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文定王后の家系図【チャングム、オクニョで有名な王妃はどんな人】

文定王后はドラマ「チャングム」や「オクニョ」でよく知られた王妃です。

悪女で名高い文定王后ですが、史実はどうだったのか。

文定王后の家系図から詳しく調べてみました。

 

文定王后の家系図

文定王后(ムンジョンワンフ)は、多くの王妃を輩出した坡平尹氏の一族の出身です。

坡平は京畿道坡州の旧称で、始祖は高麗開国の功臣だった尹莘達です。

文定王后の父親 尹之任は、第7代国王・世祖の正室であった貞熹王后の弟・尹士昕の曾孫にあたります。

<文定王后の家系図(詳細版)>

家系図から分かるように、第7代国王・世祖の貞熹王后や第11代国王・中宗の章敬王后も坡平尹氏一族出身の王妃です。

また、廃位となった成宗の正室・廃妃尹氏も坡平尹氏から分かれた咸安尹氏一族の出身です。

先の詳細版が、見にくい方は次の簡略版で確認して下さい。

<文定王后の家系図(簡略版)>

 

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文定王后はどんな王妃だったのか?

文定王后は中宗の2番目の王妃である章敬王后が亡くなると、揀択で選ばれて王妃になりました。

1517年、中宗30歳、文定王后17歳のときです。

 

文定王后は学識と儒教に関する教養を持ち、決断力と推進力を持った女性だったと言われています。

その力は大臣をも圧倒する政治力となり、朝廷を牛耳っていきました。

 

文定王后は、亡くなった王妃の息子(仁宗)に辛くあたったと言われています。

特に、息子(明宗)が生まれると仁宗は邪魔になり、何度も仁宗の暗殺を企てたと言われています。

 

文定王后のプロフィール

文定王后は政治に長けていた一方で、気が強く、意地が悪く、そして、猜疑心(さいぎしん)が強い女性でした。

在位:1517年7月19日-1544年11月20日
諡号:聖烈仁明文定王后
生年:1501年10月22日
没年:1565年4月6日
享年:65歳
氏族:坡平尹氏
父親:尹之任
母親:全城府夫人・李氏

 

文定王后の生涯

文定王后の生涯の出来事について整理しました。

出来事
1501年 尹之任の娘として生まれる
1515年 中宗の2番目の王妃・章敬王后が逝去
1517年 文定王后が17歳の時に揀択で王妃に選ばれる
1534年 慶源大君(明宗)が生まれる
1544年 中宗亡くなり、仁宗が即位
文定王后は王大妃となり政治への介入を強める
1545年 仁宗が病気で逝去
慶源大君が12歳で即位して明宗となる
文定王后は大王大妃となり垂簾聴政を行う
1545年 仁宗の外戚が一掃される(乙巳士禍)
文定王后と弟の尹元衡が朝廷を独占する
1565年 文定王后が65歳で亡くなる

 

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文定王后の家族

文定王后は中宗との間に1男4女の子供を生みました。

息子の慶源大君は第13代国王の明宗として即位しています。

関係 称号 名前 生年-没年 備考
中宗 李懌 1488-1544 第11代国王
本人 文定王后 不明 1501-1565
長男 慶源大君 李峘 1534-1567 第13代国王・明宗
長女 懿恵公主 玉蘭 1521-1564 韓景禄と結婚
次女 孝順公主 玉蓮 1522-1538 具思顔と結婚
三女 敬順公主 玉賢 1530-1584 申檥と結婚
四女 仁順公主 不明 1542-1545 早世

 

文定王后の兄弟

関係 名前 生年-没年 官職
尹元凱
尹元亮 1495-1569 敦寧都正 仁宗の後宮 淑嬪尹氏の父
尹元弼
尹元老 敦寧府都正 息子の尹百源が孝恵公主の娘・金善玉と結婚
尹元衡 領議政 妻は鄭蘭貞

 

文定王后が出るドラマ

文定王后が出るドラマといえば、「宮廷女官チャングムの誓い」と「オクニョ」が有名です。

女人天下(2001年、チョン・イナ)
宮廷女官チャングムの誓い(2003年、パク・チョンスク)
天命(2013年、パク・ジヨン)
オクニョ 運命の女(2016年、キム・ミスク)
魔女宝鑑 〜ホジュン、若き日の恋〜(2016年、キム・ヨンエ)

 

まとめ

文定王后の家系図を調べると、文定王后は貞熹王后、廃妃尹氏(斉献王后)、章敬王后を輩出した名門の一族坡平尹氏の出身でした。

男勝りの政治力で政治に介入していった文定王后は最後まで権力を手放すことなく、弟の尹元衡とともに朝廷を牛耳っていきました。

 

その結果、国政は乱れ、国は疲弊して民衆は苦しんでいきす。

文定王后が亡くなるまで、朝鮮の社会が平和になることはありませんでした。

 

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