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梨本宮方子の家系図【朝鮮王朝最後の皇太子の妃】

梨本宮方子は朝鮮王朝最後の皇太子・李垠(イ・ウン)と結婚しました。

そして、皇族の娘に生まれながら波瀾万丈の生涯を送りました。

梨本宮方子の生涯を家系図から詳しくご紹介します。

 

梨本宮方子の家系図

梨本宮方子は崇光天皇の子孫である梨本宮守正王を父とする日本の皇族の娘でした。

母親は旧佐賀藩主 鍋島直大の次女・伊都子(いつこ)でした。

 

方子は朝鮮第26代王・高宗の息子・李垠と結婚しました。

当時、日本は韓国を併合、李垠は日本国内で王公族として皇族に準じる待遇をうけていました。

<梨本宮方子の家系図>

 

方子は父方の従姉妹に香淳皇后(昭和天皇の妃)、母方の従姉妹に秩父宮勢津子妃がいます。

<梨本宮家の系図>

 

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梨本宮方子はどんな人物だったのか?

梨本宮方子は半ば強制的に李垠と結婚させられたにも関わらず、運命を受け入れ賢明に生きた女性でした。

第一子の突然の死、王族の身分の剥奪、味わったのことのない貧困生活、無国籍状態、寝たきりの夫との韓国生活、冷たい風当たりの中での障害児教育など、波乱万象の生涯を送った女性でした。

 

梨本宮方子のプロフィール

李方子は第二次世界大戦後に、王公族としての身分を剥奪され、平民に降格したときに夫の姓を名乗ったものです。

平民名:李方子(りまさこ)
韓国語読み:イ・バンジャ
称号:顯德貞穆溫靖慈行妃
生年:1901年11月4日
没年:1989年4月30日
享年:87歳
夫:李垠(イ・ウン)
子女:李晋、李玖
父親:梨本宮守正王
母親:守正王妃伊都子(いつこ)
妹:規子(のりこ)

 

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梨本宮方子の家族

夫の李垠は第26代王・高宗の七男として生まれた大韓帝国最後の皇太子でした。

方子と李垠の間には二人の男の子が生まれましたが、第一子は生まれて八ヶ月で亡くなっています。

初めての朝鮮訪問でのことでした。

その後、第二子の李玖が生まれましたが、子供はなく、李垠と李方子の直系子孫は断絶しています。

関係 名前 読み 生年-没年 備考
李垠 イ・ウン 1897-1970 高宗の七男
本人 李方子 イ・バンジャ 1901-1989 梨本宮守正王の長女
長男 李晋 イ・ジン 1921-1922 早世
次男 李玖 イ・グ 1931-2005 子女なし

 

夫は朝鮮王朝最後の皇太子

李垠は朝鮮第26代王・高宗の七男として、純献皇貴妃との間に生まれました。

朝鮮が大韓帝国と改称した年に生まれた李垠は、純宗が即位したときに皇太子となりました。

 

李垠には兄・李堈がいましたが、品行が悪く皇位継承者からは外されていました。

11歳までソウルの王宮で過ごしますが、伊藤博文に命じられ、日本の学習院に留学しています。

 

1910年、日韓併合により朝鮮王朝は滅亡しますが、日本は反日感情を考えて、朝鮮王朝の李王家に日本の皇族に準ずる「王公族」の地位を与えました。

 

梨本宮方子の生涯

梨本宮方子は波瀾万丈の生涯をご紹介します。

 

李王家の皇太子・李垠との結婚

梨本宮方子は、1901年11月4日、梨本宮守正王と伊都子夫妻の長女として生まれました。

1916年、学習院女子中等科在学中に大韓帝国の皇太子であった李垠と婚約します。

 

当時、方子は昭和天皇のお妃候補の一人と注目されていました。

しかし、昭和天皇の妃が香淳皇后と決まりました。

 

梨本宮家には娘が二人しかおらず、何としても皇族を維持したかった母の伊都子は方子の嫁ぎ先の皇族男子を探しましたが、中々、上手くまとまりませんでした。

皇室典範により、皇族女子は皇族男子に嫁がなければ、一般男性に嫁ぐしかなかったのです。

 

母の伊都子妃は梨本宮家のお家断絶の危機感から、極秘裏に李王家に縁談を申し込みます。

李王家は日本では皇室に準じる王族でした。

 

何とかまとまった李垠との結婚を方子は偶然、新聞で知ります。

ショックを受けますが、方子は運命としてこの結婚を受け入れています。

1916年8月3日のことです。

<梨本宮方子の結婚を知らせる新聞>

1918年、異例の結婚のため皇室典範第39条が増補されて、ようやく結婚が容認されました。

皇室典範に王公族を皇室と認める代わりに、皇族女子が王公族に嫁ぐことができる一文を入れたのです。

そして、1920年4月28日、高宗の逝去で延期になっていた李垠との結婚式が行われます。

 

政略結婚から純愛結婚へ

二人の結婚は明らかに政略結婚でした。

しかし、高宗の死去で結婚が1年延期になったことで、二人がお互いを知る機会ができ、お互いに愛し合うようになります。

李方子が書き残した日記には、「再び、会うのが待ち遠しいこと」「韓国に行った婚約者を心配する気持ち」「会って楽しかった」ことなど、少女の気持ちが残されています。

日記には、二人が徐々に大切な存在になっていく姿が克明に描かれていたのです。

 

息子の誕生と突然の死

1921年、長男の晋(ジン)が生まれました。

夫・李垠は大変な喜びようでした。

 

1922年、朝鮮からの息子を連れての里帰りの要請があり、李垠夫妻は生まれたばかりの晋と朝鮮を訪問します。

李垠の実家である李王家に息子をお披露目することと、朝鮮で朝鮮式の結婚を挙げるためでした。

 

ところが、帰国直前に悲劇が起こりました。

息子の晋が性消化不良で急死したのです。

夫婦の悲しみは想像を絶するほど深かったといいます。

朝鮮、日本の双方から毒殺説が流れるなど状況は殺伐としました。

 

次男・玖の誕生と夫の昇格

1926年、純宗が逝去し、夫の李垠が李王垠として王位を継承しました。

李方子は1923年と1930年に2度の流産を経験しましたが、1931年12月に待望の次男の玖(グ)が生まれます。

 

夫の李垠は皇族の義務として軍人の務めを果たしました。

1938年に陸軍少将になると、その後、陸軍中将、第1航空軍司令官を努めます。

 

1941年、太平洋戦争が勃発します。

李垠は大日本帝国の模範的な軍人として戦いました。

 

1945年4月には軍事参議官と順調に昇格していきます。

しかし、一方で昇格するほどに李垠は朝鮮人でありながら、日本の軍人であることに苦しんだといいます。

 

日本の敗戦後の悲劇

1945年、日本の敗戦により、李垠夫婦に大きな悲劇が訪れました。

1947年、夫婦は王族としての立場が剥奪され、一般の在日朝鮮人となったのです。

 

日本政府からの援助が打ち切られ、李垠夫妻の生活は味わったのことのない大変苦しいものとなりました。

李垠は収入がない上に多額の税金を徴収され、邸宅や資産を売却しながら生活せざるを得ませんでした。

 

1952年、平和条約発効により、李垠夫婦は日本国籍を喪失、無国籍となります。

李垠は韓国への帰国を強く望みました。

 

しかし、大韓民国の初代大統領の李承晩は王位継承から外れた譲寧大君の子孫でした。

そのため、王政復活を警戒し、嫡流である李垠の帰国に難色を示したのです。

 

夫の李垠が倒れる

1957年、留学していた息子の李玖がマサチューセッツ工科大学を卒業したことを機会に、家族で米国生活を始めることにしました。

1959年3月、李垠が突然、脳血栓で倒れ、歩行困難になります。

5月、李垠夫妻は急遽、日本に戻ることを決意します。

 

韓国籍を取得、韓国生活を始める

1960年、李垠を敵視していた韓国大統領・李承晩が失脚しました。

李方子は政権を取った朴正煕大統領と帰国交渉をするため単身韓国へ渡ります。

そして、「二人の帰国を望む」との確約を取ることに成功しました。

 

1962年、李垠夫妻は韓国の国籍を回復、昌徳宮内に住居を構えて韓国での生活を始めることになりました。

このとき、夫は寝たきり生活、李方子は既に61歳でした。

 

李垠の死去と新たな生活

1970年5月、李垠がソウルの聖母病院で逝去しました。

李方子は日本に戻らず、韓国に帰化して障害児教育に取り組み始めます。

反日感情が強い時代でしたので、風当たりも強く、冷たい視線の中での活動になりました。

 

しかし、その活動は次第に功績が認められていき、1981年、韓国政府から「牡丹勲章」が授与されました。

また、韓国の人々からは韓国の母(オモニ)とまで呼ばれるようになります。

 

1989年4月30日、李方子が逝去、葬儀は韓国皇太子妃の準国葬として行われています。

享年87歳でした。

 

李垠と李方子の二人は今、仲良く陸墓「英園」に眠っています。

墓碑には、「茨の道を歩んだ人」を意味する「懿愍(ウィミン)」の文字が刻まれています。

 

まとめ

朝鮮最後の皇太子に嫁いだ梨本宮方子の生涯はまさに波瀾万丈の生涯でした。

しかし、決して障害に屈することなく、最後まで日本、韓国の両国に尽くした生涯でした。

 

李方子が異国の地「韓国」で、一人になってからも障害者教育に生涯を捧げたことには理由がありました。

夫・李垠との約束があったのです。

「韓国に帰国の機会があったら、不幸な子供のための仕事を残したい」と、

二人で語りあったと言います。

 

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