義慈王は百済最後の国王です。
次第に暴君化して百済を滅亡させた義慈王とはどんな王だったのか?
義慈王の家系図からご紹介します。
義慈王の家系図
義慈王の母親は新羅の真平王の娘・善花公主という説と百済貴族出身の沙宅王后という説があります。
母親は善花公主か沙宅王后か?
または、どちらも違うのか?
未だ議論が続いている状況です。
もし、義慈王が真平王の娘・善花公主の子供であるとすれば、善徳女王は義慈王の叔母さんにあたります。
宿敵の金春秋(武烈王)とも親族関係です。
<義慈王の家系図(母親が善花公主の場合)>
ドラマ「階伯」では、義慈王の母親は新羅の王・真平王の娘として描いています。
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義慈王はどんな王だったのか?
義慈王は、若い頃は品行方正で家臣からも慕われていました。
三国史記にも義慈王は親孝行な息子で「海東曽子(ヘドンジュンジャ)」と呼ばれたと書かれています。
「海東曽子」とは親孝行で有名な中国春秋時代の人物です。
しかし、新羅との戦いで連戦連勝すると、次第に傲慢な暴君になっていったといいます。
現代では、義慈王は「名君、暴君、平凡な王」など評価の定まらない王のようです。
義慈王プロフィール
義慈王は建国以来678年、31代続いた百済最後の国王です。
幼い頃から義理堅く、慈悲深いことから義慈と名付けられたといいます。
生年:599年
没年:660年
在位期間:641年-660年
姓:扶余
諱:義慈
父:武王
母:不詳
王后:恩古
義慈王は百済最後の王のため、死後贈られる諡(おくりな)がありません。
名前の扶余義慈から義慈王と呼ばれています。
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義慈王の家族
義慈王には6人の王子がいました。
孝(ヒョ)が恩古の子と言われていますが、他の子供については詳しいことは分かっていません。
晩年、義慈王は酒色に耽(ふけ)り、多くの側室を持ちました。
その結果、息子だけで40人以上の庶子がいたと言われています。
しかし、実際には実子だけでなく、親族の子供を含めて家族と称していたとの説もあります。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 武王 | 580-641 | 百濟第30代王 |
母 | 不詳 | ー | |
弟 | 翹岐 | 不詳 | 異母弟 |
長男 | 隆(ユン) | 615-682 | 母親は沙氏?太子を廃位 |
次男 | 泰(テ) | 不詳 | 最後まで泗沘城を死守 |
三男 | 孝(ヒョ) | 不詳 | 太子、母親は恩古 |
四男 | 演 | 不詳 | |
五男 | 豐/豐璋 | 不詳 | 倭国に人質 |
六男 | 勇/善光 | 不詳-693 | 倭国に人質、倭国に留まる |
義慈王の母親は、新羅の王・真平王の娘・善花公主という説と沙宅積徳の娘の沙宅氏であるという説がありますが、未だ決着がついていません。
義慈王の異母弟の翹岐については、義慈王の王子で日本に人質に出されていた扶余豊璋と同一人物とする説もあります。
子供の母親が誰であるか、兄弟の順番など、特に四男以降については正確には分かっていません。
644年に、太子に冊封されたのは隆でした。
しかし、百済滅亡時には孝が太子と記録されています。
これに関しては、655年頃、義慈王が恩古を寵愛し始めたころに、太子を隆から恩古の息子・孝に変えたとする説があります。
義慈王の母・善花王妃
史料に記載されている武王の王妃は「三国遺事」武王条に出て来る「善花公主」だけです。
「三国遺事 巻2 紀異2 武王」に武王と善花公主の出会いが記載されています。
しかし、三国遺事の信憑性に疑問を持つ人も多く、その真偽は未だ確認されていません。
詳しくは>>善花公主の家系図【ケベクのソンファ王妃は善徳女王の妹?】をご覧ください。
義慈王の妻・恩古は悪女だった
義慈王の妻が恩古(ウンゴ)として史料に記録されているのは「日本書紀」のみです。
「三国史記」や「三国遺事」に恩古の名前は見当たりません。
恩古は日本書紀では、王を惑わし、国を私物化して、百済を滅亡させた元凶として記録されています。
また、唐が百済を破ったときの記念として定林寺の五重石塔には、「義慈王は高潔な臣下を追放し、身内の妖婦を信じた」と刻まれた碑文が残されています。
身内の妖婦とは義慈王の妻・恩古(ウンゴ)を示していると思われます。
このように歴史史料には、恩古(ウンゴ)は百済を自滅させた悪女として記録されています。
詳しくは>>階伯(ケベク)のウンゴは実在した性悪女(しょうわるおんな)をご覧ください。
義慈王の生涯
599年、義慈王は武王の長男として生まれました。
母親は真平王の娘の善花公主という説と百済貴族出身の沙宅王后という説があります。
百済31代国王として即位
義慈王は632年に太子に冊封されました。
641年、先代の武王が亡くなり、百済31代国王として即位します。
義慈王は即位すると、それまでの貴族中心の政治運営から、王が直接政治運営する体制に切り替えていきます。
これにより、貴族の権力は弱体化していきました。
更に、義慈王は異母弟の翹岐とその母妹女子4人を含んだ高名な人たち40人を追放しています。
また、642年には倭国(日本)からの支援を得るために、王子の豊璋と善光を人質として倭国に送り込みました。
百済の躍進
642年7月、義慈王は単独で新羅に親征し、獼猴など40城余りを陥落させました。
642年8月、将軍の允忠が率いる兵1万が大耶城を陥落、降伏してきた城主・品釈と妻子を斬首してしまいます。
実は、このとき、斬首にした城主の妻は金春秋の娘の古陀炤公主だったのです。
これを聞いた金春秋の怒りは想像を絶するものがあったと思います。
その後、金春秋が唐と連合を組み百済を倒した原動力になったことは間違いありません。
新羅との死闘
644年から649年頃まで、百済と新羅は激しい戦闘を繰り返していきます。
651年に唐の高宗から新羅との和睦を進める詔書を送られますが、義慈王は新羅との戦いをやめることはありませんでした。
655年、百済は高句麗と組んで新羅の30城を奪い、百済の形勢が有利になっていきました。
この頃、義慈王は次第に自国の勝利に慢心し、驕慢になっていきます。
更に、酒色に走り、政治には無関心になっていました。
佐平の成忠(ソンチュン)は王に諫言しますが、逆に投獄されてしまいます。
このため、王に諫言するものはいなくなったと言われています。
百済の滅亡
660年、唐と新羅が同盟を組み、連合軍が百済への攻撃を始めました。
唐の高宗は蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金庾信の軍5万と連合して百済を攻めこみます。
まさか、唐が海を渡って大軍を送るとは思っていなかった義慈王は慌てます。
7月9日、黄山伐(ファンサンボル)の戦いで階伯が金庾信に敗れると、百済軍は総崩れとなっていきました。
7月12日、百済の国都の泗沘城が唐・新羅連合軍に包囲されます。
7月13日、義慈王は王子の泰に泗沘城を託し、太子の孝と熊津城に逃げ込みます。
しかし、まもなく泗沘城の泰が降伏しました。
7月18日、遂に義慈王が降伏して、百済の敗北が決定的になりました。
9月3日、蘇定方は勝利の代償として義慈王、王子、大臣、将軍ら88名と百姓12807名を人質として帰国しています。
その後、義慈王は唐の長安で病死したと言われています。
まとめ
三国統一を目指して、新羅と激しい戦闘を繰り返した義慈王でした。
しかし、次第に暴君化した義慈王は形勢が有利になると、酒色に走り、政治を顧みることがなくなりました。
最後は、唐と新羅の連合軍にあっけなく滅ぼされてしまいます。
そして、百済の滅亡には義慈王の王妃・恩古の邪悪さが関係していたと、過去の史料や碑文は伝えています。