んでいます。
しかし、女の子は2ヶ月後に亡くなりました。
もともと、ソンヨンは病気がちだったようで、決して体は丈夫な方ではなかったようです。
長女を生んでから2年後に第三子を身ごもりますが、妊娠中に母子ともに亡くなってしまいます。
ソンヨンの死因については>>イ・サンのソンヨンはなぜ死んだのか?【突然の側室の死因とは】をご覧ください。
ソンヨンの長男・文孝世子
ソンヨンの長男は、正室に子供がいなかったため、1784年7月2日にわずか2歳で世子に冊封されましたが、3年後の1786年5月11日、麻疹のため5歳で亡くなってしまいます。
イ・サンとソンヨンの悲しみは計り知れないものがあったと思われます。
文孝世子は当初、孝昌園(現在の孝昌公園)に埋葬されました。
後に、母親のソンヨン(宜嬪成氏)もここに埋葬されますが、日本植民地時代に2人の墓は西三陵(ソサムルン)に移されてしまいました。
現在、文孝世子は西三陵の孝昌園(ヒョチャンウォン)に、ソンヨン(宜嬪成氏)は西三陵の後宮墓地に別々に眠っています。
まとめ
文孝世子の死は、イ・サン(正祖)と側室・ソンヨンにとって深い悲しみでした。
派閥争いの激しかった当時、彼の急死が政治的陰謀と結びつけられる原因にもなりました。
しかし、当時の医学状況では麻疹の特効薬はなく、また、治療に正祖も深く関わっていたことから、毒殺説には根拠が乏しいと考えられます。
現在、文孝世子と母ソンヨンは西三陵で離れた場所に眠っていますが、生きて共に暮らした時間が短かった分、できれば、二人寄り添った形で埋葬してあげたいものです。