純宗は朝鮮王朝最後の王です。
しかし、全ての権力を取られ可哀想なほど無力の王でした。
純宗について家系図から詳しくご紹介します。
純宗の家系図
純宗は第26代王・高宗と明成皇后の次男として生まれました。
高宗と明成皇后の間には4人の男の子と1人の女の子がいましたが、純宗以外は、全て1年以内に亡くなっています
<純宗の家系図>
高宗は王位継承とは程遠い位置にいましたが、第25代哲宗に跡継ぎがなかったことから、興宣大院君と神貞王后の政略により王位に就いていました。
【PR】スポンサーリンク
純宗はどんな王だったのか?
純宗は軽い知的障害があったとイギリスの探検家・イザベラ・バードが記録しています。
更に、1898年に毒入りのコーヒーを飲んだことで重度の障害を負ったとも言われています。
記憶力は抜群で、大変神経質な性格でした。
名目上の皇帝でしたが、もともと政務を行うには無理がありました。
純宗のプロフィール
生年:1874年2月8日
没年:1926年4月24日
享年:53歳
在位:1907年7月20日-1910年8月29日
名:坧(チョク)
字:君邦(クンバン)
諡号:文温武寧敦仁誠敬孝皇帝
廟号:純宗
父:高宗
母:明成皇后
正室:純明孝皇后
継室:純貞孝皇后
子女:なし
陵墓:裕陵
【PR】スポンサーリンク
純宗の家族
純宗は二人の王妃を迎えていますが、子供には恵まれませんでした。
純明孝皇后は11歳で純宗と結婚、世子嬪となっています。
純宗が皇太子になり、皇太子妃になりましたが、純宗の即位前に亡くなっています。
純明孝皇后の後に、皇后となったのが尹沢栄の娘(純貞孝皇后)ですが、二人の間にも子供はできませんでした。
毒入りのコーヒーの事件が要因とも言われています。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
正室 | 純明孝皇后 | 1872-1904 | 閔台鎬の娘 |
継室 | 純貞孝皇后 | 1894-1966 | 尹沢栄の娘 |
純宗の生涯
朝鮮王朝最後の王・純宗はどのような生涯を送ったのか、ご紹介します。
誕生から皇太子時代
1874年、純宗は高宗と明成皇后の次男として生まれました。
翌年の1875年には、朝鮮王朝最年少で王世子として冊封されています。
母親である明成皇后が清に働きかけての政略でした。
1882年、9歳のときに閔台鎬の娘(純明孝皇后)と結婚します。
純宗もまだ9歳でした。
1897年、国号が大韓帝国となり、純宗は王世子から皇太子と改称されます。
翌年の1898年に高宗と皇太子の暗殺未遂事件が発生、毒入りのコーヒーを飲んだ皇太子(純宗)が障害をもつようになります。
純宗が第2代皇帝として即位
1907年7月20日、高宗が日本の侵略を国際世論に訴える好機と考え、第二回ハーグ万国平和会議に三人の政府高官を派遣しました。
しかし、韓国は日本の保護下であると三人の政府高官の出席は拒否されます。
これを知った日本は協約違反と激怒、高宗を激しく責めました。
高宗はハーグ密使事件の責任を取って譲位、純宗が第2代皇帝として即位します。
可哀想なほど無力だった純宗
1907年のハーグ密使事件を切掛に、日本は第三次日韓協約によって、国政、立法権・司法権などへの干渉を強めました。
8月1日には軍事権も掌握します。
これにより、純宗は形だけの皇帝となり、その後、心身ともに衰弱し、一人では歩行が困難な状態になっています。
日韓併合により王に降格
1909年、韓国統監を辞職した伊藤博文が韓国の独立運動家安重根に暗殺される事件が発生しました。
日本はこの事件を好機として、1910年8月22日、日韓併合を実施します。
8月29日、大韓帝国は遂に、滅亡、朝鮮総督府が設置されて日本の植民地となりました。
純宗は皇族から王族と位置づけられ「李王」と称されます。
実質、皇帝から王への降格でした。
高宗は李太王と称されますが、危険な人物と見なされ軟禁状態となっています。
純宗の死
1919年2月21日、父・高宗が68歳で亡くなりました。
3月1日、大日本帝国からの独立を旗印に大規模な独立運動が起こりました。
三・一独立運動です。
朝鮮人の死者は数千人、負傷者は1万数千人に及んだと言われています。
1926年4月25日、純宗が52歳で逝去しました。
父・高宗のときのような独立運動は起こりませんでした。
まとめ
朝鮮王朝最後の王となった純宗は可哀想なほど無力の王でした。
しかし、国事多難の心痛から歩行が困難なほど心身ともに衰弱した純宗でしたが、日韓併合後は心身ともに回復したと言われています。
国が滅んでいく衝撃は純宗には耐え難いものだったと推測されます。