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孝懿王后の家系図【徳妃の温厚で優しい性格の裏の辛い生涯】

ドラマ「イ・サン」の孝懿王后は史実ではどんな王妃だったのか。

孝懿王后の家系図から詳しく調べました。

史実の孝懿王后についてご紹介します。

 

孝懿王后の家系図

孝懿王后(ヒョウィワンフ)は、高麗時代に門下侍中(朝鮮王朝の領議政に相当)になった金大猷を始祖とする清風金氏一族の出身です。

第18代国王・顕宗の正室・明聖王后も清風金氏一族の出身です。

清風金氏から王妃がでたことで、清風金氏一族の政治的な権力は高くなったといいます。

<孝懿王后の家系図>

英祖は清風金氏から世孫(正祖)の妻を迎えたい意向が強く、孝懿王后が明聖王后の父親の子孫であることに大変喜びました。

また、世孫の母親の恵慶宮の弟・洪楽倫も清風金氏から妻を迎えたことで清風金氏と王室との繋がりはより強くなりました。

<恵慶宮の弟・洪楽倫との関係>

 

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孝懿王后はどんな王妃だったのか?

孝懿王后は温厚で誰にでも優しく、ドラマ「イ・サン」の孝懿王后そのままの人柄でした。

孝懿王后は姑の恵慶宮にはもちろん、意地悪をされる和媛翁主にも孝を尽くしたと言われています。

 

また、生涯、政治には口を出さず、正祖を裏から支えました。

こうした孝懿王后の行いに宮中では称賛が絶えなかったいいます。

 

孝懿王后のプロフィール

孝懿王后は朝鮮王朝の3大徳妃の一人と言われています。

孝懿王后(ヒョウィワンフ)
別称:荘徽睿敬慈粋孝懿宣皇后(諡号)
在位期間:1776年〜1800年
生年:1754年12月13日
没年:1821年3月9日
享年:68歳
配偶者:正祖(第22代国王)
子女:なし
氏族:清風金氏
父親:金時黙
母親:唐城府夫人 南陽洪氏
墓:健陵

 

孝懿王后の家族

関係 名前 生年ー没年 備考
金時黙 1722-1772 清原府院君
唐城府夫人 生年不詳-1791 南陽洪氏
異母兄 金基大 1738-1777 刑曹判書、息子は金春沢
本人 孝懿王后 1754-1821 正祖の正室
正祖 1752-1800 第22代国王
養子 純祖 1790-1834 第23代国王

 

孝懿王后の生涯

孝懿王后の生涯は苦しく辛い生涯でした。

婚礼を挙げた年に義理の父である思悼世子が米櫃に入れられて亡くなります。

英祖の薦めで一時、義理の母である恵慶宮と宮廷外で暮らしますが、戻ってからは叔母の和緩翁主にいじめられます。

 

また、正祖が即位して王妃になると今度は洪国栄に苦しめられました。

生涯、子供を産めなかったことが彼女の大きな負担になっていたといいます。

 

孝懿王后の生涯を整理しました。

出来事
1754年 金時黙と唐城府夫人の娘として生まれる
1762年 10歳で李祘と結婚して世孫嬪となる
思悼世子が米櫃に入れられて死亡(壬午禍変)
1776年 正祖が即位したので王妃に冊封される
1787年 孝懿王后が妊娠したと発表されたが想像妊娠だった
1796年 異常に心配性になり、不安でイライラした症状があらわれる
1799年 元嬪洪氏が死亡。洪国栄から疑われる
1800年 正祖が逝去したので王大妃となる
1821年 68歳で薨去

 

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孝懿王后が登場するドラマ

孝懿王后が登場するドラマは多くありません。

イ・サンでパク・ウネが演じた孝懿王后がよく知られています。

<孝懿王后が登場するドラマ>
大王の道(1998年、イ・エジョン)
イ・サン(2007年、パク・ウネ)

 

まとめ

孝懿王后は名門氏族であった清風金氏の出身でした。

清風金氏から正祖の世孫嬪を迎えることは英祖の意向が大きかったといいます。

 

孝懿王后は温厚で優しい性格でイ・サンのドラマの孝懿王后そのものでした。

まさに、徳妃と呼ばれるにふさわしい王妃でした。

 

しかし、孝懿王后の生涯は義理の父の米櫃事件に始まり、辛い苦しい生涯でした。

特に、子供が生まれないことが大きな負担になっていたといいます。

 

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